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『歴史歳時記豆知識』60・親政(しんせい)とは、君主(国王・皇帝・天皇など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態(君主制の一形式)

 新政2 (2)新政2 (1)『歴史歳時記豆知識』60・親政(しんせい)とは、君主国王皇帝天皇など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態君主制の一形式)のことである。君主制といえど、様々な理由によって、君主自らが政治を行わない場合も多い。その理由としては、摂政院政(後述)、高官宰相太政官関白内閣など)主導の政治体制、実権のある他の政府(幕府など)の存在、君主自身の政務への無関心などがある。親政とはそれらのいずれかの場合と対比して、君主自らが政治を行う場合を特に指していう。日本では、太上天皇院政をおこなわず、在位の君(現役の天皇)が同時に治天の君として実権を握る状態をもいう(院政の対語)。ただし、歴史上摂関政治や院政、武家政権などの時代に比べて実際に親政が行われていた期間は長くは無かったことに留意する必要がある。また、延喜天暦の治の時代は摂政・関白が必ずしも常置されていなかった時代であり(藤氏長者太政官の筆頭の地位にいた)、後醍醐天皇は元々治天の君の資格のない(院政を行う資格のない)中継ぎの天皇であったことなど、親政が必ずしも積極的な動機で行われたとは言い難い場合もあった。明治維新後は、立憲君主制を否定する立場から、皇道派赤尾敏なども主張した。天皇親裁とも言う。また、イラク王国においては19393歳で即位した、ファイサル2世が1953に親政宣言をするものの、本人は政治に無関心のために摂政から皇太叔父になったアブドゥル=イラーフが実権を握り続けた。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

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『河内史跡巡り』来恩寺・当山の由来は、現在の地に江戸時代中期より来福寺として小さなお堂が有った

ら来恩寺1 (2)『河内史跡巡り』来恩寺・当山の由来は、現在の地に江戸時代中期より来福寺として小さなお堂が有った。明治三九年(1906)近くに恩覚寺と合併をし、来恩寺と称するようになった。来恩寺が融通念仏宗としての歴史は浅く100年足らずだが、来福寺(浄土宗)、恩覚寺(真言宗)の合併の名残として、本尊、観世音菩薩・脇侍に阿弥陀菩薩・弘法大師像が安置されている。元来あった観音菩薩像は移転の際の傷みがひどく、現在の本堂に安置されていない。来恩寺の街道すぐ西の自然石の「目無し地蔵は」がある。一説に恩智城の見付石と言われている。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

『戦国時代の群像』19(全192回) 「松平 清康」(1511~1535)戦国時代の武将。三河松平氏

 清康3『戦国時代の群像』19(全192回)

「松平 清康」(1511~1535)戦国時代武将三河松平氏(安祥松平家)の第7代当主。第6代当主・松平信忠の子。三河国安祥城城主および岡崎城主。安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。徳川家康の祖父にあたる。永正89月71511)、第6代当主・松平信忠嫡男として生まれる。大永3年(1523)に隠居の祖父・道閲(長親)や一門衆が父・信忠を隠居させて、子である竹千代(清康)に家督を継承させた。三河吉良氏吉良持清偏諱を受けて清孝(きよたか、のち清康)と名乗る。大永5年(1525)に足助城鈴木重政を攻めてこれを降伏させる。大永6年(1526)、または大永4年(1524)、岡崎松平家山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。信貞の居城であった旧岡崎城は破棄し、現在地の龍頭山に新岡崎城に移転し、岡崎に松平氏の拠点を移した。岡崎では城下町を作り、岡崎五人衆・代官・小代官体制を整備。また、松平氏菩提寺大樹寺勅願寺化や修築・多宝塔の新築、松平郷からの勧請を受けての六所神社創建、龍海院の創建等を行った。このころ清和源氏のひとつ・新田氏一門である得川氏の庶流・世良田姓を称し、通称として世良田次郎三郎と名乗ったという。これが後に孫の家康が松平から徳川改姓を行うことにもつながっているという(この経緯については世良田氏の項も参照)。清康は更に、東西に軍を進めて三河国統一を目指し勢力を広げる。享禄2年(1529)、尾島城(小島城:西尾市所在)を攻め獲る。その一方で、同年528日に東三河にも進出して三河牧野氏今橋城(後の吉田城)を攻め落とした。清康は更に吉田城の南方・渥美郡田原に進軍。戸田氏は戦わずに降服したので清康は吉田城に兵を戻して10日間在城。この間に北方・設楽郡山家三方衆田峯城菅沼氏及び長篠城菅沼氏と亀山城奥平氏宝飯郡牛久保の牧野氏等の東三河国人衆の多くが従属を申し出た。ただし三河の東端八名郡に在った宇利城熊谷氏だけが服属を拒んだためこれを包囲し、11月4に攻め落とした。ここに三河国統一を成し遂げた。なお、一説によれば宇利城攻め以後、桜井松平家の叔父・信定との不仲を悪化させたともいわれる。その理由に挙げられるのが、宇利城攻略戦において、大手門を攻める福釜松平家の叔父・親盛を失った際に、支援の遅れた信定を清康が罵倒したという。清康自身はその場限りの叱責であったのだろうが、信定は遺恨を抱き続け宗家簒奪の機を窺う決意を固めたものと考えられている。享禄3年(1530)には尾張国へ再出兵、岩崎城 を落とし岩崎郷(日進市岩崎町)を、品野城を落とし品野郷(瀬戸市品野町)を奪った。そして三河統一の勢いに乗った清康は、斎藤道三と織田を挟撃するため、1万余りの大軍で尾張に進軍。天文4年(153512月、清康は尾張に侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めた。この守山の陣の最中の12月5、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に斬られ即死した。これを「森山崩(守山崩れとも)」という。享年25。これは松平信定の策略であったといわれている。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

