史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史歳時記豆知識』77・屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置

 屯倉3 (2)屯倉3『歴史歳時記豆知識』77・屯倉(みやけ)とは、ヤマト王権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記される。「官家」もミヤケと読まれることもあり、後に「郡家」はコオリノミヤケ、「五十戸家」がサトノミヤケと読まれた可能性がある。ミヤケのミは敬語、ヤケは家宅のことで、ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語である。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶようになった。屯倉は、直接経営し課税する地区や直接経営しないが課税をする地区も含むなど、時代によってその性格が変遷したらしいが、詳しいことは分かっていない。大化の改新で廃止された。屯倉制度は、土地支配でなく、地域民衆の直接支配である。管理の仕方や労働力は多様であり、屯倉の経営は古墳の発達と関係しており、概観すると5世紀を境に前期屯倉と後期屯倉に分かれている。前期屯倉は、顕宗(けんぞう)・仁賢(にんけん)朝以前にできたという伝承をもつ屯倉であり、その設置地域は、朝鮮半島を除き畿内またはその周辺部に限られている。たとえば『記・紀』にみえる倭(やまと)・茨田(まむた)・依網(よさみ)・淡路の屯倉、『播磨国風土記』にみえる餝磨(しかま)・佐岡の屯倉、『記・紀』や『風土記』にみえる縮見(しじみ)屯倉などがある。これらの屯倉は大王自らの力で開発され経営された。たとえば、倭屯倉は、垂仁朝や景行朝に大王自らが設置したと『記・紀』に伝えられているもので、その地は現在の奈良県磯城郡三宅町の地を中心とした一帯であると推定されている。このあたりの微高地に蔵としての屯倉を置き、周辺の低湿地を開発して田地とし、倭屯倉を造った。5世紀頃であると考えられている。また、大阪市住吉区我孫子あたりから松原市などにわたる一帯に、依網池を造成し、灌漑施設を造るなどして依網屯倉が造られた。また、屯倉は王室の財産であり、直接支配する土地であった。仲哀朝に置かれたといわれている淡路の屯倉は、田地ではなく大王の狩猟場であった。漁民や山民は直属の民として、狩猟での獲物や海産物を王室に納めた。加古川の上流三木市にあったといわれている播磨の宿見屯倉は、在地の土豪忍海部造細目を管理者として経営している。継体天皇22年(528九州糟屋屯倉が置かれ、続く安閑天皇期には関東以西の各地に数多くの屯倉が設けられた。安閑天皇元年(532)には伊甚屯倉をはじめ10個ほどの屯倉が、翌年には筑紫国に穗波屯倉・鎌屯倉の各屯倉、豊国に滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉など20個あまりの屯倉が設置されたことが『日本書紀』にみえる。『古事記』・『日本書紀』・『風土記』に記載されている屯倉の一覧[1]。該当の屯倉が記載されている天皇の段別に、所在地域名と屯倉名を記載。

 

 

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「浪速史跡巡り」四天王寺の六時堂は中心伽藍の背後に位置し、薬師如来坐像と四天王像を祀っています。

て天王寺q「浪速史跡巡り」四天王寺の六時堂は中心伽藍の背後に位置し、薬師如来坐像と四天王像を祀っています。

1623年建立であり、もともとはこの場所では無く、近隣の大江小学校の場所にあった椎寺薬師堂を移築したものです。

昼夜6回にわたって礼賛がおこなわれることから6時礼賛堂の名前が付けられました。

このお堂は納骨や供養などが行われる中心道場であり、大法要もここで行われるように、観光として重要なお堂というよりは寺院実務として重要なお堂といえます。

この日もたくさんの人が訪れていました。

『戦国時代の群像』51(全192回) 「細川 昭元」(1548~1615)戦国時代から安土桃山時代

 昭元『戦国時代の群像』51(全192回)

