史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

「奈良古社寺探訪」橘寺・新西国10番札所“奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」

た橘寺j (1)「奈良古社寺探訪」橘寺・新西国10番札所“奈良県高市郡明日香村にある天台宗寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀天武天皇九年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。発掘調査により、講堂跡の手前に石列が検出されたことから、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた(講堂は回廊外に所在した)可能性があり、その場合は山田寺式伽藍配置となる。ただし、検出された石列の長さが短いことと、石列と講堂跡とが接近していることから、講堂の手前を回廊が通っていたか否かは明確でない。皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰えている。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

「一ノ宮巡り」淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮・祭神伊奘諾尊・伊奘冉尊 兵庫県淡路市多賀740・式内社・旧官幣大社

い伊弉諾神社8「一ノ宮巡り」淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮・祭神伊奘諾尊・伊奘冉尊

兵庫県淡路市多賀740・式内社・旧官幣大社

『記紀』の神話によると淡路島に鎮座する伊奘諾神宮の祭神のイザナギ神とイザナミ神は日本の国の生みの親になる。

『記紀』によれば国生み、神生みを終えてイザナギ神は最初に国生みを行なった淡路島の多賀後に幽宮(くりのみや)(終焉の御住居)に鎮まった。

当社の起源になる。イザナギの終焉の地として滋賀の多賀大社がある。『古事記』であは「近江」「近淡海」とあるが淡路島は「淡海」の淡道は誤写とする説もある。『日本書紀』はあくまで「淡道」として「近江」に該当しないとしている。

記述に依れば大同元年(806)神封十三戸が充てられ、天慶三年(940)官封で五戸加増された。『延喜式神名帳』に「淡路国津名郡九座、大一座、小八座、淡路伊佐那伎神社、名神大」と記載されている。

平安時代から鎌倉時代にかけて徐々に一ノ宮の記述が現れ出し、一の宮として崇敬され認められるようになっていった。また『淡路国大田文』から鎌倉時代の初期から神宮寺が有ったことが分る。

当社の神宮寺であった妙京寺の記録に依れば、弘安三年(1280)坂上田村麻呂の子孫の田村経春は社殿を再興した。武田勝頼との戦いで先陣を命じられたが従わず切腹となった。

次に江戸時代には徳島藩主蜂須賀家に崇敬され元和七年(1621)黒印状で一宮供領十石を得ている。

その後、当社の管理を廻り、寺家と社家の主導権争いで宝暦年間に六年にも及ぶ『一宮の唯一騒動』の記載が残されている。檀家を持たず一宮領分を配分して祭礼を勤める社家六坊と別当の妙京寺の末寺六坊の存在が分る。この社家六坊は神宮寺と考えられる。その後神宮寺の改宗で法相宗とも真言宗とも言われた神宮寺が日蓮宗に改宗されそれに従わない社僧は追放されたと言う。昭和七年にイザナミ神を合祀した。又昭和昭和二十七年に伊奘諾神社を伊奘諾神宮に改められた。★『古事記』では伊邪那(いざな)()(かみ)・(国生みを命じられた神、男神でイザナミ神と夫婦、イザナミ神が出産で火傷を負って亡くなり黄泉の国に行ってしまって後を追って行くが連れ戻せなかった。黄泉国から帰還し穢れた体を禊をして多くの神を産む、最後に神生みを行なって三貴公子を産む。) 伊邪那(いざな)()(かみ)・(イザナキ神と国生み神生みをして火の神の子カグツチを産んで死んだ。黄泉の国に行った。伊邪那岐神と夫婦神 女神)  ※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