「京都古社寺探訪」永観堂・禅林寺・京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂

え永観堂1「京都古社寺探訪」永観堂・禅林寺・京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂の名で知られる。山号を聖衆来迎山、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に三箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。空海(弘法大師)の高弟である僧都・真紹が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源である。真紹は仁寿三年(853)、歌人・文人であった故・藤原関雄の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の貞観五年(863)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる七世住持の律師・永観1033 - 1111)の頃から浄土教色を強めていく。永観は文章博士の源国経の子として生まれ、十一歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三論宗法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは延久四年(1072)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は普通「えいかんどう」と読むが、「永観」という僧の名は「ようかん」と読むのが正しいとされている。禅林寺の本尊阿弥陀如来立像は、顔を左(向かって右)に曲げた特異な姿の像である。この像については次のような伝承がある。永保二年(1082)、当時五十歳の永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が歩みを止めると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言ったという。本寺の阿弥陀如来像はそれ以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿で安置されているのだという。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

 

 

「護王神社」京都府京都市上京区にある神社である。旧社格は別格官幣社。別称子育明神。和気清麻呂

ご護王神社4「護王神社」京都府京都市上京区にある神社である。旧社格は別格官幣社。別称子育明神和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川路豊永を配祀する。護王神社は、和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った廟(護王善神堂)に始まる。正確な創建の年代は不詳である。和気清麻呂と姉の広虫は、宇佐八幡宮神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。明治7年(1874)、護王善神堂を神社として護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。明治19年(1886)、明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家中院家の邸宅跡(現在地)に遷座された。大正4年(1915)、大正天皇の即位の際に広虫が合祀された。広虫が孤児救済事業で知られることから、当社は子育明神と呼ばれるようになった。和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭のによって難事を救われたとの伝説から、明治23年(1890)から狛犬の代わりに「狛猪」が置かれており、「いのしし神社」の俗称もある。そのため年の参拝者は例年よりも増加する傾向がある。境内には狛猪のほかにも多くの猪に因むものがある。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

『社寺神仏豆知識』50・山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、『記紀』に記された日本神話。主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」