「細川 昭元」(1548~1615)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名阿波摂津丹波守護。第19細川京兆家当主。父は第34室町幕府管領細川晴元、母は六角定頼の娘。正室は織田信秀の娘で織田信長の妹・お犬の方。子に元勝(頼範)、円光院(秋田実季室)。幼名は六郎、聡明丸。のち昭元と名乗るが、一時期信長政権下では信元(のぶもと)、信良(のぶよし)と名乗っていた(最終的には昭元に名を戻している)。幼少期の天文21年(1552)、父が三好長慶と一時的に和睦した際に人質となる。 父が再び長慶と敵対すると管領細川氏綱と共に山城淀城に軟禁され、永禄元年(1558)に11歳で長慶のもとで元服した。永禄4年(1561)、実弟の細川晴之が六角・畠山軍に擁立され、将軍・足利義輝の命を受け近江国に於いて反三好の兵を挙げる(将軍地蔵山の戦い)が、戦死。永禄5年(1562)、父が長慶と和睦すると父子は久々の対面を果たしている(久米田の戦い)。永禄6年(15633月に摂津富田普門寺で病没した父の跡を継ぐものの、勢力は取り戻せず、管領であった氏綱の没後も管領職に任命されることはなかった。ただし、永禄8年(1565)の永禄の変で将軍・足利義輝が暗殺された後、足利義栄室町幕府14将軍に擁立する三好三人衆により名目上の管領として処遇を受けた。永禄11年(1568)、織田信長足利義昭を擁して上洛すると三人衆の筆頭である三好長逸と共に摂津芥川山城に籠城するも、三人衆派の他の城が織田軍に次々と落とされると9月30に城を捨てて長逸と共に阿波国へ逃亡、義栄の急死もあり義昭が15代征夷大将軍に任じられると敵対行動を続けた。元亀元年(1570)、野田城・福島城の戦いにおいて三人衆に加勢して当初は織田軍と対峙した。同年に三人衆と信長が和睦すると、翌元亀2年(157112月17に上洛、やがて義昭に対し臣下の礼をとり、京兆家歴代の慣例として義昭より一字拝領を受けて昭元(あきもと)と名乗った。義昭より重用され、三好勢力が後退した後の名目上の摂津の旗頭とされた[1]。名門の出身であった昭元はしばしば外交官としての役割を果たしている。四職家の当主でもある丹後国一色義道が義昭に臣従し、誼を求めて信長との面会を求めたとき昭元はこれに立ち会い、ともにを見物した。信長の勢力下では、元亀3年(1572)に摂津で本願寺坊官下間頼龍下間頼純と交戦して敗北したり、翌元亀4年(15732月17に反信長派の三好義継松永久秀らに居城の摂津堀城を落とされるなど武功には恵まれなかったが、足利将軍家に次ぐ武門の名門であったため、信長の傀儡として最大限に利用されることとなる。7月に義昭が追放された時、昭元は京都に留まり、義昭が去った後の槇島城京都府宇治市)を任された。槇島城は山城の守護所だったので、信長は昭元を山城守護に任じることにより山城における将軍権力を否定したともいわれている。京兆家当主である昭元の存在は、義昭が去った後の織田政権にとり、重要な存在となった。同族の細川藤賢近江坂本城を任されている。天正3年(1575)には信長の推挙により、正式に右京大夫に任じられる。このことにより京兆家当主として朝廷からも認められた。天正5年(1577)には羽柴秀吉の尽力により、信長の妹・お犬を娶り、信長からの偏諱を受けて信元(のぶもと)、さらに信良(のぶよし)と名を改めた。お犬の方にとっては2度目の結婚であり、信良よりも年長であった。以後、織田家の親族として織田政権内で厚遇されることとなるが、反対に信長は「京兆家当主の義兄」として立場を手に入れることとなる。信良はさらに丹波の桑田郡船井郡の支配を許され、名目上丹波の旗頭の地位を委ねられた。しかし丹波支配の実権は、しだいに信長の家臣明智光秀に移っていった。天正9年(1581228日に正親町天皇の御前で信長が行った京都御馬揃えにも公家衆の一人として参加している。天正10年(1582)の本能寺の変の直後、正室のお犬の方とは死別した。変後から天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国攻めまでの間にかけて、本来は細川氏の家臣の家系であった長宗我部氏と阿波において連絡を取りあい、秀吉に抵抗した記録が残されている。しかし、やがて秀吉に属し、名を再び元の昭元に戻した。関白となった秀吉から貴人の1人として遇され、斯波義銀山名豊国らと共に御伽衆に加えられた。ただし、本願寺法主顕如の元へ身を寄せていたともいわれ、天正17年(15893月9に京都聚楽第の壁に書かれた落書の犯人が本願寺寺内町に逃げ込んだ事件で、斯波義銀・尾藤知宣と共に逮捕、後に釈放されたとされる[5]。晩年は不詳の部分も多いが、天正20年(1592年)に病没したと伝わる。子孫は三春藩秋田家の家老である年寄衆より上席として、大老または城代として代々勤めた。

