京都古社寺探訪「宝徳寺」京都は清水寺の急な参道に面して無常寺として、本尊厄除け阿弥陀如来を脇檀に魚藍観世音菩薩

ほ宝徳寺m (2)京都古社寺探訪「宝徳寺」京都は清水寺の急な参道に面して無常寺として、本尊厄除け阿弥陀如来を脇檀に魚藍観世音菩薩を安置する。創建は定かではないが、中興の関山は徳空上人歴代相承して今日にいたる。本尊阿弥陀如来は、聖徳太子推古天皇一六年宮中において、無量壽経を講説され「神力大光を演べて、普く無際の土を照らし、三苦の闇を削除した」これ文有り深く信じて、四二歳の厄年、厄除け守護の本尊として刻みし例像と信仰されている。

「二十二社巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物おおもの主ぬし大神おおかみ 奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社

お大神神社3「二十二社巡り」大和国一ノ宮・大神神社・主祭神大物(おおもの)(ぬし)大神(おおかみ)

奈良県桜井市三輪1422・大和国一ノ宮・式内社・旧官幣大社・神武東征の以前よりこの地域纏向一帯に勢力を持った、先住氏族の磯城彦(しきひこ)が崇拝し、代々族長によって引き継がれた磐座(いわくら)祭祀(さいし)の儀式が行われたと思われている。皇室の崇敬も深く融和の為に外戚関係にあった。旧来は「大神大物主神社」と呼ばれてきた。大神神社には本殿がない、三輪山自体が神体としており、江戸時代に造営された拝殿から三輪山自体の御神体を仰ぎ見る「古神道」(原始神道)の形を残している。三輪山の祭祀は山や山麓に留まらず、初瀬川、巻向川に挟まれた地域から望拝して行われた。大神氏の同族は各地に点在し活躍したことは国史によって知られることで、天平神護元(765)神封一六〇個の内、大和三五戸、摂津二五戸、遠江十戸、美濃五十戸、長門三十戸、と各地に神封を得ている。また各地にミワ神社が祀られている理由が窺える。『延喜式』には名神大社、月次、相嘗、新嘗などの祭の幣を預かる。中世には大和国一ノ宮として二十二社の一に数えられ朝野の崇敬を受けた。拝殿の奥には三つ鳥居は明神鳥居三つを一つに組み合わせた特異な形をしている。鳥居から辺津磐座まで禁足地で、4,5世紀の布留式土器、須恵器など勾玉、臼玉などは出土され、大半の須恵器は堺市の泉北古窯で焼かれたことが判明され、何らかの関係が有ったのかと思われている。

