史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

「西国四十九薬師巡り」龍泉院・高野山真言宗・和歌山県伊都郡高野町高野山・●弘法大師雨請いの霊場

り龍泉院2い「西国四十九薬師巡り」龍泉院・高野山真言宗・和歌山県伊都郡高野町高野山・弘法大師雨請いの霊場・高野山は海抜約千メートルの山上に広がる東西六キロ・南北三キロの盆地で、内八葉外八葉の峰々に囲まれている。ちょうど蓮台の形のようなこの地は、いにしえ古より紫雲棚引く霊山として信仰されてきた。若き日の弘法大師空海も、山嶽修行者の仲間に入り山野を跋渉し修行に明け暮れていた頃に、訪れたこともある高山深嶺の地であり、中国より密教を持ち帰った空海が、弘仁七年(八一六年)嵯峨天皇よりこの地を賜り、真言密教の一大修行道場である伽藍諸堂の建立に着手したのが、高野山金剛峯寺のはじまりである。高野山は、開創以来厳しい修行道場のため女人禁制が敷かれ、明治五年(一八七二)に解除されるまでは、いかなる女性といえども女人堂より内に入ることは許されなかった。現在は不動口の女人堂だけが残り、かつての厳しい女人禁制の名残を留めている。高野山上には約百二十の寺院があり、僧侶だけでも約千人が生活しています。世界に類をみない山上宗教都市で、平成十六年には世界遺産に登録され、国内はもとより海外からも参拝者や観光客が多く訪れている。龍泉院は承平の頃(九三一年頃)真慶律師によって開創され、弘法大師がかつて日照りが続いた際に善女龍王を勧請し祈雨の修法を行われた霊池が傍らにあることから、院号が付けられた。また弘法大師の高弟の真雅僧正が、当院において阿字観を修せられた霊験あらたかな古刹であり、鎌倉との由緒深く、毛利元就、佐々木高綱、楠正成等の帰依厚く、織田家、源家等の檀縁が深い。本尊の薬師如来像(重文)は藤原時代末期の作。寺宝の弘法大師御作の真言八祖・りゅう龍みょう猛菩薩像は、毛利元就が当院に寄贈したもので弘仁仏として有名です。当院は高野山真言宗総本山金剛峯寺の北側に位置し、金堂、根本大塔等の諸堂がある檀上伽藍や、女人堂も近い。山門を入った正面に本堂があり、左側に護摩堂、大師堂と並び、右側に庫裡、玄関がある。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

 

 

京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神2 山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都

長岡天満宮6 (1)京都十六社巡り・長岡天満宮・祭神・菅原道真公・長岡京市天神2
山城国乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に御遷都になるまでの皇都長岡京の跡であり、又当天満宮の御祭神菅原道真公が在原業平と共に、しばしば遊んで詩歌管絃を楽しまれたところであります。道真公が太宰府に左遷せられました時この地にお立ち寄りになり「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しまれた縁故によって公御自作の木像を祀ったのが、当宮の創立であります。以来、皇室の崇敬殊に厚く、元和九(1623)年には八條宮の御領地となり、度々の御寄進・御造営・御殊遇をうけ、寛永十五(1638)年には、参道をはさんで南北にひろびろと広がり、西山の翆緑を映す八條ヶ池が築造されました。中堤の太鼓橋は加賀・前田候の寄進になると伝えられる名橋であり、両側には樹齢百五十年余、高さ三米に達する「キリシマツツジ」が多数植えられており、新緑に映える真紅のキリシマの見事さは、まさに我が国随一のものと称されております。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

史跡めぐり「白浜三段壁・牟婁大弁財天」

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史跡めぐり「白浜三段壁・牟婁大弁財天」2月25日26日は白浜観光。白浜三段壁は古くは平安時代より源平合戦で知られ熊野水軍の隠した船を入れる洞窟と言われる。洞窟内には日本最大級の青銅で出来た弁財天が鎮座されている。200Mにも及ぶ洞窟内通路に資料に基づいて番所小屋など再現されている。洞窟内の祠には牟婁弁財天が祀られている。パワー、スポットとして知られている。

