『社寺神仏豆知識』37・出雲大社教は、1873年(明治6年)、当時の出雲大社大宮司の千家尊福

images出雲『社寺神仏豆知識』37・出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、1873明治6年)、当時の出雲大社大宮司千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一。島根県出雲市の出雲大社社務所内に本部(教務本庁)があり、出雲大社の職員が教職員を兼務している。布教機関は全国に渡り設けられていて、特に中国地方を中心とした西日本に多くの分祠教会等がある。教団としての組織性はあまり強くない。統理者にあたる管長職は千家家が代々世襲している。2014現在の管長は六代・千家隆比古である。出雲大社附属の神職養成所である大社國學館では、卒業の際、神社本庁の神職の階位のほかに出雲大社教の教師資格も授与される。大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を奉斎し、「生死一つながらの一如の道を説く。また、人間は「霊止(ひと)」として霊的な存在であり、親神のムスヒ幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)の恩頼(みたまのふゆ)によって先祖からの一貫した霊を継承し、現身(うつしみ)の誕生があるとする。1873年(明治6年)、千家尊福が布教のため創設した「出雲大社敬神講」を前身とする。1882(明治15年)の「神官教導職分離令」によって神職の布教活動が原則禁止されたため、出雲大社より独立し別組織「神道大社派」(のちに「神道大社教」へ改称)となる。1951(昭和26年)、出雲大社は国家管理を離れ、1882年の分離令も失効したため、出雲大社に復帰合併し、出雲大社の職員が出雲大社教の職員を兼ねる。また教団名を「〜たいしゃきょう」から「〜おおやしろきょう」と改称する。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

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「史跡探訪」霊巌洞は、熊本県熊本市西区松尾町の雲巌禅寺の裏山にある洞窟

雲岩寺同7「史跡探訪」霊巌洞(れいがんどう)は、熊本県熊本市西区松尾町の雲巌禅寺の裏山にある洞窟宮本武蔵がこの洞窟に籠もって「五輪書」を書いたことで有名。洞窟内には岩戸観音の名で知られる観音像がある。宝物館には、巌流島で使用した木刀、自画像などが展示してある。

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)179”足利義輝“ 足利 義輝(1536~1566)室町時代後期の室町幕府第13代征夷大将軍

義輝3『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)179”足利義輝“

足利 義輝(1536~1566)室町時代後期の室町幕府13征夷大将軍(在職10年間)。第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。誕生直後に外祖父・近衛尚通猶子となる。この頃の幕府では父・義晴と管領細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。天文15年(154612月、菊童丸はわずか11歳にして、父から幕府将軍職を譲られる。天文17年(1548)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣・松永久秀の傀儡であった。天文22年(1553)に晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の天文23年(1554212日、名を義輝に改めている。なお年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。永禄元年(15585月、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。翌月、如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった。六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開。この年の、伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。永禄元年(1558)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死すると、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。こうした中、永禄5年(1562)に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。永禄8年(1565)久通と三好三人衆は主君・三好義継とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り取次ぎを求めた。義輝は自ら薙刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害された。享年30。この時、摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討ち死にした。また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

『歴史の時々変遷』(全361回)66“奥州合戦・前編” 「奥州合戦」前編・文治5年(1189)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏

奥州合戦③『歴史の時変遷』(全361回)66“奥州合戦・前編”

「奥州合戦」前編・文治5年(11897月から9月にかけて、鎌倉政権奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。鎌倉側の兵力動員に関わる古文書の多くはこの戦争を奥入、奥入りと呼んでおり、奥州追討、奥州合戦と記した文書もある。鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』は奥州征伐とするが、奥州合戦と記す箇所もある。明治以降の歴史学では『吾妻鏡』を踏襲して奥州征伐と呼ばれていた。平氏討滅後の源頼朝にとって、鎌倉政権を安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった。文治2年(11864月、頼朝はそれまで藤原氏が直接行っていた京都朝廷への貢馬・献金を、鎌倉経由で行うよう要求し、秀衡もそれに従った。文治4年(11882月、頼朝と対立して逃亡していた源義経が奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏していることが発覚した。秀衡は前年の10月に死去していたが、義経と子息の泰衡国衡の三人に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し三人一味の結束をもって頼朝の攻撃に備えるように遺言したという。頼朝は「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明し、藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨を下す。泰衡は遺命に従いこれを拒否し、業を煮やした頼朝は、文治5年(1189)になると泰衡追討宣旨の発給を朝廷に奏上している。これから遡ること数ヶ月前の出来事が『尊卑分脈』の記述されている。それによると、文治4年(1188年)の12月に泰衡が自分の祖母(秀衡の母)を殺害したとも取れる部分がある。真偽は不明だが、親族間の激しい相克があったと考えられている。翌文治5年(1189215日、泰衡は末弟(六弟)の頼衡を殺害している。222日、鎌倉では泰衡が義経の叛逆に同心しているのは疑いないので、鎌倉方から直接これを征伐しようと朝廷に一層強硬な申し入れが行われた。29日に基成・泰衡から「義経の所在が判明したら、急ぎ召し勧めよう」との返書が届くが頼朝は取り合わず、2月、3月、4月と執拗に奥州追討の宣旨を要請している。4月にで泰衡追討の宣旨を出す検討がなされた。