『古事記』に大国主神が国造りに少彦名神と共に精を出して平定をしていたが、ある時、少彦名神は常世国に行ってしまい途方に暮れておる時に海原の彼方から現れた「幸魂奇魂」であり、大和国の東方の山に祀れば国造りを手伝いと言った。その山とは三輪山(御諸山)に鎮座する大物主神であった。★『古事記』の説話に崇神天皇の御世に、疫病が盛んに流行って、国民が絶えてしまう程であった。天皇は心配され、神の信託を得ようと床に就かれ眠ろうとされた夜に、大物主神の御夢にはっきりと現れて「この疫病は、私が引き起こしたもので、()()多々(たた)()()によって、私を祭ってくださるならば、国も安らかになるであろう」とお告げがあった。そこで早馬の使者を四方に分けて出し、()()多々(たた)()()と言う人を探し求めたところ、河内国の美怒村でその人見つけた、そしてその人を献上した。天皇はその人に「お前は誰の子だ」と尋ねられた。するとその者は「私は大物主神が、陶津(すえつ)(みみ)(みこと)の娘の活玉依(いくたまよりびめ)と結婚をして生んだ子の、名は(くし)御方(みかた)(みこと)の、またその子の(いひ)(かた)()()(みこと)、さらにその子の建甕遣(たけみかずち)(みこと)の子が、私を含め意富多々泥古であります。」と答えた。これを聞き天皇はたいそう喜ばれて「これで天下泰平になる、人民は栄えるであろう」と意富多々泥古命を神主として、御諸山(みもろやま)に、大三輪神社の神である大物主神をお祭りになったと言う。★【古事記』この美和の大物主神の説話については大和の国津神と征服者の天津神の融合と一般的に考えられる。この融合は新旧の勢力の対立から起きた、禍を指すのかもしれない。三輪神社に伝わる説話にこんな話がある。【オオタタネコがオオモノヌシの子孫であると云い伝える物語がある。あおのイクタマヨリビメは容姿端麗な美人だった。ところが夜半になると、鍵音もなく忍び寄る男がいた。見れば容姿も良く、二人はたちまち相思相愛の仲になり、親の目を盗んでは同棲生活をした、その内姫は妊娠をしてしまった。当然のことながら、娘の異変に気付いた両親は「お前は身籠ったようだが、どうしてそのようになったのか」と問い詰めた。「名前は知りませんが、毎夜私のもとにやって来て、一緒に過ごすうちに、何時の間にか出来てしまったのです」姫は答えた。】これはオオタタネビコを三輪のオオモノヌシの子孫とする系譜に伝わる話である。因みに三輪の地名に、麻糸が三輪残ったので、美和(三輪)と名付けた。★天津神の子孫は、国譲りで、国つ神の葦中国を得たので、その恨みや不満での禍を恐れた、そのための国津神の御霊を癒す試みを、子々孫々の融合を考えられた。【イクタマヨリヒメは容姿端麗な美人だった。毎夜姫の所に通う美男子に相思相愛、たちまち子供を宿り、親に発覚、男の素性を知りたく、麻糸を男に付け、床に赤土を巻いたが痕跡は出てこなかった。糸を手繰って行くと三輪山に辿り着き、三輪神社の神のオオタネヒコであった話である。】☆もう一つオオモノヌシ伝説に孝霊天皇の皇女のヤマトトトヒモモソヒメがオオモノヌシの妻になった話、【崇神紀に皇女ヤマトトヒモモヒメガオオモノヌシの妻となった時に、神の姿を櫛箱に入っている子蛇を見て驚いて叫ぶと、辱められたと、怒って三輪山に帰ってしまった。姫は箸で陰(ホト)を突いて急死をした。】そしてその墓が箸塚古墳で今一番卑弥呼の墓として注目されている。この説話はこの地の豪族が征服した王族に服従したことになぞらえたのかも知れない。

◎上記の『古事記』の説話を見ても大神神社が「国つ神」の代表として影響力を持っていたかが窺い知れる。

 

 