『社寺神仏豆知識』36・伊勢神道(いせしんとう)とは、伊勢神宮で生まれた神道の説。外宮の神職(度会氏)

 aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa.jpg『社寺神仏豆知識』36・伊勢神道(いせしんとう)とは、伊勢神宮で生まれた神道の説。外宮の神職(度会氏)の間で唱えられるようになった。このため、度会神道外宮神道ともいう。鎌倉時代末期に、それまでの両部神道山王神道などの本地垂迹説とは逆に、反本地垂迹説(神本仏迹説)が勃興するようになり、その影響で、伊勢神宮の外宮の神官である度会家行によって、伊勢神道が唱えられた。伊勢神道は、『神道五部書』(偽書とされる[1])を根本経典とする。また、儒教道教思想の要素も含まれた最初の神道理論とされる。伊勢神道は、元寇により、日本を「神国」であると再認識し、唯一絶対の日本の宗教が神道であるとする勢力のよりどころとされて、発展した。その思想は、外宮の祭神である豊受大神を、天地開闢に先立って出現した天之御中主神国常立尊と同一視して、内宮の祭神である天照大神をしのぐ普遍的神格(絶対神)とし、内宮に対抗する要素があった。それまで、外宮の豊受大神は、内宮の天照大神に奉仕する御饌津神とされていたが、度会氏は『神道五部書』を根拠に、外宮を内宮と同等、あるいはそれ以上の権威あるものとし、伊勢神宮における外宮の地位の引き上げを目指した。伊勢神道の理論の構成には、中国思想の影響が多分に感じられるが、絶対神の存在を強調することで、神を仏の上位におき、反仏、排仏の姿勢を示したのである。伊勢神道は、鎌倉時代・室町時代を前期、江戸時代を後期とする。代表的な神道家として、創唱者の度会家行のほか、出口延佳などがあげられる。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

「史跡探訪」1仁風閣・鳥取市の仁風閣は明治40年に鳥取当主14代池田仲博伯爵が宮廷建築外一人者の片山東熊工学博士

仁風館 「史跡探訪」1仁風閣・鳥取市の仁風閣は明治40年に鳥取当主14代池田仲博伯爵が宮廷建築外一人者の片山東熊工学博士の設計によって建てられた。明治39年に着工僅か8カ月で完成、翌年の40年に大正天皇の山陰地方行啓の宿舎として使用された。その時に随行をした東郷平八郎が、この仁風閣と命名をした。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

『歴史の時々変遷』(全361回)64”葦屋浦の戦“ 「葦屋浦の戦い」平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。元暦寿永4年

葦屋浦3歴史の時変遷』(全361回)64”葦屋浦の戦“

「葦屋浦の戦い」平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。元暦寿永4年(118521日、源範頼率いる平氏追討軍が筑前国の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町・西浜町・白浜町・幸町一帯の湾港)で、九州の平家方の豪族原田種直らとの合戦に勝利して九州上陸を果たした戦い。前年2月の一ノ谷の戦い後、屋島に敗走した平家一門は、なお瀬戸内海一帯の制海権を握り勢力を保っていた。元暦2年(1184)、源頼朝は海上が平穏になる6月頃から行動開始の準備を始め、8月に弟の範頼を総指揮官として鎌倉から東国武士の総領格をそろえた主力部隊を西上させ、91日、範頼率いる平氏追討軍がを出発した。山陽道を下って10月に安芸国まで軍勢を進めたものの、平氏の平行盛軍によって兵站を断たれて窮乏し、九州まで兵を進める計画は頓挫していた。11月中旬に範頼は鎌倉の頼朝への書状で兵糧の欠乏、兵の士気の低下をしきりと訴えており、頼朝からは船と兵糧を送ることと、くれぐれも地元の九州武士の恨みを買わないこと、東国武士を大切にすることなど、細かい注意を繰り返し書いた返事が出されている。127日の藤戸の戦いでは佐々木盛綱の活躍で辛勝するも、水軍力を持たず兵糧も得られない範頼軍の苦戦は続き、年が明けた元暦2年(1185)正月12日、周防国から平氏が拠る長門国赤間関に到達して九州へ渡海しようとしたが、彦島平知盛軍に行く手を阻まれ、平氏追討もままならなかった。逗留は数日に及び、東国武士達に厭戦気分が蔓延し侍所別当和田義盛さえも密かに関東へ帰ろうとする始末であった。しかし早くから反平氏の兵を挙げていた豊後国の豪族緒方惟栄臼杵惟隆の兄弟から兵船82艘の献上があり、周防国の宇佐那木上七遠隆から兵糧米の提供を受け、範頼軍はいったん周防国へ戻って26日にようやく豊後国へ船出した。この日渡海したのは北条義時足利義兼小山朝政、同宗政、同朝光武田有義中原親能千葉常胤、同常秀下河辺行平、同政義浅沼広綱三浦義澄、同義村八田知家、同知重葛西清重渋谷重国、同高重比企朝宗、同能員、和田義盛、同宗実、同義胤、大多和義成安西景益、同明景、大河戸広行、同行元、中条家長加藤景廉工藤祐経、同祐茂天野遠景、一品坊昌寛土佐坊昌俊小野寺道綱らである。北条義時、下河辺行平、渋谷重国、品河清実が最初に上陸し、文治元年(118521日に筑前国葦屋浦で平氏方の原田種直と子の賀摩種益らの攻撃を受け合戦となる。行平・重国らが駆けめぐり矢を放って応戦し、種直らは重国によって射られ、行平が美気種敦を討ち取った。この合戦の勝利により、平氏の地盤であった長門・豊前・筑前は範頼軍に制圧され、わずかな海峡を隔てて彦島の平氏は孤立させられた。『吾妻鏡』の同日条には、下河辺行平が一番乗りの勲功を挙げるべく甲冑を売って小舟を買い取ったこと、三浦義澄が周防国の守備に当たるよう依頼されるが一番乗りの勲功が得られないと断り説得されて周防で陣を構えたことが書かれている。鎌倉源氏軍の九州上陸にあたり、豊後国の要塞を押さえていた緒方惟栄らの役割は大きく、22日には頼朝の申請により豊後国住人の勲功を賞する後白河院庁下文が出された。

