史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『社寺神仏豆知識』14・(仏教十三宗五十六派)律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。

鑑真0と唐招提寺O『社寺神仏豆知識』14・(仏教十三宗五十六派)律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。中国では、日本と異なり、正式なとなるには戒律を修めなければならなかったため、古くから研究が行われた。東晋代に、『十誦律』『四分律』『摩訶僧祇律』などの戒律が漢訳されると、戒律の研究が本格化した。北魏では、法聡四分律宗を開宗した。その後、地論宗に属する慧光468 - 537)が律宗の勢力を拡張した。代には南山律宗を開いた道宣が出て、『四分律行事鈔』を著述して戒律学を大成した。道宣は、慧光の系統に属しており、その門下からは、周秀・道世・弘景らの僧が出た。道宣の孫弟子である鑑真は、留学僧の要請で日本に律を伝えたとされている。一方、法励569 - 635)が『四分律』を研究し、相部宗を開いた。その弟子、懐素625 - 698)は、法励の『四分律疏』を批判して新疏を著わし、東塔宗を開宗した。その後、相部宗と東塔宗は衰退し、南山宗のみが栄えて、宋代まで伝承された。一方で、義浄三蔵が、多くの律書を漢訳したが、律宗の展開には影響しなかった。日本においても比較的初期の段階で戒律が伝えられていたものの、不完全なものでその意義が十分に理解されずに一部の寺院における研究に留まり、授戒の儀式も行われていなかった。天平勝宝5年(753)、鑑真6度の航海の末に唐から招来され、東大寺戒壇を開き聖武上皇称徳天皇を初めとする人々に日本で初めて戒律を授けた。後に唐招提寺を本拠として戒律研究に専念し、南都六宗の一つとして今日まで続いている。鑑真が伝えたのは『四分律』によるものであったが、平安時代最澄空海はこれを支持せず、空海は『十誦律』を重んじた(ただし、最澄は延暦寺に独自の戒壇を設置するが、空海は受戒については南都六宗と同様に東大寺にて行うなど態度に違いがある)。このため、戒律に関する考え方が分散化して律宗は衰微した。また、受戒そのものは東大寺・延暦寺を中心に盛んに行われたものの、官僧の資格をえるためのものとなり内容は形骸化していった。平安時代末期から鎌倉時代には実範明恵が戒律復興を論じ、それを引き継いで嘉禎2年(1236覚盛有厳円晴叡尊4人が国家と結びついた戒壇によらない自誓受戒を行った。後に覚盛は「四分律」を重視して唐招提寺を復興して律宗再興の拠点としたのに対して、叡尊は西大寺を拠点に真言宗の『十誦律』を中心とした真言律宗を開いた。更に京都泉涌寺俊芿南宋より新たな律宗を持ち帰った。このため、俊芿の「北京律」と「南都律」と呼ばれた唐招提寺派・西大寺派(真言律宗)両派の3つの律宗が並立した。この3派の革新派を「新義律」と呼称して、それ以前の「古義律」と区別することがある。しかし、結果的にこの新義律3派が議論と交流を重ねることで律宗の深化と再興が進み、中世には禅宗と律宗を合わせて「禅律」とも呼ばれて重んじられた。室町時代には禅宗に押されて再び衰退するが、江戸時代には明忍友尊慧雲が出現して再度戒律復興が唱えられた。なお、明治初期には、唐招提寺を例外として他の律宗寺院は全て真言宗に所轄されたが、1900明治33年)律宗として独立した。総本山 唐招提寺奈良市)・大本山 壬生寺京都市中京※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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『歴史歳時記豆知識』21・国司(こくし、くにのつかさ)とは?、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で