 

 

 

『歴史の時変変遷』(全361回)124”文正の政変“ 「文正の政変」文正元年(1466)9月6日に室町幕府8代将軍足利義政の側近伊勢貞親と季瓊真蘂らが諸大名の反発で追放された事件である

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「文正の政変」文正元年(14669月6室町幕府8将軍足利義政の側近伊勢貞親季瓊真蘂らが諸大名の反発で追放された事件である。この政変で義政は側近を中心とした政治を行えなくなり、残った諸大名は応仁の乱を起こしていく。将軍足利義政は将軍の専制政治を確立しようとして乳父で政所執事伊勢貞親と鹿苑院蔭涼軒主季瓊真蘂を登用、諸大名の介入を行った。享徳3年(1454)に畠山持国の息子義就と甥の政久が争い細川勝元山名宗全が政久を支持した時、義政は義就を支持、宗全を隠居させた隙に義就が上洛、翌年の持国死去の家督相続を認め近臣に取り立てた。また、不知行地還付政策寺社本所領の回復及び守護と国人の繋がりの制限を図る一方、関東で反抗した古河公方足利成氏討伐のため越前尾張遠江守護斯波義敏奥州の大名に動員を命じた。ところが、それらは頓挫していった。義就は義政の意向と称して政久追討をしながら大和の軍事介入と土地の横領をしたため義政の信頼を失い、宗全が復権した影響もあって寛正元年(1460)に家督を政久の弟政長に替えられ吉野に没落、勝元の支持を受けた政長は寛正5年(1464)に勝元の後任の管領に就任した。関東の派遣も義敏と執事の甲斐常治が越前で長禄合戦を起こし、義敏が命令に従わず越前の常治派討伐を優先したため、義政は義敏を追放、義敏の息子松王丸を当主に交替させたが、斯波軍が関東に出陣しなかったため奥州の諸大名の信用を失い、以後奥州大名は幕府の命令に従わず関東に出陣しなかった。義政は相次ぐ政策の失敗により方針を転換、派閥の結成を目論んだ。寛正2年(1461)、義政は斯波氏の家督を交替させて松王丸を廃立、遠縁で渋川氏出身の義廉を当主に据えた。この意図は義廉の父渋川義鏡が幕府によって新たな鎌倉公方として関東に送られた義政の異母兄の堀越公方足利政知の執事であり、寛正元年の駿河守護今川範忠の帰国で戦力が減った影響から義鏡を斯波氏当主の父として斯波軍を動員できるようにする狙いがあった。だが、寛正3年(1462)に義鏡が関東で幕府方として古河公方と対峙していた扇谷上杉家相模の権益を巡って対立、失脚したためその意義が薄れていた。寛正4年(1463)、母の日野重子の死去で大赦を行い、義就と義敏を赦免した。更に寛正6年(146510月、勝元の要請で伊予河野通春討伐に逆らい通春を支援した大内政弘に討伐命令を下したが、密かに政弘を支援した上、政弘の元にいた義敏に貞親と真蘂を通して上洛を命じ、12月29に上洛した義敏は翌30日に実父の斯波持種とともに義政と対面(『蔭涼軒日録』、『大乗院寺社雑事記』は対面を29日のこととする)して名実とともに赦免をされることになるが、これを知った義廉が義政に迫って30日付で義廉が引き続き領国を支配し、義敏の被官が勝手な行動をすることを禁じる幕府の奉行人奉書が出された。奉書を受けた興福寺(越前国内に荘園を持つ)の尋尊は義政の行動について「上意の儀太だ其意を得ず」と困惑を表明している。翌文正元年(14667月23に家督を義廉から義敏に交替、7月30に政弘も赦免した。一連の行動の真意は、幕府に逆らい一旦敵となった3人を赦免することで勝元と宗全の大名連合に対抗、幕府派に取り込む意図があった。だが、義廉はこの義政の計画に反発、大名家との派閥結成を目論んだ。義廉は関東の堀越公方補強のために斯波氏当主に置かれたが、上記の通り実父義鏡が失脚したことと、義政から斯波氏の同族である奥州探題大崎教兼との取次を命じられたが成功しなかったため、義政はかつて大崎教兼と取り次いでいた義敏の復帰を考え赦免した。危機感を抱いた義廉は義敏復帰と自分の廃立を阻止するため、諸大名の結びつきに奔走した。寛正69月21、義政は春日大社の社参で大和に下向したが、義廉も家臣の朝倉孝景と共に同行した。この時に大和の国人で義就を支援していた越智家栄が義政と対面、同年8月に挙兵した義就に朝倉孝景が太刀を送り、翌年の5月に義就派の大和国人古市胤栄が義廉の被官となっているため、赦免されたものの逼塞していた義就を取り込み、春日社参の裏で越智家栄・古市胤栄と繋がりを持ったと推定されている。8月に伊予に渡海した大内政弘が幕府に逆らったことも、政弘の義理の祖父に当たる山名宗全が連携、越智家栄の仲介で義就と繋がったと見られ、文正元年8月に宗全の娘と義廉が婚約、山名派の結成が進められた。斯波氏当主の交替に反発した宗全は一色義直土岐成頼と共に義廉を支持したが、8月25、義政は斯波氏当主となった義敏に越前・尾張・遠江3ヶ国の守護職を与え、義敏・松王丸父子は出仕した。ところが9月5夜に義政の弟義視が細川勝元邸に入り、伊勢貞親が義政に讒言して自分を殺害しようとしていると勝元に訴えた。翌6日に勝元は出仕、義政に申し開きをして貞親と季瓊真蘂、義敏と赤松政則は京都から逃げた。義敏は家督問題で貞親・真蘂と繋がり、政則は真蘂と同族であり、赤松氏再興に真蘂が関わっていたからとされる。