 

 

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)177“足利成氏“ 足利成氏(1434~1497)、室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方、

成氏4『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)177“足利成氏“

足利成氏(1434~1497)室町時代から戦国時代武将。第5鎌倉公方、初代古河公方。父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は文安4年(1447)とする説も有力。父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。永享の乱の際に鎌倉府は滅亡したが、嘉吉元年に将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)後、鎌倉府再興の運動が開始された。越後守護上杉房朝や関東諸士から室町幕府への働きかけ、あるいは上杉氏一門、家老から幕府への働きかけ、幕府管領畠山持国の支持などの結果、文安6年(または宝徳元年)に鎌倉府再興が承認される。持氏の遺児の成氏は信濃の大井持光の元から、新たな鎌倉公方として鎌倉に帰還した。成氏は鎌倉に戻った後に代始めの徳政を行った。宝徳3年(1451)、成氏は従四位下左兵衛督に昇進した。享徳元年(1452)、室町幕府の管領が畠山持国から細川勝元に替わった。勝元は鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとり、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡した。関東管領を通じて、再び幕府が関東を直接統治する意思を示したものである。享徳3年(14541227日に、成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。京都では東国から事件の報せが届いた時、父を死に追いやった上杉氏への恨みが原因とみなされたが、実際には鎌倉府内部の対立が大きな要因と考えられる。この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発する。翌享徳4年(1455)正月に、成氏は上杉勢の長尾景仲・太田資清を追って鎌倉を進発した。武蔵分倍河原の戦いでは、上杉憲秋・扇谷上杉顕房を戦死させた。成氏は下総古河に到着しており、さらに各地を転戦する。敗れた上杉勢が常陸小栗城に立て籠もると、成氏はさらに攻め立てて、小栗城を陥落させた。山内上杉家は、憲忠の弟・房顕を憲忠の後継とし、体制の立て直しを図った。室町幕府は上杉氏支援を決定し、享徳44月に後花園天皇から成氏追討の綸旨と御旗を得たために、成氏は朝敵となる。房顕は上野平井城に入り、越後上杉氏の援軍と小栗城の敗残兵が、下野天命・只木山に布陣した。その後、成氏は鎌倉を放棄し、下総古河を本拠地としたので、これを古河公方と呼ぶ。享徳46月に古河鴻巣に屋形を設け、長禄元年(145710月には修復が終わった古河城に移った。古河を新たな本拠とした、古河公方側の武家・豪族の中でも、特に小山持政は成氏が後に兄と呼ぶほど強く信頼しており、同様に強固な支持基盤となった結城氏の存在とあわせて、近接する古河を本拠とする動機の1つになったと考えられる。更に成氏の兄弟で勝長寿院門主であった成潤も自らが別当を兼務する日光山に対抗する姿勢を見せている。成氏は幕府に対して、これは上杉氏との抗争であり、幕府には反意がないことを主張したが、回答は得られなかった。京都では享徳47月に康正、康正39月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す。都鄙合体の後、成氏は朝敵の汚名から解放され、嫡男の政氏の名前も将軍義政から一字を譲り受けた。その後も古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争勃発など不安定な状態が続き、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。長享3年(1489)の文書に政氏の証判が見られることから、この頃には家督を譲っていたとも考えられている。明応6年(1497年)9月晦日(30日)死去。64歳であったとされる。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