文治5年(1189)閏430日、鎌倉方の圧迫に屈した泰衡は平泉衣川館の義経を襲撃して自害に追い込んだ。後白河法皇はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて静謐せしむるか。今においては弓箭をふくろにすべし」と頼朝に伝えた。613日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、26日に泰衡は異母弟(三弟)・忠衡を誅殺している。忠衡は父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こしたため、討たれたと考えられている。なお、理由は不明であるが、四弟・高衡は生き残っている。泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、719日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれたが、頼朝は大庭景義の「戦陣では現地の将軍の命令が絶対であり天子の詔は聞かない」「泰衡は家人であり誅罰に勅許は不要である」との進言を受けて、宣旨なしでの出兵を決断した。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

 

「新西国観音三十三所巡り」立木山寺”新西国20番札所“・滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の二十番

た立木山寺2 (2)「新西国観音三十三所巡り」立木山寺”新西国20番札所“・滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の二十番である。正式の寺号は「安養寺」(あんようじ)といい厄除けの寺院として知られる。「立木観音」の通称でも知られており地元では「立木さん」とも呼ばれる。寺伝によれば、815弘仁六年)、空海(弘法大師)がこの地に立ち寄った際、瀬田川の対岸に光り輝く霊木を見つけた。ところが川の流れが速く、渡れないでいるところに白鹿が現れ、大師を背に乗せ対岸まで導いてくれた。白鹿はたちまち観世音菩薩に姿を変え、虚空に消え去ったという。この奇跡に感服した弘法大師は霊木に五尺三寸の観世音菩薩像を彫刻し、それを本尊としてこの寺を建てたという。この時、空海が厄年の四二歳であったとされるため、広く厄除けの霊験あらたかな観音像として信仰されることとなった。当寺は現在浄土宗に属するが、空海開基の伝承をもつことから、創建当初は真言密教系の寺院であったと推定される。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

「古社寺探訪」熱田神宮・愛知県名古屋市熱田区にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社・

熱田神宮ん「古社寺探訪」熱田神宮・愛知県名古屋市熱田区にある神社式内社名神大社)、尾張国三宮旧社格官幣大社名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない。種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。ただし、この剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも熱田神宮に保管されたままともいわれている(「天叢雲剣」を参照)。主祭神・熱田大神 三種の神器の一つ・草薙神剣を神体とする天照大神を指すとしている。相殿神・天照大神素盞嗚尊 日本武尊 宮簀媛命建稲種命 である。熱田大神とは草薙剣の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、熱田大神は草薙剣を御霊代・御神体としてよらせられる天照大神のことであるとしている。しかし、創建の経緯などからすると日本武尊と非常にかかわりの深い神社であり、熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強い。相殿には、天照大神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命と草薙剣に縁のある神が祀られている。素盞嗚尊は、ヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授けた。日本武尊は、草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。宮簀媛命は、熱田の地を卜定して草薙剣を祀った。建稲種命は宮簀媛命の兄で、日本武尊の蝦夷征伐に副将として従軍した。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

『歴史歳時記豆知識』45・荘官(しょうかん)は、日本の荘園制において、荘園領主(本所)