「西国観音三十三所巡り」清水寺・”西国16番札所“京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山。本尊は千手観音

 き清水寺5 (1)「西国観音三十三所巡り」清水寺・”西国16番札所“京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山。本尊は千手観音、開基は延鎮である。清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦十七年(798)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。宝亀九年(778)、大和国興福寺の僧で子島寺 で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士という白衣の修行者がいた。年齢二百歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三所観音霊場の第16番札所である。清水寺は法相宗(南都六宗の一)系の寺院で、広隆寺鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の一つである。また、石山寺長谷寺などと並び、日本でも有数の観音霊場であり、鹿苑寺嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地で、季節を問わず多くの参詣者が訪れる。また、修学旅行で多くの学生が訪れる。古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。清水寺の宗旨は、当初は法相宗で、平安時代中期からは真言宗を兼宗していた。明治時代初期に一時真言宗醍醐派に属するが、明治十八年(1885年)に法相宗に復す。昭和四十年(1965年)に当時の住職大西良慶が北法相宗を立宗して法相宗から独立した。その二年後の宝亀十一年(780)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂758 - 811)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧は毘沙門天地蔵菩薩の化身の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦十七年(798)、田村麻呂は延鎮と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。延暦二十四年(805)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げ、『源氏物語』「夕顔」の巻や『今昔物語集』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。清水寺の伽藍は康平六年(1063年)の火災以来、近世の寛永六年(1629年)の焼失まで、記録に残るだけで九回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年(1165年)には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡している。文明元年(1469)には応仁の乱の兵火によって焼失し、その再建のために時宗僧の勧進聖願阿弥が迎え入れられた。願阿弥は清水寺入寺以前に橋や寺堂の再建、救恤といった事業に従事しており、その際に率いていた勧進集団や要人との人脈をもって再興事業に臨んだ。願阿弥自身は再興の完遂を見届けることなく世を去ったが、願阿弥の率いた勧進集団は寺内に地歩を築き、本願成就院として近世にいたる本願の出発点となった。現在の本堂は上記寛永六年の火災の後、寛永十年(1633)、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。豊臣秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し、徳川幕府になってもこの寺領が継承された。の清水寺は「三職六坊」と呼ばれる組織によって維持運営されていた