 

「新西国観音三十三所巡り」神呪寺(かんのうじ)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は甲山。真言宗御室派別格本山。

 か神呪寺5「新西国観音三十三所巡り」神呪寺(かんのうじ)は兵庫県西宮市甲山山麓にある仏教寺院。山号は甲山。真言宗御室派別格本山。甲山大師とも呼ばれ、本尊は如倫観音像。新西国観音二一番札所。地元では「お大師さん」とも呼ばれている。寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。 それによると、神呪寺は第53淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王天長四年(827)に橘氏公三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、四天王寺創建に伴って聖徳太子が開基した京都頂法寺にて、丹後国余佐郡香河村の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。香河では小萩(こはぎ)という幼名が伝わり、この小萩=真名井御前をモデルとした小萩観音を祀る寺院がある。古代、丹後の国は中央氏族とは別系統の氏族(安曇氏などの海人系氏族)の勢力圏であり、大王家に対し后妃を出す氏族であった。この余佐郡の娘、小萩は日下部氏の系統である可能性が高い。『元亨釈書』によれば、淳和天皇第四妃真名井御前=如意尼は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長五年(828)にひそかに宮中を抜け、頂法寺六角堂で修業をしてその後、今の西宮浜(御前浜)の浜南宮(西宮神社)から廣田神社、その神奈備山、甲山へと入っていった。この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長七年(830)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。この如意輪観音像を本尊として、天長八年(8311018日に本堂は落慶した。同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。 この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。 空海は海人系の氏族の出身だったといわれる。また、神呪寺の鎮守は弁才天であるが、元亨釈書18巻にも登場するこの神とは六甲山系全体を所領とする廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疎向津姫またの名瀬織津姫のことであり、水を支配する神でもあり、水運に関係のある者は古来より信仰を深めてきた。鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。 戦国時代には兵火により、荒廃した。現在の本堂江戸時代の再建。当初の寺領は淳和天皇より、150町歩の寄進があり、合わせて250町歩となったが、現在は境内地の20町歩となった。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

「二十二社巡り」住吉大社・大阪府大阪市住吉区住吉29の89・大和国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社

住吉大社と言えば下関の住吉大社・博多の住吉神社の「日本三大住吉』として賛否者も多く、中でも摂津の国一ノ宮住吉大社は全国二千三百社の総本社である。

主祭神は海の神として住吉三神に神功皇后の息長足姫命を合わせて四柱・第一本宮・底筒男命。第二本宮・中筒男命・第三本宮・表筒男命が・第四本宮に息長足姫命が祀られている。

社殿の第一は奥に、手前に第二、第三と縦に並び、第四は第三の右横に並んで立っている。神社建築の古い形式の一つ、「住吉造」であり国宝に指定されている。

創建は仲哀天皇の御世、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(堺市七道)付近に帰還した時、神功皇后の神託により天火明命の流れを汲む一族の豪族田裳見宿禰が住吉三神を祀ったのが始まりという。

『古事記』では「其の底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命三神は墨江の三前の大神なり」と記され三神の和魂を大津中倉長狭に鎮祭されたことに始まる。

住吉大社の古代大和王権の外交渡航の関連した神社で、遣唐使・遣隋使の守護神であった。特に津守氏遣唐神主として乗船をした。

説話に依れば神功皇后が長門豊浦宮から仲哀天皇の遺骸を取り納めて海路、都に向かわれた時、忍熊王の叛乱にあった。そこで古水門このみなと(武庫川)に帰って占った所、表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神が現れて「わが魂を大津の渟中倉の長峡に居らしめれば、海の航海は安全に見守ることしょう」と云われ、その通りにすると海を平安にわたることが出来たという。