国司1国司2『歴史歳時記豆知識』21・国司(こくし、くにのつかさ)とは?、古代から中世の日本で、地方行政単位であるの行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である(かみ)、(すけ)、(じょう)、(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて参照のこと)。守の唐名刺史太守など。の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀行政司法軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。『日本書紀』には、大化の改新時の改新の詔において、穂積咋東国国司に任じられるなど、国司を置いたことが記録されている。このとき、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は国宰(くにのみこともち)という呼称が用いられたと言われており、国宰の上には数ヶ国を統括する大宰(おほ みこともち)が設置されたという(「大宰府」の語はその名残だと言われている)。その後7世紀末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されるようになったとされている。8世紀初頭の大宝元年(701)に制定された大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織である国郡里制に編成され、中央集権的な律令制が布かれることとなった。律令制において、国司は非常に重要な位置に置かれた。律令制を根幹的に支えた班田収授制は、戸籍の作成、田地の班給、租庸調の収取などから構成されていたが、これらはいずれも国司の職務であった。このように、律令制の理念を日本全国に貫徹することが国司に求められていたのである。平安時代天長3年(826)からは親王任国の制度が始まった。桓武天皇平城天皇嵯峨天皇は多くの皇子・皇女に恵まれたため充てるべき官職が不足し、親王の官職として親王任国の国司が充てられ、親王任国の国司筆頭官である守には必ず親王が補任されるようになった。親王任国の守となった親王は太守と称し、任国へ赴任しない遥任だったため、実務上の最高位は次官の介であった。また平安時代になると、朝廷は地方統治の方法を改め、国司には一定の租税納入を果たすことが主要任務とされ、従前の律令制的な人民統治は求められなくなっていった。それは、律令制的な統治方法によらなくとも、一定の租税を徴収することが可能になったからである。9世紀10世紀頃には田堵と呼ばれる富豪農民が登場し、時を同じくして、国衙(国司の役所)が支配していた公田が、名田という単位に再編された。国司は、田堵に名田を経営させ、名田からの租税納付を請け負わせることで、一定の租税額を確保するようになった(これを負名という)。律令制下では、人民一人ひとりに租税が課せられていたため、人民の個別支配が必要とされていたが、10世紀ごろになると、上記のように名田、すなわち土地を対象に租税賦課する体制(名体制(みょうたいせい))が確立したのである。一定の租税収入が確保されると、任国へ赴任しない遥任国司が多数現れるようになった。そして現地赴任する国司の中の最高責任者を受領と呼ぶようになった。王朝国家体制への転換の中で、受領は一定額の租税の国庫納付を果たしさえすれば、朝廷の制限を受けることなく、それ以上の収入を私的に獲得・蓄積することができるようになった。平安時代中期以降は開発領主による墾田開発が盛んになり、彼らは国衙から田地の私有が認められたが、その権利は危ういものであった。そこで彼らはその土地を荘園公領制により国司に任命された受領層である中級貴族に寄進することとなる。また、受領層の中級貴族は、私的に蓄積した富を摂関家などの有力貴族へ貢納することで生き残りを図り、国司に任命されることは富の蓄積へ直結したため、中級貴族は競って国司への任命を望み、重任を望んだ。『枕草子』には除目の日の悲喜を描いている。平安中期以降、知行国という制度ができた。これは皇族や大貴族に一国を指定して国司推薦権を与えるもので、大貴族は親族や家来を国司に任命させて当国から莫大な収益を得た。