「神仏霊場巡り」生國魂神社・古代より上町台地に鎮座する。難波大社と呼ばれ、創建は神武天皇が東征の時に難波津

い生玉神社E「神仏霊場巡り」生國魂神社・古代より上町台地に鎮座する。難波大社と呼ばれ、創建は神武天皇が東征の時に難波津に上陸されたときに神武天皇が、国土の神である生島神、足島神を今の大阪城辺りに祀ったのが始まりと伝わる。飛鳥時代、孝徳天皇の時代には神域であった事を日本書紀が伝え祭神の生島大神、足島大神大八洲の御神霊と記されている。平安時代には宮中に於いても生島巫によって祀られ、難波の海浜での古代祭祀「八十島祭」の主祭神である。当初は今の大阪城辺りに祀られていたが、信長とも一向宗の石山合戦によって焼失したために豊臣秀吉が大阪城築城のときに現在の地に寄進したと伝えられている。その時に造営された社殿は千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風の三重に破風を乗せるといった様式であった。所が大坂夏に陣で出炎上焼失した。その後徳川の世で秀忠が再建したが太平洋戦争の空襲で焼失した。戦後昭和二十四年に木造の社殿を再建されたが、翌年にジエーン台風で倒壊し昭和三十一年に鉄筋コンクリートの生国魂造りの本殿を再建された。「いくたま夏祭」は生玉、天満、住吉と大阪三大祭である。広い境内には池や庭園に様ざま石碑がこの神社の由緒、社格を物語り、上方芸能文化発祥の地として、上方落語の始祖、米澤彦八を顕彰する「彦八まつり」も知られている。摂社も十一社を数え淀君を祀る守護神「鴫野神社」や近津門左衛門を始め文楽の関係者を祀る「浄瑠璃神社」が鎮座している。

 

『社寺神仏豆知識』66・神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり)は宮中祭祀のひとつ。大祭。五穀豊穣

 kannname 1官滑絵⑤『社寺神仏豆知識』66・神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり)は宮中祭祀のひとつ。大祭五穀豊穣の感謝祭にあたり、宮中および神宮(伊勢神宮)で儀式が行われる。また、祝祭日の一つで、季語でもある。宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が行われる。かつては911旧暦)に勅使に御酒と神饌を授け、917(旧暦)に奉納した。1873明治6年)の太陽暦採用以降は新暦917に実施となったが、稲穂の生育が不十分な時期であるため、1879(明治12年)以降は月遅れとして1017に実施されている。古来より神嘗祭には皇室から神宮へ幣帛使が派遣されたが、応仁の乱以降は中断も多かった。しかし、1647正保4年)に幣帛使の発遣が復活して以降は中断なく派遣が行われている。1871(明治4年)以降は皇居賢所でも神嘗祭の儀式が行われた[1]。神嘗祭の儀式に先立って、天皇宮中三殿の神嘉殿南庇で神宮を遥拝する。1908(明治41年)919制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定。同法は1947昭和22年)52に廃止されたが、以降も宮中および神宮では従来通りの神嘗祭が行われている。「神嘗」は「神の饗(あえ)」が変化したと言われる。「饗え」は食べ物でもてなす意味である。また、饗は新殻を意味する贄(にえ)が転じたとする説もある。神宮では、神嘗祭のときに御装束・祭器具を一新する。神宮の正月ともいわれる。神宮の式年遷宮は、大規模な神嘗祭とも言われる。神宮では、式年遷宮後最初の神嘗祭を「大神嘗祭」とも呼ぶ。伊勢の民衆は、この祭りを「おおまつり」と呼び、奉祝の行事を行う。神宮の神職や伊勢の神領民はこの祭りが終わるまで新穀を口にしないとされる。また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、1874(明治7年)から1947年(昭和22年)まで同名の祝祭日休日)であった。上述の稲穂の生育が不十分であることによる変更に伴い、1878年(明治11年)までは917日、1879年(明治12年)からは1017日となる。

『河内史跡巡り』元善光寺・当山は不断山善光寺として一光三尊の阿弥陀如来を本尊としている。元善光寺

 も元善光寺2 (1)『河内史跡巡り』元善光寺・当山は不断山善光寺として一光三尊の阿弥陀如来を本尊としている。元善光寺とも呼ばれている。本田善光が難波の堀江で阿弥陀如来を会得し信濃に帰る途中ここに一泊し、その分身を祀り、庵を建て、翌年再び訪れて当山を建立したという。全国元・新善光寺の中で唯一融通念仏宗である。本田善光については欽明天皇の御代に百済より仏教とともに、一光三尊阿弥陀如来が伝わった。仏教を導入に崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の争いで如来仏は難波の堀に捨てられたものを、本田善光が仏像を持ち帰ったことに始まる。元善光寺の伝説には信州に帰る途中にこの地に寄ったと伝えから由来が始まった。