 海彦山びこ8『社寺神仏豆知識』50・山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、『記紀』に記された日本神話。主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれ、神話に多い神婚説話、理想郷に留まる内容であり、民話「浦島太郎」のもととなっている[1]。誕生地、生活などの伝説は宮崎県宮崎市を中心とした宮崎平野に集中している。山幸彦 - 火遠理命(古事記)・彦火火出見尊(日本書紀)海幸彦 - 火照命(古事記)・火闌降命(日本書紀)名前のごとく、の猟が得意な山幸彦(弟)と、の漁が得意な海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。困り果てていた所、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴く[2]。海神(大綿津見神)に歓迎され、豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていた。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせたという[1]。この海幸彦は隼人族の祖である[1]。その後、妻の豊玉姫は子供を産み、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇祖父にあたる。古事記では火照命(ほでりのみこと)は海佐知毘古(うみさちびこ)(漁師)として大小の魚をとり、火遠理命(ほおりのみこと)は山佐知毘古(やまさちびこ)(猟師)として大小の獣をとっていた。火遠理命は兄の火照命に互いの道具の交換を提案した。火照命は三度断ったが、少しの間だけ交換することにした。火遠理命は兄の釣針(海佐知)で魚を釣ろうとしたが1匹も釣れず、しかもその釣針を海の中になくしてしまった。兄の火照命も獲物をとることができず、「山佐知も己が佐知さち、海佐知も己が佐知さち(山の幸も海の幸も、自分の道具でなくては得られない)」と言って自分の道具を返してもらおうとした。火遠理命が釣針をなくしたと告げると、火照命は火遠理命を責め取り立てた。火遠理命は自分の十拳劔から1000の釣針を作ったが、火照命は「やはり元の釣針が欲しい」として受け取らなかった。火遠理命が海辺で泣き悲しんでいると、塩椎神(しおつちのかみ。潮流の神)がやって来た。火遠理命が事情を話すと、塩椎神は小船を作って火遠理命を乗せ、綿津見神(海神・わたつみ)の宮殿へ行くように言った。綿津見神の宮殿へ行き、そこで待っていると、海神の娘の豊玉毘売命の侍女が水を汲みに外に出て来た。火遠理命が水を求めたので、侍女が水を器に入れて差し出すと、火遠理命は水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れた。すると玉が器にくっついて離れなくなったので、侍女は玉のついた器を豊玉毘売命に差し上げて、事情を話した。不思議に思って外に出た豊玉毘売命は、火遠理命を見て一目惚れした。父である海神も外に出て、そこにいるのが天孫邇々芸命(ににぎ)の子の虚空津日高(そらつひこ・火遠理命の尊称)であると言い、すぐに豊玉毘売命と結婚させた。こうして、海神の元で三年間暮した。三年たって、火遠理命はここに来た理由を思い出し、深い溜息をついた。海神が溜息の理由を問うたので、火遠理命は事情を話した。海神が魚たちを集め、釣針を持っている者はいないかと問うと、赤の喉に引っかかっているとわかった。海神は釣針と鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を火遠理命に差し出し、「この釣針を兄に返す時、『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、心が落ち着かなくなる針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。兄が高い土地にを作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」と言った。そして和邇(わに/鮫のこと)に乗せて送って差し上げた。その和邇は今は佐比持神(さいもちのかみ)という。火遠理命は海神に言われた通りに釣針を返し、言われた通りに田を作った。海神が水を掌っているので、火照命の田には水が行き渡らず、火照命は貧しくなっていった。さらに火照命が荒々しい心を起こして攻めて来た。すると火遠理命は塩盈珠を出して溺れさせ、火照命が苦しんで許うと、塩乾珠を出して救った。これを繰り返して悩み苦しませると火照命は頭を下げて、火遠理命を昼夜お守りすると言った。豊玉毘売命は海宮で懐妊したが、天神の子を海の中で産むわけにはいかないとして、陸に上がってきた。浜辺に産屋を作ろうとしたが、茅草がわりの鵜の羽を葺き終えないうちに産気づいたため、産屋に入った。豊玉毘売命は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と彦火火出見尊に言う。しかし、火遠理命はその言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまう。そこに豊玉毘売命が姿を変えた八尋和邇(やひろわに)が腹をつけて蛇のごとくうねっているのを見て恐れて逃げ出した。豊玉姫は彦火火出見尊に覗かれたことを恥じて、生まれた子を置いて海に帰ってしまう。その生まれた御子を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)と言う。しかしその後、火遠理命が覗いたことを恨みながらも、御子を養育するために妹の玉依毘賣を遣わし、託した歌を差し上げ、互いに歌を詠み交わした。