新しく国司に任ぜられる候補としては、蔵人式部丞民部丞外記検非違使などが巡爵によって従五位に叙せられたものから選ばれる[2]ほか、成功院宮分国制などもあった。国司の選任に当たっては、その国に住み所領を持つ者は、癒着を防止するという観点から任命を避けるという慣例があった。寛弘3年(1006128の除目において、右大臣藤原顕光が伊勢守に平維衡を推挙したが、藤原道長が「維衡はかつて伊勢国で事件を起こしたものである」ことを理由に反対している[3]。この「事件」とは、かつて維盛が伊勢において平致頼と合戦を起こしたことである[4]。なお道長は8年後の長和32月の除目で、清和源氏である源頼親を摂津守に推挙するという矛盾した行動をとっている。鎌倉時代にも国司は存続したが、鎌倉幕府によって各地に配置された地頭が積極的に荘園、そして国司が管理していた国衙領へ侵出していった。当然、国司はこれに抵抗したが、地頭は国衙領へ侵出することで、徐々に国司の支配権を奪っていった。室町時代になると、守護に大幅な権限、例えば半済給付権、使節遵行権などが付与された。これらの権限は、国司が管理する国衙領においても強力な効力を発揮し、その結果、国司の権限が大幅に守護へ移ることとなった。こうして国司は名目だけの官職となり、実体的な支配は守護(守護大名)が執行するようになった。ここに至り、国司は単なる名誉職となり、被官される人物の実効支配地に関係なく任命された。戦国時代武将の中には国司を自称、あるいは僭称する者も多かった(百官名)。政治の実権が幕府等の武家にあるうちは、単なる名誉職に過ぎなかった国司であったが、下克上が頻発した戦国時代では守護や守護代等の幕府役職者以外の出自の大名が、自国領土支配もしくは他国侵攻の正当性を主張するために任官を求める事が増加した。この時代では国司職を求めて戦国大名朝廷へ盛んに献金などを行った。これは、天皇の地位が再認識される契機ともなった。また、一部の戦国大名(大内義隆の周防介・伊予介、織田信秀今川義元徳川家康三河守など)は名目的な国司職ではなく実質的な目的を持って申請を行っている。安土桃山時代には豊臣秀吉関白となったことに伴い、国司の称号は武家の地位・権威を示す武家官位へと変質し、完全に名目だけのものとなった。江戸幕府成立以降は、大名旗本、一部の上級陪臣が幕府の許可を得た上で、家格に応じて国司名を称することが行われた(受領名)。しかしこれらの「名乗り」は名目上のものであったため、同時期に複数の人物が同じ国司名を名乗ることも多かった。明治維新後、律令制度の廃止とともに国司は廃止された。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

『浪速史跡めぐり』浪花三大橋・天満橋、天神橋、難波橋で浪速大阪の賑わいと重要な橋だった。

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『浪速史跡めぐり』浪花三大橋・天満橋、天神橋、難波橋で浪速大阪の賑わいと重要な橋だった。天満橋の東側には東町奉行所が置かれていた。江戸時代には東の天満橋の辺りまで中州「天満砂洲」があって中之島の砂洲が東に延びて天満砂洲が消えていった経緯が時代の絵図で分かる。天満橋は天満と船場を結ぶ橋、天神橋、難波橋と歴史は古く、木造の橋は幾度も流された。明治八年の明治大洪水の後鉄筋に架け替えられた。天神橋は豊臣時代天満宮の所領米で架橋費用が賄われ、天満組惣年寄りの管理になるまで天満宮が通行税を取って橋の修理管理費をしていたが、その後幕府の管理の公儀橋となった。難波橋は奈良時代行基によって架けられたと言う伝説がある。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)149“日野富子” 日野富子(1440~1496)室町幕府第8代将軍足利義政の正妻(御台所)。

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『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)149“日野富子”
日野富子(1440~1496)室町幕府第8代将軍足利義政の正妻(御台所)。応仁・文明の乱後の幕府行政を行い、辣腕を振るった。利益優先の果断な政策で知られる。日野重政の女。康生元年(1455)叔母の日野重子の子である義正に16歳で嫁いだ。義政は20歳である。義政が将軍後継者として弟の義視を指名してのち、義尚を産んだので、それを将軍にしたさに富子が画策したことにより応仁・文明の乱が勃発したと言われる。乱後に書かれた「応仁記」にはすでにある話あるが、そう簡単に言えず、乱は管領家の細川勝元による義政の棚上げ、畠山・斯波管領両家の後継争い、山名宗全と勝元の不仲などが絡んでいた。1477年大内氏の帰国による実質的な戦乱の終結は富子の政治折衝によるものである。さて乱後の幕府政治を主導した兄勝光の死後の1476年から、子の9代将軍義尚が成人するまでの1483年頃までの7年間施政者として、執政期間である。富子は施政としては、1480年の徳政禁制が銭主の債権を確認して、債務破棄を認めなかったこと、戦乱に荒れた内裏の修理費用の為に京都7口に関所を立てて、その反対の土一揆を弾圧したことがあげられ、悪評の原因となっている。彼女自身、土倉に7万貫文を超える蓄財をして、敵方の畠山義就に用立てたなどと言うこともある。富子の施政が利権的であるのは否めないが、女人政治だから、ことさらに悪評された面がある。なお、富子が執政を行えたことを、当時の「家」を中心とする幕府機構の在り方による将軍御台の権限を考えるものと、公家と武家との接点に限定すものの諸説がある。義政、義尚死亡後、義材、義澄将軍の擁立にも関わった。後に決裂して幕府への発言権を失た。しかし天皇家とは交渉を有し、財宝は巨万、死後の絵像は天皇生母と同じ格式で描かれている。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 44・「大山守の反逆」