大社の南部は細江川。古代の細江に当り仁徳天皇が開拓をさせた住吉津、「住之江津」から発展をする。

『延喜式神明帳』には「住吉坐神社、四坐」と記され、名神大社に列せられた。

現在の社殿は海岸線より離れ街中にあるが、江戸時代までは境内馬場は海に面し、白砂青松の風光明媚な美景の名所だった。

延暦三年(784)正三位住吉神に勲三等を賜る。大同元年(806)には従一位から正一位にまで昇叙された。

摂津国一ノ宮として朝野の境なく崇敬を受け、特に天皇の行幸は天武天皇以来数多く、鎌倉以降は武家、将軍を始め、建久六年(1195)源頼朝は神馬を奉納、楠正成、足利尊氏、豊臣秀吉らの厚い崇敬を受けた。

江戸時代に入ってからも徳川将軍以下の諸大名の崇敬厚く、参勤交代の際は当社に参拝する大名が多かった。

★『古事記』には住吉大神が多く記載されている。イザナキ大神は水中に入って黄泉の国に行って身に付いた穢れからは八十やそ禍津がまつかみ大禍津おおがまつかみが出現をした。

また禍を直そうとして生まれた神は神禍かんなびかみ大直おおなびかみ伊豆能売いずのめの三神。水の底です過ぎ生れた神は底筒之男そこつつのおとこかみ底津そこつ綿津わたつかみ、水の中程で生まれた神は中筒之男なかつつのおとこかみ中津なかつ綿津わたつかみ。また水面で漱ぎ生まれた神が上筒之男うえつつのおとこかみ上津うわつ綿津わたつかみが生まれた。

それぞれの神々は氏族の祖先神に底、中、上筒之男神は住吉三座の大神になった。

最後に『古事記』の源流になった三貴公子が左から天照大神・右目から月読命が鼻から建速須佐之男すさのをのおとこ命が生まれた。

★『古事記』には神宮皇后の新羅征伐に記されている住吉神は。

この国を統治される御子は、皇后の体内におられる。御子は男女の分けの問いに「男子である」のお告げ、この神託の御心の問いに、天照大御神と住吉神三神である。

西の国に求めるならば、住吉大神三神と諸神に西征の船に祭、充分な供え物と、大海に浮べて航海すればよいと、お告げがあった。

そこで、大神の教えの通り、軍勢を整え、船を並べて、海を並べて航海された時に、海の魚の大小、全て一緒に御船を背負って渡った。すると強い追い風が吹き起こり、御船は波に乗った。

その御船に押し進めた大波は新羅の国に寄せあがり、国土の半ばまで来た。

その国王は恐れはばかり「今からは天皇の仰せのまま、新羅は天皇の馬の飼育掛となり、毎年船を連ね、船の腹を乾かさず、棹・梶の乾く間もなく、天地のある限り、絶えることなくお仕え申します」と申した。そうした次第で新羅国を御馬飼いと定め、百済国を海彼の屯家を定めた。

そして皇后は、御杖を新羅の国王の城門を衝きて立て、住吉大神のあら御魂みたまが国を守る神として鎮めて、海を渡りなさった。この様に摂津一ノ宮の住吉大社は『古事記』にも重要な部分に登場し、地域の崇敬を集めた。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

「二十二社巡り」住吉大社・大阪府大阪市住吉区住吉29の89・大和国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社 住吉大社と言えば下関の住吉大社・博多の住吉神社の「日本三大住吉

す住吉大社4 (1)「二十二社巡り」住吉大社・大阪府大阪市住吉区住吉29の89・大和国一ノ宮・式内社・二十二社・旧官幣大社

住吉大社と言えば下関の住吉大社・博多の住吉神社の「日本三大住吉』として賛否者も多く、中でも摂津の国一ノ宮住吉大社は全国二千三百社の総本社である。

主祭神は海の神として住吉三神に神功皇后の息長足姫命を合わせて四柱・第一本宮・底筒男命。第二本宮・中筒男命・第三本宮・表筒男命が・第四本宮に息長足姫命が祀られている。