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 海彦山びこ8『社寺神仏豆知識』50・山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、『記紀』に記された日本神話。主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれ、神話に多い神婚説話、理想郷に留まる内容であり、民話「浦島太郎」のもととなっている[1]。誕生地、生活などの伝説は宮崎県宮崎市を中心とした宮崎平野に集中している。山幸彦 - 火遠理命(古事記)・彦火火出見尊(日本書紀)海幸彦 - 火照命(古事記)・火闌降命(日本書紀)名前のごとく、の猟が得意な山幸彦(弟)と、の漁が得意な海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。困り果てていた所、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴く[2]。海神(大綿津見神)に歓迎され、豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていた。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせたという[1]。この海幸彦は隼人族の祖である[1]。その後、妻の豊玉姫は子供を産み、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇祖父にあたる。古事記では火照命(ほでりのみこと)は海佐知毘古(うみさちびこ)(漁師)として大小の魚をとり、火遠理命(ほおりのみこと)は山佐知毘古(やまさちびこ)(猟師)として大小の獣をとっていた。火遠理命は兄の火照命に互いの道具の交換を提案した。火照命は三度断ったが、少しの間だけ交換することにした。火遠理命は兄の釣針(海佐知)で魚を釣ろうとしたが1匹も釣れず、しかもその釣針を海の中になくしてしまった。兄の火照命も獲物をとることができず、「山佐知も己が佐知さち、海佐知も己が佐知さち(山の幸も海の幸も、自分の道具でなくては得られない)」と言って自分の道具を返してもらおうとした。火遠理命が釣針をなくしたと告げると、火照命は火遠理命を責め取り立てた。火遠理命は自分の十拳劔から1000の釣針を作ったが、火照命は「やはり元の釣針が欲しい」として受け取らなかった。火遠理命が海辺で泣き悲しんでいると、塩椎神(しおつちのかみ。潮流の神)がやって来た。火遠理命が事情を話すと、塩椎神は小船を作って火遠理命を乗せ、綿津見神(海神・わたつみ)の宮殿へ行くように言った。綿津見神の宮殿へ行き、そこで待っていると、海神の娘の豊玉毘売命の侍女が水を汲みに外に出て来た。火遠理命が水を求めたので、侍女が水を器に入れて差し出すと、火遠理命は水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れた。すると玉が器にくっついて離れなくなったので、侍女は玉のついた器を豊玉毘売命に差し上げて、事情を話した。不思議に思って外に出た豊玉毘売命は、火遠理命を見て一目惚れした。父である海神も外に出て、そこにいるのが天孫邇々芸命(ににぎ)の子の虚空津日高(そらつひこ・火遠理命の尊称)であると言い、すぐに豊玉毘売命と結婚させた。こうして、海神の元で三年間暮した。三年たって、火遠理命はここに来た理由を思い出し、深い溜息をついた。海神が溜息の理由を問うたので、火遠理命は事情を話した。海神が魚たちを集め、釣針を持っている者はいないかと問うと、赤の喉に引っかかっているとわかった。海神は釣針と鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を火遠理命に差し出し、「この釣針を兄に返す時、『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、心が落ち着かなくなる針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。兄が高い土地にを作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」と言った。そして和邇(わに/鮫のこと)に乗せて送って差し上げた。その和邇は今は佐比持神(さいもちのかみ)という。火遠理命は海神に言われた通りに釣針を返し、言われた通りに田を作った。海神が水を掌っているので、火照命の田には水が行き渡らず、火照命は貧しくなっていった。さらに火照命が荒々しい心を起こして攻めて来た。すると火遠理命は塩盈珠を出して溺れさせ、火照命が苦しんで許うと、塩乾珠を出して救った。これを繰り返して悩み苦しませると火照命は頭を下げて、火遠理命を昼夜お守りすると言った。豊玉毘売命は海宮で懐妊したが、天神の子を海の中で産むわけにはいかないとして、陸に上がってきた。浜辺に産屋を作ろうとしたが、茅草がわりの鵜の羽を葺き終えないうちに産気づいたため、産屋に入った。豊玉毘売命は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と彦火火出見尊に言う。しかし、火遠理命はその言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまう。そこに豊玉毘売命が姿を変えた八尋和邇(やひろわに)が腹をつけて蛇のごとくうねっているのを見て恐れて逃げ出した。豊玉姫は彦火火出見尊に覗かれたことを恥じて、生まれた子を置いて海に帰ってしまう。その生まれた御子を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)と言う。しかしその後、火遠理命が覗いたことを恨みながらも、御子を養育するために妹の玉依毘賣を遣わし、託した歌を差し上げ、互いに歌を詠み交わした。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