『歴史歳時記豆知識』59・律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令

律令1律令2『歴史歳時記豆知識』59・律令(りつりょう)とは、東アジアでみられる法体系である。刑法はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。律令の基本思想は、儒家法家の思想である。儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義である。古代中国には、国家社会秩序を維持する規範として、)、軍事)があった。儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじた。刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範であった。次第に令の重要性が増して、律から独立し行政法的なものになった。律令は魏晋南北朝時代に発達し、7世紀8世紀期には最盛期を迎え、当時の日本朝鮮諸国(特に新羅)へも影響を与えた。この時期の中国を中心とする東アジア諸国では共通して、律令に基づく国家統治体制が構築されていたといわれることもあるが、唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである[1]。このような統治体制を日本では律令制(または律令体制)というが、中国にはこのような呼称は存在しない[2]。なお、律令制のあり方は各国により異なる部分もあった。各国の律令制は、およそ8世紀中期〜9世紀ごろに相次いで崩壊または弛緩していった。律令制という制度は、律令や格式などの法令群により規定づけられていた。これらの法令群の概念を総称して律令法という。つまり、律令法の作用を受けて、律令制という制度が構築されていたのであり、両者は密接な関係にあったと言えるが、両者は別個の概念であり混同しないよう注意しなければならない。東アジア各国で制度としての律令制が崩壊・消滅してしまった後も、法典としての律令法は多かれ少なかれ変質しながらも存続していき、法令としての効力をある程度保っていた。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

『河内史跡巡り』八尾別院大信寺、真宗大谷派 大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院

 だ大信寺1『河内史跡巡り』八尾別院大信寺、真宗大谷派 大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。同派の別院 真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。「八尾御坊」とも呼ばれる。石山合戦の講和に端を発する本願寺の内部対立と並行して、河内国渋川郡久宝寺村(久宝寺寺内町)においても講和派の顕証寺(久宝寺御坊)と抗戦派の慈願寺による内部対立が発生した。やがて本願寺が東西に分裂すると、顕証寺は西本願寺派、慈願寺は東本願寺派に属し、関係はさらに悪化した。慈願寺と森本行誓ら十七人の民衆らは、顕証寺と安井氏による久宝寺村の支配に異を唱え、徳川家康に仲裁を願い出たが認められず、慶長十一年(1606年)11月、久宝寺村を出ることとなった。移転先は家康から東本願寺第十二世住職の教如に寄進された若江郡八尾(現在の八尾市中心部)で、古大和川(現在の長瀬川)を挟んで久宝寺村の東にあたる。慶長十二年(1607年)3月、教如によって八尾に大信寺(八尾御坊)が建立され、移転集落は若江郡寺内村と称するようになり、以降、大信寺を中心とする八尾寺内町へ発展していく。万治三年(1660年)に現在地へ移転され、南隣には八尾移転の際に破却された慈願寺が再建された。 最盛期には、大信寺の境内地の規模は約440m四方にもおよび、大信寺直轄の門徒は300戸あったとされる。明治五年(1872年)、東本願寺の別格別院となり、別院大信寺と称するようになった。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

『戦国時代の群像』17(全192回) 「上杉 憲房」(?~1336)うえすぎ のりふさ)は、戦国時代の大名。

 上杉3『戦国時代の群像』17(全192回)

「上杉 憲房」(?~1336)うえすぎ のりふさ)は、戦国時代大名上杉憲実の子で僧籍にあった周清(秀晟、周尋とも)の子。又従兄弟にあたる関東管領上杉顕定の養子となる、だが、その立場は必ずしも安定しておらず、長尾景春の乱の最末期には長尾景春らによって山内上杉家当主に擁立されていた時期が存在していたことが知られている。また、顕定には実子(庶子)が存在していたとする説もある[3]。そして、決定的であったのは永正4年(1507年)に古河公方足利成氏の次男・顕実が顕定の養子になると、顕実は顕定の仮名である「四郎」の名のりが許されて、憲房は後継者から外されて庶流としての地位が確定してしまう。その一方で、顕定-顕実とは別に有力な一軍を率いる存在として各地を転戦することになった[2]。顕定と共に越後守護代長尾為景を討つため出陣し、上野白井城に駐屯していたが、顕定が長森原の戦いにおいて戦死すると撤退する。関東管領職は顕定の遺言により顕実が継いでいたが、憲房は顕実と争って勝利し、永正9年(1512)に山内上杉家の家督を継ぎ、永正12年(1515)の顕実の死によって関東管領職をも継いだ(永正の乱)。しかし家臣長尾景春の離反、扇谷上杉家上杉朝興相模国北条氏綱甲斐国武田信虎などとの長年の抗争による不安定な情況の中で病に倒れ、大永5年(1525年)325日、59歳で死去した。実子の憲政は幼少のため、先に養子として迎えていた憲寛(古河公方・足利高基の次男・晴直)が跡を継いだが、憲房と顕実同様に憲政と憲寛の間でも争いが繰り広げられ、結局は憲寛を追放した憲政が家督を継いだ。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

 

『歴史の時々変遷』(全361回)91”元弘の乱“ 「元弘の乱」1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動