社殿の第一は奥に、手前に第二、第三と縦に並び、第四は第三の右横に並んで立っている。神社建築の古い形式の一つ、「住吉造」であり国宝に指定されている。

創建は仲哀天皇の御世、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(堺市七道)付近に帰還した時、神功皇后の神託により天火明命の流れを汲む一族の豪族田裳見宿禰が住吉三神を祀ったのが始まりという。

『古事記』では「其の底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命三神は墨江の三前の大神なり」と記され三神の和魂を大津中倉長狭に鎮祭されたことに始まる。

住吉大社の古代大和王権の外交渡航の関連した神社で、遣唐使・遣隋使の守護神であった。特に津守氏遣唐神主として乗船をした。

説話に依れば神功皇后が長門豊浦宮から仲哀天皇の遺骸を取り納めて海路、都に向かわれた時、忍熊王の叛乱にあった。そこで()古水門(このみなと)(武庫川)に帰って占った所、表筒男・中筒男・底筒男の住吉三神が現れて「わが魂を大津の渟中倉の長峡に居らしめれば、海の航海は安全に見守ることしょう」と云われ、その通りにすると海を平安にわたることが出来たという。

大社の南部は細江川。古代の細江に当り仁徳天皇が開拓をさせた住吉津、「住之江津」から発展をする。

『延喜式神明帳』には「住吉坐神社、四坐」と記され、名神大社に列せられた。

現在の社殿は海岸線より離れ街中にあるが、江戸時代までは境内馬場は海に面し、白砂青松の風光明媚な美景の名所だった。

延暦三年(784)正三位住吉神に勲三等を賜る。大同元年(806)には従一位から正一位にまで昇叙された。

摂津国一ノ宮として朝野の境なく崇敬を受け、特に天皇の行幸は天武天皇以来数多く、鎌倉以降は武家、将軍を始め、建久六年(1195)源頼朝は神馬を奉納、楠正成、足利尊氏、豊臣秀吉らの厚い崇敬を受けた。

江戸時代に入ってからも徳川将軍以下の諸大名の崇敬厚く、参勤交代の際は当社に参拝する大名が多かった。

★『古事記』には住吉大神が多く記載されている。イザナキ大神は水中に入って黄泉の国に行って身に付いた穢れからは八十(やそ)禍津(がまつ)()(かみ)大禍津(おおがまつ)()(かみ)が出現をした。

また禍を直そうとして生まれた神は神禍(かんなび)(かみ)大直(おおなび)(かみ)伊豆能売(いずのめ)の三神。水の底です過ぎ生れた神は底筒之男(そこつつのおとこ)(かみ)底津(そこつ)綿津(わたつ)()(かみ)、水の中程で生まれた神は中筒之男(なかつつのおとこ)(かみ)中津(なかつ)綿津(わたつ)()(かみ)。また水面で漱ぎ生まれた神が上筒之男(うえつつのおとこ)(かみ)上津(うわつ)綿津(わたつ)()(かみ)が生まれた。

それぞれの神々は氏族の祖先神に底、中、上筒之男神は住吉三座の大神になった。

最後に『古事記』の源流になった三貴公子が左から天照大神・右目から月読命が鼻から建速須佐之男(すさのをのおとこ)命が生まれた。

★『古事記』には神宮皇后の新羅征伐に記されている住吉神は。

この国を統治される御子は、皇后の体内におられる。御子は男女の分けの問いに「男子である」のお告げ、この神託の御心の問いに、天照大御神と住吉神三神である。

西の国に求めるならば、住吉大神三神と諸神に西征の船に祭、充分な供え物と、大海に浮べて航海すればよいと、お告げがあった。

そこで、大神の教えの通り、軍勢を整え、船を並べて、海を並べて航海された時に、海の魚の大小、全て一緒に御船を背負って渡った。すると強い追い風が吹き起こり、御船は波に乗った。

その御船に押し進めた大波は新羅の国に寄せあがり、国土の半ばまで来た。

その国王は恐れはばかり「今からは天皇の仰せのまま、新羅は天皇の馬の飼育掛となり、毎年船を連ね、船の腹を乾かさず、棹・梶の乾く間もなく、天地のある限り、絶えることなくお仕え申します」と申した。そうした次第で新羅国を御馬飼いと定め、百済国を海彼の屯家を定めた。