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『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記)
44・「大山守の反逆」
大山守(おおやまもり)命(みこと)と大雀(おおさざきの)命(みこと)
応神天皇は大山守命と大雀命(仁徳天皇)に問われて「お前たちは年長の子と年少の子ではどちらが愛おしいか」仰せられた。
天皇がこのような質問をされるには、二人の御子がどう思っているのか、気持ちを探っておられること、内心宇遅能和紀郎子に後を継がせたい気持ちがあった。
 それに答えて、大山守命は「年長の子が愛おしく思われます」と答えた。
次に大雀命は天皇はお問いになる裏を察し「年長の子は、もう成人で、案ずることはないので、年少の子、愛おしく思います」と答えた。
 天皇は「雀よ、お前の言うことが、我思いと同じである」と言われ、それぞれに詔を下された。「大山守命は、海と山の政務を執れ、大雀命は天下の政務を執って、天皇に奏上せよ。宇遅(うじ)能(の)和紀郎子(わきろうこ)は皇位を継承せよ」と仰せられた。
 大雀命は天皇の仰せに背くことはなかった。
☆大山守命と大雀命は母が姉妹で従兄弟であった。宇遅能和紀郎子は母が違う異母兄弟であった。皇嗣の候補としてはこの三人であった。この父天皇の質問は兄二人の心を探るものであった。
利口な大雀命は父応神が何を思っているのか察知していた。
結果天皇の三人の役割をオホヤマモリの海と山の政務を行ない、オホサザキは政治をやらせ、弟のウジノワキには天皇の後継がす思いを述べられた。
その後父天皇の思い通りにはゆかなかった。
大山守の反逆
大山守命と宇遅(うぢ)能(の)和紀郎子(わきいらつこ)
応神天皇は崩御されて後に、大雀命は天皇の仰せのように、天下統治を宇遅能和紀郎子に譲られた。
ところが、大山守命は、天皇の仰せに背き、なお天下を取りたいと、弟の和紀郎子命を殺そうと画策、密かに軍勢を徴用し攻撃に用意した。
大雀命はその事を知って、使者を出して宇遅能和紀郎子に知らせた。
その知らせに弟王は聞き驚いて、伏兵を宇治川の岸辺に置き、その上の山に絹の布を張り廻らし、幔幕を上げて仮宮として、兄王の大山守を騙すために、舎人を弟に見せかけ、外から見ても分るように座らせ、官人の出入りをする様子を作り、弟王の御座所そっくりに見せかけて、兄王の軍勢が川を渡れば、見られるように飾った。
また船をつなぎ、さね蔓(かずら)の根を着いたその汁を塗り、船の中に簀子を塗り、踏めば滑り転ぶように仕掛けた。
弟王は、布の上着にふんどしを身に着けて、賤しい楫(かじ)取(とり)(舵取り)の姿になった。
自ら楫を取り船の上に立った。
この時に兄王は兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧(よろい)を着て、川辺に来て、川を渡るために船に乗ろうとした時に、上の立派な御座所を見て、弟王が座所に座っていると思いこみ、まさか楫をと取っているとは知らずに、その舵取りに尋ねて「この山には荒々しい猪がいると人伝に聞いているが、その猪を射殺そうと思う。猪を手に入れられようか」とたずねられた。
舵取が答えて「適いますまい」と言われ、「どうしてか」と答えて「あちらこちらで獲ろうとしたにですが獲れませんでしたが。それで不可能と申したのです」。
弟王は、川の中程まで来た時に落とした時、船を傾けさせ、兄王を滑らせて、川に中に落とした。やがて浮き出るが、川の流れのままに下った。その時歌って言う。
宇治川の渡し場に
楫取りに 素早い人よ
私のところに来てくれよ
すると、川の畔に隠れていた弟王軍勢が、あちらこちらのから一斉に立ちあがられた。
矢をつがえてねらい、兄王を流れさせた。
そして訶和羅埼まで流れ着いて沈んだ。
そこで鉤付の棒を使って兄王の沈んだ場所を探ると、その衣の中に鎧が引っ掛かり“かわら”と音がした。そこでその地名を名付けて「訶和羅埼(かわらさき)」と言う。
その遺骸を鉤につけて引き上げた時に弟王は歌われた。
宇治川の渡し場に
渡し場の岸辺に立っている檀の木
切ってしまおうと 心では思うけれど
取ってしまおうと 心では思うけれど
根本を見ては 君のことを思い出し
梢を見ては 妹のことを思い出し
辛いことに そこで思いだし
愛しいことに ここで思いだし
切らないできた 檀の木よ
そして、大山守命の死骸は、那良山に葬った。
この事があって、兄の大雀命の弟の宇遅能和紀郎子との二人が互いに天下を譲り合っている間に、海人が海産物を献って来た。しかし兄は受け取らず、弟に献上させた。また弟は受け取らず兄に献上させた。
それを何度か譲り合っている間に諺に「海人でないのに、自分の物のために泣く」と言う。宇遅能和紀郎子は間もなく崩御され、大雀命が天下を治めた。