『歴史歳時記豆知識』76・鎮護国家(ちんごこっか)は、政府が仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策、または、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。思想

 tinngo.jpg『歴史歳時記豆知識』76・鎮護国家(ちんごこっか)は、政府仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策、または、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想。思想としては『仁王護国般若波羅蜜経』や『金光明最勝王経』に説かれているが、この経典を供養することで国家が守護されるとされているところから、南北朝時代中国奈良時代日本で盛んに仁王会最勝会などの法要が行われた。また、鎌倉時代には、時代の転換期であり、また蒙古の襲来など、社会情勢が不安定であったことから、栄西の『興禅護国論』、日蓮の『守護国家論』、『立正安国論』など、鎌倉新仏教の開祖たちによって、仏教の思想(自派の教義)こそ国を救うものであると盛んに説かれている。特に、日蓮は立正安国論の中で盛んにこれを喧伝し、政府による国立戒壇の建立によって国家と人々は救済されると説く。近年では、「国家仏教 (こっかぶっきょう)」という表現が使われることもある。これは国家権力と結び、国家の保護・支配下におかれた仏教。僧侶は僧尼令の規制を受ける国家公認の官僧のみが認められ、許可なく得度する僧(私度僧)は禁じられた。また、僧尼を統括する僧綱という官職が設けられた。官寺が多く建てられ、鎮護国家の法会を行った。と解説されている。しかし、実際のところ歴史学者仏教学者の間でも何をもって「国家仏教」と定義づけるのかについては統一した見解が出されているわけではなく、また「国家仏教」という表現そのものが古代仏教の実態を反映しておらず不適当とする考え方もある。まず、鎮護される国家によって官寺と呼ばれる寺院の建立・維持が行われて国家と皇室の安泰を祈るための法会が行われたという事実は存在する。しかし、その政権が仏教の国家宗教化を意図した具体的な政策例は存在せず、道教神道などの他の宗教の主流が弾圧を受けた事実が存在しない。また、僧尼令や僧綱についても官寺以外に対してどこまで適用されたかについても議論がある。僧尼令や僧綱が官寺・官僧を厳格に統制していたのは事実であると考えられている。だが、僧尼令制定以前から私寺は建立され続けており、このうち貴族豪族氏寺はともかく、村々の住民が信仰の中心として建てた小規模な寺まで実際に監督することが可能であったのかについては疑問が残されている。実際、日本の僧尼令では僧尼が私寺を建立することは禁じたものの、その他の私寺に関しては平安時代延暦年間の太政官符において初めて規制されたことなどは僧尼令や僧綱の対象が僧尼であって仏教そのものを対象にした法令ではなかった事実の反映である。更に正史などの記録や『日本現報善悪霊異記』のような仏教説話には僧尼令の規定とは違った僧尼の姿が描き出されている[3]。更に私度僧についても課役忌避のための出家に対しては処罰されたものの、修行の実績がある私度僧には却って得度を許して官僧へ取り込む措置すら取られている。鎮護される国家において仏教が保護されて官寺が建立されてその監督体制が整備されて国家と皇室の安泰が祈願されていたのは事実であるが、室町幕府五山江戸幕府寺院諸法度と比較しても、それを「国家仏教」とまで呼べるのかについては議論が残されている。