そして皇后は、御杖を新羅の国王の城門を衝きて立て、住吉大神の(あら)御魂(みたま)が国を守る神として鎮めて、海を渡りなさった。この様に摂津一ノ宮の住吉大社は『古事記』にも重要な部分に登場し、地域の崇敬を集めた。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

 

 

 

 

『社寺神仏豆知識』35・吉田神道(よしだしんどう)とは、室町時代京都吉田神社の神官吉田兼倶によって大成された神道

吉田1『社寺神仏豆知識』35・吉田神道(よしだしんどう)とは、室町時代京都吉田神社の神官吉田兼倶によって大成された神道の一流派。唯一神道卜部神道宗源神道とも。吉田神道は、室町時代、京都の神道家・吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派であるが、実際は吉田兼倶がほとんど一人で集成したと見られている。元本宗源神道、唯一宗源神道などを自称している。本地垂迹説である両部神道山王神道に対し、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築したとされる。『唯一神道名法要集』によれば、神道は本迹縁起神道、または社例縁起神道、両部習合神道、元本宗源神道の三種に分けられ、このうち第三の元本宗源神道は吉田家の祖先神であるアメノコヤネノミコトによって伝えられた正統的神道であるとする。同書によれば元本宗源神道とは「元とは陰陽不測の元元を明す。本とは一念未生の本本を明す。(中略)宗とは一気未分の元神を明す。源とは和光同塵の神化を明す。」ものであり、即ち「吾国開闢以来唯一神道是也」とする。吉田神道は、仏教道教儒教の思想を取り入れた、総合的な神道説とされる。吉田神道は、仏教を「花実」、儒教を「枝葉」、神道を「根」と位置づけた。吉田神道は、顕隠二教を以って一体となすのが特徴で、顕露教の教説を語るものとしては『古事記』『日本書紀』『先代旧事記』(三部本書)、隠幽教の教説は『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』(三部神経)に基づくとするが、兼倶独自のものとは言い難く、上述のとおり、仏教・道教・儒教のほか、陰陽道等の教理儀礼を取り入れたものといえる。また、密教加持祈祷も取り入れている。室町時代、吉田神道と同様に反本地垂迹説の立場をとっていた伊勢神道(度会神道)が南朝と結びつくことで勢力を失っていたため、吉田神道が反本地垂迹説を受け継ぐこととなった。吉田神道によって、反本地垂迹説は完成に導かれ、より強固なものとなった。兼倶はの秘宝伝授を行い『日本書紀』を後土御門天皇から比叡山の僧侶に至るまで講釈し、『神道大意』などが自身の家に伝えられたと捏造し、さらに伊勢信仰を吸収するために川の上流に塩をまき、「伊勢の神器吉田山に降臨した」と偽ったので神宮側から激しい反発が起こった。しかし活発な宣教運動により、日野富子らの寄付によって太元尊神を祭神とする神道の総本山を自称する斎場所太元宮を完成させ、朝廷や幕府に取り入って支持を取り付けつつ、従来の白川家をしのいで神職の任免権を得、権勢に乗じた兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていった。このように神道を日本の宗教の根本と言いながらも、それまでの儒教、仏教、道教、陰陽道(おんみょうどう)などを習合における矛盾を巧妙に解釈・混用した、きわめて作為的な宗教であったが、一方でその融合性に富むところから近世に広く長期に渡って浸透し続けた。本来の神道は皇室が主家であり、長く白川家が実務担当の役にあったが、以後、大部分の権限を吉田家が持つこととなった。一時衰退した時期もあったが、江戸期には、徳川幕府が1665年(寛文5年)に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いた。やがて平田篤胤らによる復古神道、いわゆる平田神道が隆盛となり、明治の神仏分離により吉田神道と対立する本地垂迹説はほぼ完全に衰退するものの、明治政府により古代の官制に基づく神祇官が復古されて、かつての権勢は失われている。※歴史の学ぶ 先人の教訓と智恵。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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