『河内史跡巡り』道鏡と河内由義宮・、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)にあったとされる離宮。奈良時代の神護景雲三年

ゆ由義宮2 (2)『河内史跡巡り』道鏡と河内由義宮・、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)にあったとされる離宮奈良時代神護景雲三年(769)から宝亀元年(770)頃まで存続。八尾市八尾木北にある由義神社の境内に「由義宮旧址」の石碑が建ち、付近が離宮のあった場所とされているものの、確実な遺構は現在に至るまで発見されていない。称徳天皇はこの地の出身の僧・道鏡を寵愛し、太政大臣禅師さらに法王に任じ、天皇に準じた待遇を与えた。765天平神護元年)紀伊行幸に際し、行宮を設けて立ち寄ると、弓削寺に参詣した。769(神護景雲三年)和気清麻呂宇佐八幡宮神託事件直後、離宮を建て由義宮とした。離宮は道鏡の郷里である若江郡を中心に、高安郡大県郡の広範囲にまたがって設営された。河内国を河内職と改め、特別な行政地域とし、長官に藤原雄田麻呂(後の百川)を河内大夫に任じた。称徳天皇は770(神護景雲四年)2月から4月にかけてに由義宮に行幸され、そのときに船連浄足ら帰化人の男女230名余が歌垣を催したと続日本紀に記されている。 しかし、8月に天皇は崩御、道鏡が下野国へ下向した直後に河内職は河内国に戻されている。弓削神社(ゆげじんじゃ)は、大阪府八尾市にある神社。 付近に勢力を保持していた物部氏の一族である弓削氏の氏神である。八尾の弓削神社は、JR志紀駅長瀬川を挟んで2箇所あり、東側の東弓削一丁目にある弓削神社と西側の弓削町一丁目にある弓削神社の二社一対で二座にあてている。両社とも式内大社である。なお、鎮座地は弓削が旧河内国志紀郡、東弓削が旧河内国若江郡にあたり、延喜式神名帳には若江郡の式内社と記載されている。800年ごろの創建といわれる。当地は弓削氏の一族である高僧道鏡の出身地であるが、弓削神社は彼の没後の創建であり、直接関わりはない。かつて東西の社殿の間に久宝寺川(旧大和川)が流れていた。度重なる水害で幾度も流失の被害に遭っていた。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

 