『河内史跡巡り』大聖勝軍寺・大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山。開基は聖徳太子、本尊は植髪太子

 だ大聖勝軍寺w (1)『河内史跡巡り』大聖勝軍寺・大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗仏教寺院。山号は神妙椋樹山。開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。地元では単に「太子堂」と呼ばれている。由来については用明天皇の御代に排仏派と崇仏派が戦った古戦場であった。大聖勝軍寺は戦勝記念の寺である。587、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。594推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。756聖武上皇から鎮護国家寺の称号を贈られ、勅願寺に定められる。

『戦国時代の群像』49(全192回) 筒井 順慶」(1549~1584)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。得度して順慶と称

筒井1『戦国時代の群像』49(全192回)

筒井 順慶」(1549~1584)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名。得度して順慶と称する前は、室町幕府13将軍足利義藤(後の義輝)偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和郡山城主。事績については『多聞院日記』に詳らかに記述されている。大和国戦国大名筒井順昭の子として生まれた。 母は山田道安の娘・大方殿。天文19年(1550)、父が病死したため、叔父の筒井順政の後見の元、わずか2歳で家督を継ぐこととなる。当時の大和は「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏箸尾氏十市氏や僧兵を擁した興福寺の勢力が強く守護職の存在しない国であったが、永禄2年(1559)から三好長慶の寵臣である松永久秀が侵攻し、永禄5年(1562)には筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。更に永禄7年(1564)には叔父の順政は死去してしまう。翌永禄8年(15658月、三好三人衆松永久通の軍勢が将軍足利義輝を暗殺したが(禄の変)、同1116日、松永久秀と三次三人衆は決裂してしまう。松永久秀は急遽、後ろ盾を無くした順慶の基盤が揺らいでいる所に奇襲を仕掛け、同1118日、順慶は居城・筒井城を追われている(筒井城の戦い)。この時、箸尾高春・高田当次郎といった麾下の勢力が順慶を見限り離れている。居城を追われた順慶は、一族の布施左京進のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。一部の史料は河内国へ逃れたと伝えるが、あまり信憑性はないと言われている[2]。筒井城を奪還した順慶は春日大社に参詣した。この時、宗慶大僧都を戒師として藤政から陽舜房順慶と改名した(正式に順慶を名乗るのはこの時から)。翌永禄10年(1567)には再び三人衆や篠原長房と結んで奈良にて久秀と刃を交えている(東大寺大仏殿の戦い)。この頃、織田信長の台頭が著しくなり、永禄11年(1568)に15将軍足利義昭を擁立して上洛、三人衆を駆逐して影響力が畿内一円に及ぶようになる。機敏な松永久秀は迅速に織田信長・足利義昭と誼を通じたが、対する順慶は久秀の打倒に専念するあまり、情報収集が遅滞した。時流に乗ることに遅れた順慶を見限り、菅田備前守などの家臣が順慶から離反している。そして、足利義昭から大和の進退の一任を得た松永久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫った。順慶は奮戦したが衆寡敵せず、叔父の福住順弘の下へと落ちのびた。福住城に潜伏して雌伏の時を過ごしていた順慶だが、元亀元年(1570)に十市遠勝の死によって内訌を生じた十市城を攻め落とす。さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀と渡り合う為に着々と布石を打っていった。元亀21025日、順慶は明智光秀の斡旋をもって信長に臣従し、久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従したので、同年11月1、佐久間・明智が来て取きめ、両者は和睦した。対する久秀は同じく信長と反目するようになった将軍・足利義昭などと結託するようになり(信長包囲網)、久秀と和議を結んだ順慶は、北小路城に久秀・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた[要出典]。元亀4年(1573)になると4月に信玄が病死、7月に義昭が槙島城の戦いに敗れて京都を追放され、それを匿った義継も11月に信長に討伐されると(若江城の戦い)、12月、松永久秀も多聞山城を落とされ降伏した。この頃には順慶は織田信長に接近していたと見られ、松永方となっていた河内私部城を陥落させている。翌天正2年(1574)正月、久秀は岐阜城に伺候しており、同じ月に順慶も岐阜を訪れ織田信長に拝謁している。また同323日、信長の臣従に際しその証として母親を人質として差し出している[9]。その後、順慶は信長傘下として主に一向一揆討伐などに参戦して活躍した。三好義継討伐では先陣を務め、天正3年(1575)の長篠の戦いにおいては信長に鉄砲隊50人を供出、同年8月の越前一向一揆攻略にも5,000の兵を率いて参戦した。翌天正4年(15765月10、信長により大和守護に任ぜられた。5月22には、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬や馬を賜っている。天正5年(1577)、順慶は他の諸将と共に反乱を起こした雑賀一揆を鎮圧した(紀州征伐)。同年、久秀が信長に対して再度謀反を起こすと、信貴山城攻めの先鋒を務めている(信貴山城の戦い)。手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。10月10、遂に城は陥落、久秀父子は自害して果てた。信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと『大和軍記』は伝えている。また、『大和志科』は、久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。久秀父子の滅亡もあって、天正6年(1578)に大和平定が果たされた。同年、信長の命令により龍王山城を破却している。同年4月、播磨攻めに参戦。6月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。帰国後の10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を鎮圧。天正7年(1579)には、信長に反旗を翻した荒木村重が篭る有岡城攻めに参加した(有岡城の戦い)。天正8年(1580)、居城を筒井城から大和郡山城へ移転する計画を立てていた所に、信長より本城とする城以外の城の破却を促す通達が寄せられる。順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移転した。筒井城から大和郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。同年、やはり信長の命令により大和一帯に差出検地を実施している。これに伴い、岡弥二郎・高田当次郎・戒重ら、かつて松永久秀に追従していた筒井家配下の人物達が、信長に一度離反した咎で明智光秀らの主導で処断された。翌天正9年(1581)には、かねてより確執があった吐田遠秀を闇討ちにして葬っている。同年の天正伊賀の乱では他の武将と共に織田信雄に属し、大和から伊賀へと進攻、3,700の手勢を指揮し、蒲生氏郷と共に比自山の裾野に布陣するが、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。この時、伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣が順慶の窮地を救ったと言われる(比自山城の戦い)。その経緯については『伊乱記』が詳しく描写している。順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。その後も評定を重ね、一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。6月10には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。光秀は親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、洞ヶ峠に布陣し順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている。光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、所謂洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さで病死した。筒井家は定次が継いだ。順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であり、自身が僧でもあった関係で(筒井家は元々興福寺衆徒大名化した家である)、仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く保護したとも言われている。順慶の重臣だった島清興は順慶の死後、跡を継いだ定次と上手くいかず筒井家を離れたが、後に石田三成の腹心となり関ヶ原の戦いに参加して勇名を馳せた。筒井家は順慶亡き後31年目に、定次が豊臣家への内通の疑いにより改易・自害させられたことで絶家した。大名家としては滅亡したが、現在も真偽は別として順慶の傍系子孫と伝えられている家は少なくない。 山口県文書館所蔵の毛利家文庫の中に、順慶の没後に生まれた実子(順正)が存在したという記述があるが、史実とは認めがたい。

