『社寺神仏豆知識』37・出雲大社教は、1873年(明治6年)、当時の出雲大社大宮司の千家尊福

『社寺神仏豆知識』37・出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、1873年(明治6年)、当時の出雲大社大宮司の千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一。島根県出雲市の出雲大社社務所内に本部(教務本庁)があり、出雲大社の職員が教職員を兼務している。布教機関は全国に渡り設けられていて、特に中国地方を中心とした西日本に多くの分祠、教会等がある。教団としての組織性はあまり強く...

「史跡探訪」霊巌洞は、熊本県熊本市西区松尾町の雲巌禅寺の裏山にある洞窟

「史跡探訪」霊巌洞(れいがんどう)は、熊本県熊本市西区松尾町の雲巌禅寺の裏山にある洞窟。宮本武蔵がこの洞窟に籠もって「五輪書」を書いたことで有名。洞窟内には岩戸観音の名で知られる観音像がある。宝物館には、巌流島で使用した木刀、自画像などが展示してある。...

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)179”足利義輝“ 足利 義輝(1536~1566)室町時代後期の室町幕府第13代征夷大将軍

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)179”足利義輝“ 足利 義輝(1536~1566)室町時代後期の室町幕府第13代征夷大将軍(在職10年間)。第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となる。この頃の幕府では父・義晴と管領の細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復...

『歴史の時々変遷』(全361回)66“奥州合戦・前編” 「奥州合戦」前編・文治5年(1189)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏

『歴史の時々変遷』(全361回)66“奥州合戦・前編” 「奥州合戦」前編・文治5年(1189)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。鎌倉側の兵力動員に関わる古文書の多くはこの戦争を奥入、奥入りと呼んでおり、奥州追討、奥州合...

「新西国観音三十三所巡り」立木山寺”新西国20番札所“・滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の二十番

「新西国観音三十三所巡り」立木山寺”新西国20番札所“・滋賀県大津市にある浄土宗の寺院。新西国三十三箇所の二十番である。正式の寺号は「安養寺」(あんようじ)といい厄除けの寺院として知られる。「立木観音」の通称でも知られており地元では「立木さん」とも呼ばれる。寺伝によれば、815年(弘仁六年)、空海(弘法大師)がこの地に立ち寄った際、瀬田川の対岸に光り輝く霊木を見つけた。ところが川の流れが速く、渡れない...

「古社寺探訪」熱田神宮・愛知県名古屋市熱田区にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社・

「古社寺探訪」熱田神宮・愛知県名古屋市熱田区にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社・名古屋市南部の熱田台地の南端に鎮座する。古くは伊勢湾に突出した岬上に位置していたが、周辺の干拓が進んだ現在はその面影は見られない。三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)を祀る神社として知られる。ただし、この剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも熱田神宮に保管されたままともいわれている(「天叢...

『歴史歳時記豆知識』45・荘官(しょうかん)は、日本の荘園制において、荘園領主(本所)

『歴史歳時記豆知識』45・荘官(しょうかん)は、日本の荘園制において、荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった。平安時代中期の10世紀後半から11世紀にかけて、田堵(たと、有力農民層のこと)が国司...

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)178“足利義晴” 足利義晴(1511~1550)室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)178“足利義晴”足利義晴(1511~1550)室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職25年間):(1521~-1546)。第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪。西国最大の大名・大内義興に擁された前将軍足利義稙が上洛した煽りを受け、父の義澄は将軍職を解任され近江の六角高頼を頼って落ち延びていた。その最中の永正8年(1511)3月5日に、義澄の長男とし...

「史跡探訪」鳥取市は鳥取藩主池田家墓所・史跡鳥取藩主池田墓所は初代藩主池田光仲の墓所

「史跡探訪」鳥取市は鳥取藩主池田家墓所・史跡鳥取藩主池田墓所は初代藩主池田光仲の墓所として元禄6年(1693)現在の鳥取市国府町奥谷に池田家の廟所と定め代々の藩主とその関係者の墓所が設置された。この地の墓所は池田家の菩提寺の伯耆国興禅寺からその末寺として「清源寺」として明治の廃藩置県まで墓所の管理をされてきた。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。...

『歴史の時々変遷』(全361回)65“藤戸の戦い” 「藤戸の戦い」、平安時代の末期の寿永3年/元暦元年12月7日に備前国児島

『歴史の時々変遷』(全361回)65“藤戸の戦い” 「藤戸の戦い」、平安時代の末期の寿永3年/元暦元年12月7日に備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた戦い。治承・寿永の乱における戦いの一つ。藤戸合戦、児島合戦とも言う。寿永3年2月7日(1184)の一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れた。平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平氏家...