『戦国時代の群像』50(全192回) 「丹羽 長秀」(1535~1585)戦国時代から安土桃山時代

丹羽2『戦国時代の群像』50(全192回)

「丹羽 長秀」(1535~1585)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名織田氏宿老。天文4年(1535920日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は天文19年(1550)から織田信長に仕えた。天文22年(1553)、梅津表の合戦にて19歳で初陣。弘治2年(1556)の稲生の戦いでは信長方に付き、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いにも今川義元の攻撃部隊には入っていないものの従軍はしている。『信長公記』などから斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江六角氏征伐で武功を挙げた(観音寺城の戦い)。姉川の戦いの直後から信長は8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(15712月24に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となった[2]天正元年(15739月、長秀は信長より若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。若狭国内での当初の大まかな知行宛行は遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋氏、大飯郡が逸見氏であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。この頃の長秀の家臣として溝口秀勝長束正家建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明粟屋勝久逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられた。更に軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても長秀が担っていた。なお、大飯郡は逸見昌経の死によって、溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受けた。本能寺の変に際して若狭では武田元明が明智方について没落したのに対し、粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は長秀の支配下に入り、家臣となった。その後も長秀は高屋城の戦い長篠の戦い越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城の普請奉行を務めるなど多大な功を挙げている。天正9年(1581)には、越中木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となった。同年の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。また天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っている。家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた[4]。 ただし軍事的な面では、独立した軍を持つ柴田勝家・滝川一益明智光秀羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。信長の死の時点でも信長の三男で四国方面軍司令官・織田信孝を補佐する立場にあり、仮に実質上は司令官的な立場だったにしても、名実とも各方面軍司令官に就いていた上記4人よりは劣った待遇となっている。天正10年(15826月、三好康長蜂屋頼隆と共に織田信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられる。また、上洛中の徳川家康が大坂方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀者とみなして殺害した[5]。その後、信孝と共に羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した[7]清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫・三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前敦賀郡南条の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大々名となった。天正13年(1585416日、胃癌のために死去した。享年51。跡目は嫡男の長重が継いだ。

 

 

『歴史の時々変遷』(全361回)123“武衛騒動” 「武衛騒動」寛正6年(1465)に発生した室町幕府の内紛のことである

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『歴史の時変遷』(全361回)123“武衛騒動”

「武衛騒動」寛正6年(1465)に発生した室町幕府の内紛のことである。将軍家家宰伊勢貞親8将軍足利義政の信任を良いことに、管領家の一つ斯波氏(武衛家)のお家騒動に介入し斯波義敏斯波義廉の間をとりなして私腹を肥やし、幕政を混乱に陥れた。将軍家家宰の身分でありながら管領家家督に口をはさむ貞親の横暴に激怒した有力者細川勝元山名宗全は協力して文正元年(1466)に貞親を幕府から追放した(文正の政変)。背景に、次期将軍を予定されていた足利義視の排斥問題も絡んでいると伝えられる。また、当時関東で反抗していた古河公方足利成氏征伐軍の組織の為に家督交代を繰り返したとも推測される。関東における幕府の出先機関の堀越公方足利政知は直轄軍を持たない為、幕府は斯波軍を関東に派遣しようとしたが、義敏が命令違反をして執事の甲斐常治と合戦に及んで廃嫡されると(長禄合戦)、義敏の子松王丸を家督とした。しかしその後、政知の執事渋川義鏡の子義廉が新たに家督になったのは、渋川義鏡が斯波軍を操れる立場にする狙いがあったとされる。ところが、義鏡が扇谷上杉家と対立、失脚すると義廉の家督の意味はなくなり、再び義敏中心の遠征軍を作り出そうとして復権を画策したのが貞親だとされる。一方的に廃嫡された義廉や宗全一派は反撃に打って出て貞親と季瓊真蘂、義敏や赤松政則を追放、計画は失敗した。後に勝元と宗全が対立し応仁の乱が勃発すると、義敏父子と政則は将軍義政を戴く東軍に属し、それぞれ武衛家家督・赤松氏家督及び守護職を奪還し、貞親と真蘂も赦免されて帰京するなど、それぞれ復権した。ただし貞親と真蘂に活躍の場は与えられず、真蘂は文明元年(1469)に、貞親は文明5年(1473)に世を去る。

 

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趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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