荘官8荘官2『歴史歳時記豆知識』45・荘官(しょうかん)は、日本荘園制において、荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった。平安時代中期の10世紀後半から11世紀にかけて、田堵(たと、有力農民層のこと)が国司に認められた免田(租税免除された田地)を中心に田地の開発を進め、私有地化していった(このような田堵を開発領主という)。しかし、そうした土地の所有権に係る法的根拠は極めて薄弱であり、国衙によって収公されるおそれが強かった。そのため田堵は所有地を中央の有力貴族や有力寺社へ寄進することで、租税免除と土地支配権の確保を図っていった。寄進を受けた荘園領主を領家(りょうけ)というが、寄進の際、開発領主は領家から下司(げし/げす)や公文(くもん)、出納(すいとう)などに任命されることにより、現地管理者としての地位を保全された。これらの下司や公文などを総称して荘官という。一般的に荘官には、荘園の一部から給田(きゅうでん)が与えられた。給田は免田とされ、収穫は全て荘官の得分となった。なお、下司とは、上位の荘園領主を上司と見たときの対比から生まれた呼称であり、また公文は、荘園管理のための帳簿や文書を扱うことから来た呼称である。領家からさらに皇族摂関家へ荘園寄進されることもあり、この最上位の荘園領主を本家(ほんけ)という。本家・領家のうち、荘園の実効支配権を持つ者は本所といったが、本所が自らの荘園支配を強化するために、家臣を現地へ派遣し、下司や公文などを指揮監督することがあった。この現地へ派遣された者を(あずかりどころ/あずかっそ)という。預所も荘官の一つである。そのうち、開発領主(下司や公文に任命された者を含む)の中から預所に任じられる者も出てきた。荘園の支配・管理は、現代のように明確な法規定があった訳ではなく、荘園領主の権威に依存する不安定なものだった。そのため、他の荘園の荘官や国衙との間に、荘園の支配・管理権や境界をめぐる紛争が発生することも多く、荘官がその対処に当たっていた。当時、中央の官職にあぶれた武士身分の下級貴族軍事貴族)が多数、地方へ下向してきており、荘官たちは荘園を巡る紛争解決のために、それらの武士貴族と主従関係を築いていき、中には武士となる荘官も現れた(全ての荘官が武士化した訳ではないことに注意)。鎌倉時代になると、鎌倉幕府によって御家人地頭として認められる荘官も出てきた。このことは、荘園領主による地位保全では十分とは言えなくなり、新たな権威として台頭した幕府を頼り始めたことを意味する。荘官は次第に荘園領主(本所)を軽視していき、本所の権益を奪うようになっていった。室町時代に入った頃から、荘官は在地領主としての国人へ変質した。それでも荘官は荘園制とともに戦国時代まで存続したが、荘園が解体した太閤検地により荘官も消滅した。ただし、江戸時代も荘官の名残として「庄屋」や「名主」などの呼称は残った。

 

 

 

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)178“足利義晴” 足利義晴(1511~1550)室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍

義治4『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)178“足利義晴”

足利義晴(1511~1550)室町時代後期(戦国時代)の室町幕府12将軍(在職25年間):(1521-1546)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪。西国最大の大名・大内義興に擁された前将軍足利義稙が上洛した煽りを受け、父の義澄は将軍職を解任され近江六角高頼を頼って落ち延びていた。その最中の永正8年(151135日に、義澄の長男として、亀王丸は近江国蒲生郡水茎岡山城で生まれた。しかし同年814日、父は帰洛を果たせずに同地で死去している。永正18年(1521年)37日、管領細川高国と対立した義稙が京都を出奔したことで、同月22日に行われた後柏原天皇即位式に出仕しなかったために高国が警固の職務を行った。これによって天皇の信任を失った義稙の放逐を決意した高国によって、友誼を通じる浦上村宗の元にいる亀王丸は代わりの将軍として招かれる事ことになる。上洛では、高国の歓待を受けると、内裏へ代始の参賀を行った。高国の判断を受け入れた朝廷からは、右馬頭任ぜられると、1亀王丸の元服が行われ義晴と以後名乗る。翌25日に義晴は第12代将軍に補任された。大永6年(1526)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川晴元は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄波多野稙通柳本賢治らが高国から離反し、大永7年(1527)に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波国人・三好元長や細川晴元らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。天文3年(1534)中には六角定頼義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。しかし、その後も晴元と対立して敗れた後、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542)には京都へ帰還。天文12年(1543)には近江に再び逃れるなどしている。天文15年(1546)夏、義晴は細川氏綱畠山政国遊佐長教らと通じて晴元を排斥しようと画策した。義晴は京都郊外の東山慈照寺(銀閣寺)に入り、遊佐・氏綱の両名は軍を率いて各地で晴元方を破っていった。しかし晴元の重臣・三好長慶の弟である三好実休安宅冬康(鴨冬)らが四国から軍勢を率いて渡海し上洛すると一気に形勢は不利になり、北白川の瓜生山城に入城したものの晴元と対立して敗れ、近江坂本に避難した。この時の嫡男菊童丸元服させて「義藤」と名乗らせ、将軍職を譲った。以後は大御所として幼少の義輝の後見人となり、義輝と共に慈照寺に帰った。義晴は京都を奪回するため、慈照寺の裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始した。しかしこの頃から病がちになり、天文19年(155037日には坂本から穴太に移動したが、病が重くなって動けなくなった。そして54日、穴太にて死去した。享年40(満39歳没)。死因は悪性の水腫だったという。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「史跡探訪」鳥取市は鳥取藩主池田家墓所・史跡鳥取藩主池田墓所は初代藩主池田光仲の墓所