☆大山守の反逆の説話・応神天皇は亡くなって事態が急変した。オホサザキ命は遺言通りに天下をウジノワキイラツコに譲られたが、オオヤマモリ命は天皇の位に就くことを画策された。
ひそかに武器を用意し弟御子に攻めようとしていた。
そんな噂を察知されたオホサザキ命は弟のウジノワキイラツコに知らせた。
聞いたウジノワキイラツコは驚きになり手を打たれた。
まず宇治川の川べりに兵士を潜ませ、宇治の山の上に絹の幕を張り廻らし、その中に仮屋を建て、偽りウジノワキイラツコを影武者のように仕立て、目立つところにアグラをさせて坐らせた。
百官の人々がうやうやしく礼をして、行き来き、する有様を見えるように設置をした。
さらに兄のオホヤマモリ命が川を渡る時に工夫を凝らし、船と舵を用意し、鬘(かずら)の根を巻いてその汁の粘液を船底に塗り付けて、踏むと滑って倒れるように仕掛けをして、ウジノワキイラツコは賤しい身分の衣装で舵を持って船上に立たれた。
そんな事を知らず兄のオホヤマモリ命は兵士を潜ませたまま、衣の下に鎧を着て川の淵に着いて乗船しようとする時に、山の上に飾り立てた所を見て、ウジノワキイラツコがてっきり陣を構えていると思い込み、自分が乗った船に舵を取って立っていること気づかずなかった。
その船頭に立って言うに「この山の上に強暴な大猪がいると噂を聞いている。私は猪を討ち取りが出来ようか」と言った。
すると船頭は「それは出来ないでしょう」と答えた。
オホヤマモリ命は「それは何故かと」と問い返した。
船が宇治川の中程まで来た時に、ウジノワキイラツコ船頭は船を傾けて落とし入れた。
ところが間もなく水面に浮かび上がって出てきて、流れながら嘆きながら棹を操る敏捷な人よ、どうか私の味方になって来てくれよと歌って流れて行った。
この時に宇治川のほとりに身をひそめ隠れていた兵士たちが、一斉に周りから姿を現してきた。
多くの兵士の矢に射られて下流に流されていった。
そして訶和羅の崎まで流れ着いて、水中に沈んでいった。そこで鉤でその沈んだ所を探ると、その鎧にひかってカラカラと鳴った。
事件が終結をしてオホサザキ命はウジノワキイラツコと二人で天皇の即位を互いに譲り合った。
この間に、兄のオホサザキ命は海人が御料理として鮮魚を献上させたが、弟のウジノワキイラツコに辞退し、更に兄のオホサザキ命に献上させた。
この様に互いに献上、辞退を繰り返し多くの日数が経ち、中に立った海人が行ったり来たり途方に暮れた。
その内、弟のウジノワキイラツコが早世されてしまった。
結局オホサザキ命は事を荒立てることなく、時代の動き,推移を待って自分が天下を執られた。
☆この戦いは兄弟の跡目争いで、父の威光を亡くなった後は実力行使に出たが、オホサザキ命がウジノワキイラツコに着いたのが勝因かも知れない。
しかしその筋書きは芝居じみていて脚色して面白く仕立てていることが窺える。
最初の兄弟争いには父の遺訓の通りに護り、オホサザキ命は弟のウジノワキイラツコに王権に就けるように働いた。
事、反旗を翻した兄のオホヤマモリ命は焦って二人の候補と戦わなければならなかった。
次期を待てば自分にその気運がやってくる見本で、ずる賢いとかしたたかとか言う評価はあるが、冷静沈着に物の変動を見てれば自ずと達成できる見本かも知れない。
次に仁徳朝での聖帝と歌われた所以はこの辺りの人間性に有ったのではないか。
仁徳天皇も父応神天皇も女性の問題を抱えた天皇であった。
それほど『古事記』の戦いでも実戦さながらの戦法を詳しく伝えている。
※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。