元弘4 (2)『歴史の時変遷』(全361回)91”元弘の乱“

「元弘の乱」1331元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。元弘の変とも呼ばれる。鎌倉時代後期、鎌倉幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していった。幕府は徳政令を発して対応するが、社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。1324正中の変六波羅探題によって未然に察知され、後醍醐は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝佐渡島へ流罪となった。だが後醍醐は、処分を免れた側近の日野俊基真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。13318月、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。幕府は大仏貞直金沢貞冬足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けた。9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。ここで幕府軍は苦戦を強いられる。楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使した。だが楠木正成は、長期間の抗戦は不可能であると理解していた。10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませた(赤坂城の戦い)。後醍醐は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられた。幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号正慶と改めさせるとともに、13323月、日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐を隠岐島へ配流した。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。護良親王と楠木正成の両者は各々潜伏し、機会を伺っていた。133211月、楠木正成は河内国金剛山千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。正成は12月に赤坂城を奪回し、13331月には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破した。これに対し幕府は再び大仏家時大仏高直兄弟、名越宗教らが率いる大軍を差し向けた。金剛山系に籠城する楠木勢に対し、先ず幕府軍は正成の配下の平野将監らが守る上赤坂城へ向かった。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦するが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。同じ頃、吉野では護良親王が破れた。これにより、正成がわずかな軍勢で篭城する千早城を残すのみとなったが、楠木軍は鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるなどといった策により、再び幕府軍を翻弄した。幕府軍は水源を絶とうとしたが、千早城では城中に水源を確保していたため効果はなかった。楠木軍は一部が打って出て包囲方を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせるなど、90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいる、との報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなった。播磨では赤松則村(円心)が挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。中でも赤松則村は周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。このような状況を見て、閏2月、後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。幕府は船上山を討つため足利高氏名越高家らの援兵を送り込んだ。しかし、427日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。57日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。北条仲時北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、59日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇後伏見上皇花園上皇は捕らえられた。58日、新田義貞上野国生品明神で挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。新田氏の声望は当時さほど高くはなかったが、鎌倉時代を通して源氏の名門と認識されていた足利氏の高氏(尊氏)の嫡子千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、義貞の軍勢は勢いを増し、新田軍は数万規模に膨れ上がったと伝わる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、御家人らの離反も相次ぎ、小手指ヶ原の戦い分倍河原の戦いで敗退し、幕府勢は鎌倉へ追い詰められた。新田軍は極楽寺坂巨福呂坂、そして義貞と弟脇屋義助化粧坂の三方から鎌倉を攻撃した。しかし天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。戦いは一旦は膠着し、新田軍は切通しからの攻略を諦めたが、新田義貞が海岸線(稲村ガ崎)から鎌倉へ突入した。幕府要人が数多戦死した市街戦ののち、生き残った北条高時ら幕府の中枢の諸人総計800余人は522日、北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害した(東勝寺合戦)。同じ頃、鎮西探題北条英時も、少弐貞経大友貞宗島津貞久らに攻められて525日に博多で自刃した。後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功を見た。後醍醐は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった天皇親政である建武の新政を開始する。だが元弘の乱の論功行賞において、後醍醐の側近が優遇されたのに対して、赤松則村をはじめとする多くの武士層が冷遇された。こうしたことが新政への支持を失わせ、足利尊氏の離反と室町幕府の成立へと結びついていく。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

「西国49薬師巡り」花山院・第21番・東光山・花山院菩提寺・真言宗・〒669-1505兵庫県三田市尼寺●花山法皇、

 か花山院2 (2)「西国49薬師巡り」花山院・第21番・東光山・花山院菩提寺・真言宗・〒669-1505兵庫県三田市尼寺●花山法皇、終焉の地当山は白雉二年(六五一年)天竺より渡来したとされる法道仙人によって開かれたと伝えられています。ちなみに西国三十三カ所の二十五番清水寺と二十六番一乗寺も、法道仙人によって開かれています。法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、当山もその修行の聖地として開かれました。後に花山法皇(人皇第六十五代花山天皇)は、西国三十三カ所観音霊場巡礼をご再興の後、当山に錫を留められました。