DSC_1220.jpg「史跡探訪」鳥取市は鳥取藩主池田家墓所・史跡鳥取藩主池田墓所は初代藩主池田光仲の墓所として元禄6年(1693)現在の鳥取市国府町奥谷に池田家の廟所と定め代々の藩主とその関係者の墓所が設置された。この地の墓所は池田家の菩提寺の伯耆国興禅寺からその末寺として「清源寺」として明治の廃藩置県まで墓所の管理をされてきた。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

『歴史の時々変遷』(全361回)65“藤戸の戦い” 「藤戸の戦い」、平安時代の末期の寿永3年/元暦元年12月7日に備前国児島

藤戸1『歴史の時変遷』(全361回)65“藤戸の戦い”

「藤戸の戦い」平安時代の末期の寿永3/元暦元年12月7備前国児島藤戸と呼ばれる海峡(で源範頼率いる平氏追討軍と、平家平行盛軍の間で行われた戦い。治承・寿永の乱における戦いの一つ。藤戸合戦児島合戦とも言う。寿永32月71184)の一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れた。平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平氏家人であり、瀬戸内海の制海権を握っていた。寿永3/元暦元年9月1日 (旧暦)118410月7)、源範頼率いる平氏追討軍はを出発して西国へ向かった。海上戦に長けた平氏軍に対し、を持たない追討軍はその確保が課題であった。瀬戸内海の武士団を味方に付けるべく、鎌倉頼朝9月19に平氏から離反したと思われる讃岐国家人に対して、西国伊予国の武士橘公業に従い、平家討伐のため鎮西に向かうことを命じている。また武蔵国の御家人豊島有経紀伊国守護に任じられ、兵士や兵糧の調達にあたった。また梶原景時10月に淡路国で水軍の調査を行い、石見国の有力武士益田兼高を源氏方に付けるなど軍事・政治両面での工作活動を行っている。しかし源氏軍の水軍確保は進まず、範頼は10月に安芸国まで軍勢を進出させたが、屋島から兵船2000艘を率いて来た平行盛によって兵站を絶たれ、11月中旬になると範頼から鎌倉の頼朝へ兵糧の欠乏と東国武士たちの士気の低下を訴える手紙が次々送られている。現在の藤戸周辺は干拓により陸地となっているが合戦の当時は海に島が点在している状態であった。平行盛は500余騎の兵を率いて備前児島(現在の児島半島)の篝地蔵(かがりじぞう、倉敷市粒江)に城郭を構えた。九州上陸を目指す源氏軍にとって、この山陽道の平氏拠点の攻略は必須課題であり、追討軍の佐々木盛綱が城郭を攻め落とすべく幅約500mの海峡を挟んだ本土側の藤戸(現在の倉敷市有城付近)に向かう。『吾妻鏡』によると、波濤が激しく船もないため、渡るのが難しく盛綱らが浜辺に轡を止めていたところ、行盛がしきりに挑発した。盛綱は武勇を奮い立たせ、馬に乗ったまま郎従6騎を率いて藤戸の海路三丁余りを押し渡り、向こう岸に辿り着いて行盛を追い落としたという。平氏軍は敗走し、讃岐国屋島へと逃れた。この合戦は『平家物語』「藤戸合戦」の段で9月の事として書かれ、盛綱の活躍も吾妻鏡と一致しているが、盛綱が先陣の功を狙って浦の男に地形を尋ね、浅瀬を見つけた後で口封じの為に男を殺してしまう場面は、覚一本など語り本系『平家物語』のみに見られ、延慶本や『源平盛衰記』にはない話である。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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