 

『歴史の時々変遷』(全361回)122“嶽山城の戦い” 「嶽山城の戦い」寛正元年(1460)12月19日から寛正4年(1463)4月15日にかけて河内国嶽山城

 嶽山8『歴史の時変遷』(全361回)122“嶽山城の戦い”

「嶽山城の戦い」寛正元年(146012月19から寛正4年(14634月15にかけて河内国嶽山城(現在の大阪府富田林市)で行われた戦闘で、室町幕府から反逆者として追われた畠山義就が嶽山城に籠城して2年以上幕府の追討軍と戦った。畠山氏享徳3年(1454)に河内・紀伊越中守護畠山持国の後継者を巡りお家騒動が勃発し息子義就と甥の畠山弥三郎(政久)が争い、弥三郎を擁立した家臣団は管領細川勝元と元侍所頭人山名宗全の支援で持国を隠居へ追い込み義就を伊賀へ追い落とした。しかし、8将軍足利義政は勝元・宗全に対抗するため義就の抱き込みを画策、12月に宗全を隠居させて勝元を牽制、義就を上洛させて弥三郎一派を没落させた。こうして畠山氏を与党に組み込んだ義政は親政に乗り出していった。ところが、義就と義政の関係は次第に悪化していった。義就は弥三郎追討のかたわら大和に出兵していたが、義政に無断で大和国人の争いに介入していたことが問題視されていたのである。加えて、長禄2年(1458)に宗全が隠居から復帰して勝元ら弥三郎派が有利になったことも義就の不利に繋がり、翌長禄3年(1459)に弥三郎と大和国人で弥三郎派の成身院光宣筒井順永兄弟と箸尾宗信が幕府から赦免され、同年弥三郎が亡くなると弟の畠山政長が擁立され義就は一層追い詰められていった。そして、長禄4年(14605月に紀伊で畠山軍と根来寺が合戦に及び、畠山軍が敗北した報復に義就が京都から紀伊へ軍勢を派遣させると、9月16に幕府から義就に政長への家督交代命令が伝えられ、拒否した義就は4日後の20に河内へ逃亡、代わって当主となった政長は閏9月9に大和へ向かい10月まで義就派の掃討に務めた。家督交代は勝元の工作と義政の不信感から来た結果であり、幕府の義就討伐命令を取り付けた勝元は細川成之細川成春細川常有細川持久山名是豊ら一族・諸大名を召集して河内へ向かわせ、政長・光宣・順永らも河内へ移り、義就は河内南部の嶽山城へ籠城した。1219日から幕府軍の嶽山城攻撃が始まったが、義就の抵抗は激しく攻撃はことごとく撃退され、1年半後の寛正3年(14625月12に支城の金胎寺城を落としたのみで戦果は一向に上がらなかった。包囲中に長禄・寛正の飢饉が発生したり、光宣らと対立していた越智家栄が義就に協力していたことなども長期化の一因となっていた。寛正4年(1463415日にようやく嶽山城は陥落、義就は高野山、次いで紀伊、最後に吉野へ逃れた。幕府軍は京都へ凱旋、政長は翌寛正5年(1464)に勝元から管領を譲られた。勝元は政長を通して畠山氏を押さえ込むことに成功、派閥の拡大に繋げた。しかし、勝元と協力していた宗全は勝元を警戒、寛正6年(1465)に義就・斯波義廉らと結託して勝元派の打倒に乗り出した。義就も宗全・義廉の支援で文正元年(1466)に挙兵・上洛して政長の追い落としを図り、反発した政長が義就と交戦(御霊合戦)、応仁の乱を勃発させた。

 