眼のあたりには秀峰有馬富士を見、南には六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島までを一望におさめるゆうすい幽邃かんが閑雅の景色はいたく法皇の御感に召したのでしょう。この山こそ終生仏道修行に励む聖地として他に勝るものはなしと思い定められたのです。その御心は、御製に「名にしおう 我が世はここに尽くしてむ 仏の御国近きわたりに」(当山第二番の御詠歌)と詠まれたことが如実に物語っています。
そして寛弘五年(一〇〇八年)御年四十一歳でご崩御なされるまで、当地で仏道修行にご精進なされたのです。法皇亡き後、当山は花山法皇(花山院)の菩提を弔うお寺として、寺号を花山院菩提寺と称するようになりました。
法皇は後の人から西国三十三カ所観音霊場中興の祖として仰がれ、観音霊場を巡礼する人たちは、花山法皇への尊崇帰依の心を示すべく当山に参詣するのがその勤めとなり、薬師霊場であるこのお山が、西国三十三カ所観音霊場の番号外の札所となったのです。
なお麓には女官たちが花山法皇を慕い来たるも、その時代の出家僧の戒律では男女共に住むこと許されず、自らも尼僧となって生涯を過ごした女官たちの墓「十二尼妃の墓」があり、村の名前もにん尼じ寺村と称して哀史を今に伝えています。
※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

京都十六社巡り・御香宮・祭神・正中:神功皇后、左御間:仲哀天皇、右御間:応神天皇、東御間:瀧祭神他二柱、西御間:仁徳天皇他二柱・

ご御香神社M京都十六社巡り・御香宮・祭神・正中:神功皇后、左御間:仲哀天皇、右御間:応神天皇、東御間:瀧祭神他二柱、西御間:仁徳天皇他二柱・

京都市伏見区御香宮門前町174・貞観四年(863)九月九日、境内に大変香の好い水が湧き出て、この水を飲むと病がたちまち癒ったという奇瑞から清和天皇より「御香宮」の名を賜った。天正十八年(1590)天下統一した豊臣秀吉は当社に願文と太刀を奉納、伏見築城に際し、鬼門除けの神として城内に勧請した。慶長十年(1605)徳川家康は当社を元の地に戻し本殿を造営した。また表門は水戸の徳川頼房、拝殿は紀伊の徳川頼宣の寄進によるものである。慶応四年(1868)の伏見鳥羽の戦では、官軍の陣営が置かれたが、幸いにして戦火をまぬがれた。古来より伏見一帯の氏神として、多くの人々から信仰を集めている。本殿・拝殿は近年大修理の結果、桃山時代の豪壮華麗な極彩色の建物が蘇った。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

『社寺神仏豆知識』49・虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)、梵名アーカーシャガルバ仏教における信仰対象

虚空蔵1虚空蔵2『社寺神仏豆知識』49・虚空蔵菩薩 (こくうぞうぼさつ)、梵名アーカーシャガルバ仏教における信仰対象である菩薩の一尊。「明けの明星」は虚空蔵菩薩の化身・象徴とされ、知恵の菩薩とも評され、人々に知恵を授けてくれるともいわれる[1]。「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという。 元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。空海室戸岬の洞窟 御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったという。また、京都嵐山の法輪寺では、13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く十三詣りという行事が行われている。 胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の主尊であり、密教でも重視される。像容は右手に宝剣左手に如意宝珠を持つものと、右手は掌を見せて下げる与願印(よがんいん)の印相とし左手に如意宝珠を持つものとがある。後者の像容は求聞持法の本尊で、東京国立博物館蔵の国宝の画像はこれに当たる。彫像の代表例としては、奈良県大和郡山市額安寺像、京都市広隆寺講堂像などが挙げられる。 奈良県斑鳩町法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像は7世紀にさかのぼる古像だが、当初から虚空蔵菩薩と呼ばれていたかどうかは定かでない。また、法隆寺百済観音像は宝冠が見つかった明治時代前半までは寺内で墨蹟銘から「虚空蔵菩薩像」と呼ばれていた。五大虚空蔵菩薩は、虚空蔵菩薩のみ5体を群像として表したものである。虚空蔵菩薩の五つの智恵を5体の菩薩像で表したものとも言い、五智如来の変化身(へんげしん)とも言う。五大虚空蔵菩薩像は、息災・増益などの祈願の本尊にもなっている。五大虚空蔵菩薩の名称、方位、身色は次の通りである。法界虚空蔵(中央、白色)金剛虚空蔵(東方、黄色)宝光虚空蔵(南方、青色)蓮華虚空蔵(西方、赤色)業用(ごうよう)虚空蔵(北方、黒紫色)五大虚空蔵菩薩の彫像の作例としては、京都・神護寺多宝塔安置の像(平安初期・国宝)が著名である。京都・東寺観智院安置の五大虚空蔵菩薩像(重文)は、空海の孫弟子にあたる恵運から招来した像である。法界、金剛、宝光、蓮華、業用の各像はそれぞれ馬、獅子、象、金翅鳥(こんじちょう)、孔雀の上の蓮華座に乗っている。この観智院像は、元は山科(京都市山科区)の安祥寺にあったものである。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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