『戦国時代の群像』18(全192回)「尼子 経久」(1458~1541)戦国時代の武将・大名。出雲守護代

 尼子⑤『戦国時代の群像』18(全192回)尼子 経久」(1458~1541)戦国時代武将大名出雲守護代。長禄2年(14581120日、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国に生まれる。幼名又四郎文明6年(1474)、人質として出雲・飛騨隠岐近江守護を務める主君・京極政経京都屋敷へ送られ、この後5年間、京都に滞在する。滞在中に元服し、京極政経の偏諱を賜り、経久と名乗る。5年目に京都の滞在生活を終え、出雲国に下向する。文明10年(1478)までに父から家督を譲られた。当初は京極氏側の立場であったが、次第に国人衆と結びつきを強くし、室町幕府の命令を無視して政経の寺社領を押領し、美保関公用銭の段銭の徴収拒否などを続けて独自に権力基盤を築く。だが、その権力基盤の拡大途上で西出雲の塩冶氏と対立するなど、権力拡大には限界があった。更に、これらの行動が原因となり幕府・守護・国人からも反発を受け、文明16年(1484)に居城を包囲され、守護代の職を剥奪されて出雲から追放されたと後世の軍記物では書かれているが、守護代の職を追われたのみであり、出雲に在国したまま一定の権力は保有していたものと思われる。実際に長享2年(1488)、出雲の国人・三沢氏を攻撃し降伏させるなど、その権力が衰えてはいなかったことが確認出来る。ただ、守護代の地位に返り咲き、完全復権を果たしたのは明応9年(1500)であり、近江国でお家騒動京極騒乱)に敗れて下向してきた政経との関係は修復した。そして政経の死後、出雲大社の造営を行ったうえで、経久は宍道氏との婚姻関係を進め、対立関係にあった塩冶氏を圧迫するなど、出雲の統治者としての地位を確立しはじめる。なお、政経は孫の吉童子丸に家督を譲り永正5年(1508)に死去、経久は吉童子丸の後見を託されたとされるが、吉童子丸は程無く行方不明となり、経久が事実上出雲の主となっていった。ただし、永正9年(1512)、備後国人の大場山城主・古志為信の大内氏への反乱を支援している。この時期に次男の尼子国久細川高国から、3男の塩冶興久は大内義興から偏諱を受けており、両者との関係を親密にしようとしていたものと思われる。永正10年(1513)、経久は弟の久幸に伯耆国南条宗勝を攻めさせる一方、嫡男・尼子政久を叛旗を翻した桜井入道宗的の籠もる阿用城へ差し向けた。しかしその最中、政久は矢に当たって命を落とした。永正14年(1517)、大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護山名氏と手を結び、石見国内の大内方の城を攻めている。ただし、この時の大内氏との戦いは小競り合い程度のものであり、永正15年(1518)に本国・周防国に帰還する事になる大内義興の在京中より、経久が大内領の侵略を行っていたとする見方は正確なものではない。また、同年に備中国北部に力を持つ新見氏と手を結び、三村氏を攻撃している。永正17年(1520)、経久は出雲国西部の支配をようやく確立することになる。だが、一方で備後国山内氏安芸国宍戸氏など国境を接する国人領主達との対立を生み、特に山内氏の出雲国内への影響力は無視しえないものであった。そのため、備後・安芸への進出は出雲の国内支配の安定化の必要上欠かせないものであり、それは同地域に利害関係を持つ大内氏との軍事的衝突をも意味していた。大永元年(1521)以降、尼子氏は石見国に侵入した。安芸国へも手を伸ばし、大永3年(1523)には重臣・亀井秀綱の命で傘下の安芸国人である毛利氏に、大内氏の安芸経営の拠点である鏡山城を攻めさせた。毛利家当主・毛利幸松丸の叔父である元就は策略を使い、城主・蔵田房信の叔父・蔵田直信を寝返らせ、城主・房信が自害し鏡山城は落城した。後に直信も自害させられた(鏡山城の戦い)。大永4年(1524)、経久は軍勢を率い西伯耆に侵攻し、南条宗勝を破り更に守護・山名澄之を敗走させた。敗北した伯耆国人の多くは因幡但馬へと逃亡し、南条宗勝は但馬山名氏を頼った(大永の五月崩れ)。しかし、同年には尼子方であった安芸武田氏友田氏が大内氏に敗北し、毛利元就は異母弟である相合元綱との内紛の後の大永5年(1525)に尼子との関係を解消して大内氏に所属を変えた。これらにより、尼子氏に傾いていた安芸国内の勢力バランスが変わることになった。毛利氏の離反は、毛利氏の後継争いに尼子家臣・亀井秀綱が介入したことが大きな原因とされているが、実際には経久の強い意向が働いていたと思われる。大永6年(1526)、伯耆・備後守護職であった山名氏が反尼子方であることを鮮明とし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲される形で窮地に立たされる。翌大永7年(1527)、経久は自ら備後国へと兵を出兵させるも細沢山の戦いにて陶興房に敗走し、尼子方であった備後国人の大半が大内氏へと寝返った。享禄元年(1528)、再び経久は自ら備後国へと赴き多賀山氏蔀山城攻めこれを陥落させるも、同年5月には石見国における尼子方の高橋氏が毛利・和智氏により滅ぼされている。享禄3年(1530)、三男・塩冶興久が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。この時に興久は出雲大社・鰐淵寺三沢氏多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であったことが伺える。また、同時期には興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。結局の所、消極的ながら大内氏は経久側を支援する立場になっている。当時の大内氏家臣・陶興房が享禄3528日に記した書状を見るにしても、興久は経久と真っ向から対立しており、更には経久の攻撃を何度も退けていることが伺える。また、大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している。だが、この反乱は天文3年(1534)に鎮圧され、興久は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり自害した。その後に首検証の為、塩漬けにした興久の首を尼子側へ送っている。興久の遺領は経久の次男・尼子国久が継いだ。また、同時期には隠岐国の国人・隠岐為清が反乱を起こしているが、すぐに鎮圧されている。同年には詮久は美作国へと侵攻し、これを尼子氏の影響下に置く。また、その後も備前へと侵攻するなど勢力を徐々に東へと拡大していった。この後、詮久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加している。天文6年(1537)、経久は家督を嫡孫の詮久(後の尼子晴久)に譲っている。同年には大内氏が所有していた石見銀山を奪取している。大友氏と大内氏の争いが続いていたこともあり(または大内氏とは表面上は和睦状態だった為)、東部への勢力を更に拡大すべく播磨守護の赤松政祐と戦い大勝する。これに政祐は一時、淡路国へと逃亡する。翌年の天文8年(1539)、別所氏が籠城する三木城が尼子方へと寝返ったため、政祐はへと逃亡。これにより詮久は京へ上洛する構えを見せたが、大友氏が大内氏と和解、更には尼子氏との和睦を破棄され石見銀山を奪回された。同年、大内氏によって尼子氏から援兵を受けていた安芸尼子方の武田氏居城佐東銀山城が落城、当主・武田信実は一時、若狭国へと逃亡する。そのため、詮久は出雲国へと撤退した。これにより大内氏との和睦は完全に破綻し、天文9年(1540)、大内氏との早期決戦を目指し大内氏勢力下にある安芸国人の毛利氏の討伐を武田信実の要請も受け入れ詮久は出陣。周囲の形勢は尼子氏に有利であり、その軍勢は諸外国からの援兵も加わり30,000騎へと膨れ上がっていた。この大軍を率い吉田郡山城を包囲、大内との決戦に備えるも翌年には厳島神社にて戦勝祈願を終えた陶隆房率いる大内援兵20,000騎との激戦の末に敗北し、尼子氏は安芸での基盤を失った(吉田郡山城の戦い)。天文10年(15411113日、月山富田城内で死去した。享年84(満82歳没)。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