京都古社寺探訪「勝林寺」臨済宗大大本山東福寺の塔頭、勝林寺は嘉禎2年(1236)関白九条道家の発願

 し勝林寺l京都古社寺探訪「勝林寺」臨済宗大大本山東福寺の塔頭、勝林寺は嘉禎2年(1236)関白九条道家の発願によって氏寺として建立し、大いに栄えた法性寺内に建立された。東福寺の寺名は、東大寺、興福寺の奈良二寺の一字ずつ取ったもので、20年近くかけて京都最大の寺院を聖一国師を迎え造営したが、初期の伽藍の大分部を焼失した。京都五山の列せられた。勝林寺は東福寺の塔頭の一つで、天文19年(1550)に東福寺代二〇五世住持であった高岳令松禅師によって、勝林菴として創建された。本山東福寺の鬼門に位置し仏法と北方を守護するところから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。本堂は、大檀那近衛家の大玄関を移築したもので、数々の絵画、彫刻を有し、とりわけ毘沙門堂として正当性を証明すべく、本尊の毘沙門天像をはじめ、他に類を見ない例を見ない「毘沙門天曼荼羅」や迫力に満ちた虎の大襖絵などが伝わる。

「二十二社巡り」吉田神社・京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。二十二社の一社。旧社格は官幣中社

よ吉田神社 「二十二社巡り」吉田神社・京都市左京区吉田神楽岡町吉田山にある神社二十二社の一社。旧社格官幣中社で、現在は神社本庁別表神社。祭神は以下の四柱春日神で、勧請元の春日大社と同じ。建御賀豆智命(武甕槌命)伊波比主命(経津主命)天之子八根命(天児屋根命)比売神(ひめのかみ)貞観元年(859)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。『延喜式神名帳』への記載はない(式外社)が、永延元年(987)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦二年(991)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469 - 1487)には吉田兼倶吉田神道を創始し、その拠点として文明十六年(1484)、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。寛永五年(1665)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。

 

 

 

「天津神・国津神」・65・(あまつかみ・くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類である[1]。大国主など、天孫降臨以前からこの国土

sa.jpg「天津神・国津神」・65・(あまつかみ・くにつかみ)は、日本神話に登場するの分類である[1]大国主など、天孫降臨以前からこの国土を治めていたとされる土着の神(地神)を「国津神」、天照大神などがいる高天原の神を「天津神」という。天津神は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされている。ただし、高天原から天降ったスサノオや、その子孫である大国主などは国津神とされている。日本神話において、国津神がニニギを筆頭とする天津神に対して国土(葦原中国)の移譲を受け入れたことを国譲りとして描かれている。ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、ヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられる。国津神については、記紀に取り入れられる際に変容し、本来の伝承が残っていないものも多い。日本書紀ではしきりにある文として伝承等を引用している点から、その記録文書は後世では失われてしまったようである。「つ」は現代語の「の」のことで、天の神・国の神という意味であり、「天つ神」、「国つ神」と表記することもある。漢字二字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」「神祇」と言う。「天神地祇」「神祇」という呼称は中国の古典に見えそれが出典という説も存在するが[7]、日本のものとは概念が全く異なる別ものである。

『河内史跡巡り』鴨高田神社・近鉄永和駅下車北側に鴨高田神社・当社は鴨(賀茂)氏の一族が673年(白鳳2年)に創建

か鴨高田神社お 『河内史跡巡り』鴨高田神社・近鉄永和駅下車北側に鴨高田神社・当社は鴨(賀茂)氏の一族が673年(白鳳2年)に創建したと伝えられる延喜式内社で、祭神に速須佐之男命及び大鴨積命(素盞鳴命の十一世孫で、鴨氏の開祖)を祀ったのが当社の始まりで、中世に入り、岩清水八幡宮領となり、神功皇后、応神天皇を合祀し、「八幡宮」と称される様になった。 1615年(元和元年)大坂夏の陣にはこの付近が戦場となり、当社も兵火にかかり、社殿はことごとく烏有に帰したが、後数年を経て、再建されている。  隣接している長栄寺とは掛かり合いが深く、江戸時代の案内書「河内名所図会」には、『長栄寺の鎮守となり、今八幡と称される』とある。1868年(明治元年)の神仏分離後、1872年(明治5年)郷社に列せられた。現在の社殿及び拝殿は1907年(明治14年)の再建である。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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