 

歴史の時々変遷』(全361回)92”分倍河原の戦い“ 「分倍河原の戦い」鎌倉時代後期の元弘3年(1333)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原

 『分倍河原古戦場2歴史の時変遷』(全361回)92”分倍河原の戦い“

「分倍河原の戦い」鎌倉時代後期の元弘3年(13335月155月16に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である元弘3年(13335月8新田義貞上野国生品明神鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。この旗揚げ時の新田軍は、義貞以下一族の脇屋義助大舘宗氏堀口貞満岩松経家里見義胤江田行義桃井尚義ら総勢でもたった150騎ばかりであったと謂われる。しかしながら、南行して利根川に至ったところで越後国の新田党(里美、鳥山、田中、大井田、羽川の各家)や、甲斐信濃の源氏一派が合流し、軍勢は7,000騎にまで及んだ。5月9利根川を越えたところで足利高氏(後に尊氏)の嫡子・千寿王(後の足利義詮)が紀五左衛門に伴われて合流、さらに外様御家人最有力者足利高氏の嫡男が加わったことにより、この後上野、下野上総常陸武蔵の鎌倉幕府に不満を持った武士たちが次々と集まり、新田軍は207千まで膨れ上がったとも言われる。さらに新田軍は鎌倉街道沿いに南下し、入間川を渡る。迎撃に来た桜田貞国率いる鎌倉幕府軍を5月11小手指原の戦い5月12久米川の戦いで、相次いで撃破。幕府軍は、武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、分倍河原(現在の東京都府中市)に撤退した。鎌倉幕府は、小手指原・久米川の敗報に接し、新田軍を迎え撃つべく、北条高時の弟北条泰家を大将とする10万の軍勢を派遣。分倍河原にて桜田貞国の軍勢と合流した。515日、2日間の休息を終えた新田軍は、分倍河原の幕府軍への攻撃を開始。だが、援軍を得て士気の高まっていた幕府軍が、逆に新田軍を撃破。新田軍は堀金(狭山市堀兼)周辺まで退却を余儀なくされた。この敗走の際、武蔵国分寺(東京都国分寺市)が焼失したといわれる。翌516日新田軍は、援軍に駆け付けた三浦義勝の献策により、未明に幕府軍を急襲。幕府軍は敗走し、関戸(東京都多摩市)にて壊滅的打撃を被った。北条泰家は、家臣の横溝八郎の奮戦によって一命を取り止め、鎌倉に逃走した。形勢が入れ替わった理由については、幕府軍が初日の勝利に奢って油断していたという説もあるが、足利尊氏による六波羅探題攻略の報が関東に到達しており幕府軍増援部隊の寝返りがあったのではないかという説もある。分倍河原の戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。幕府軍は鎌倉に籠もり7つの切通しを固める。新田軍は要害の地鎌倉を攻めあぐんだが、稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。倒幕運動最後の合戦(東勝寺合戦)が行われた。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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