「神仏霊場巡り」広隆寺・京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。

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「神仏霊場巡り」広隆寺・京都市右京区太秦にある寺。宗派は真言宗系単立。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺、秦公寺、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。帰化人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、近年は不定期開催となっている。創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、七世紀前半に今の京都市北区平野神社付近に創建され、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰を中心とする寺院となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像である。『上宮聖徳法王帝説』は蜂岡寺(広隆寺)を「太子建立七大寺」の一として挙げている。『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、秦氏の氏寺であることは確かだが、弘仁九年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。秦氏は、秦(中国)から渡来した漢民族系の帰化人といわれ、朝鮮半島を経由し日本に渡来したという。葛野郡を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。なお、広隆寺近隣には大酒神社があるが、神仏分離政策に伴って、広隆寺境内から現社地へ遷座したものである。平安時代以降の広隆寺は弘仁九年(818年)の火災で全焼し、創建当時の建物は残っていない。承和三年(836年)に広隆寺別当に就任した道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。その後、久安六年(1150年)にも火災で全焼したが、この時は比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。現存する講堂(重要文化財)は、中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられている。



「一ノ宮巡り」伊賀国一ノ宮敢国神社・祭神大彦命(大毘古命)・配神少彦名命・金山比咩命

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「一ノ宮巡り」伊賀国一ノ宮敢国神社・祭神大彦命(大毘古命)・配神少彦名命・金山比咩命
三重県伊賀市一ノ宮877・式内社・旧国弊中社・大彦命は孝元天皇の皇子で『日本書紀』では四将軍の一人で北陸を平定後この地に移り、伊賀国の開拓を行なったと言う。大彦命(『古事記』では大毘古命)の御陵とされる御墓山古墳が有って、その子孫は伊賀中に広がったと言う。阿拝群(あへのこおり)を本拠にしたために「阿拝氏」を称した。後に阿閉・阿倍・安倍なども表した。敢国神社の祭神は中世まで少彦名命・金山比咩命とされたが、明治七年(1874)、江戸時代の渡会延経の説により大彦命に変更された。
創建について敢国神社の略紀に依れば斉明四年(658)で、この地の居住者の秦氏が少彦名命を祀り、一方大彦命の子孫の阿拝氏が祖神として大彦命を祀った。また当初神社を南方の山に祀ったが、後に現在の地に移された。その後前社殿の跡地に美濃国の一ノ宮の祭神南宮大社より勧請された金山比咩(かなやまひめ)命(みこと)が祀られたために「南宮山」と呼ばれた。その後、言い伝えによれば金山比咩命の社殿の神木の虫食い後の文字が「敢国神社に一緒に祀れ」の文字が現れたので神意に従って合祀された。この敢国神社も時代の趨勢に翻弄され、伊賀天正の乱では森田浄雲の立て籠もる一ノ宮城と共に織田軍に攻められて炎上・崩壊した。信長がその戦場跡を視察の折には、伊賀忍者に襲撃されあわや落命を免れた説話がある。
その後、伊賀国一ノ宮として崇敬され、江戸時代には上野城鬼門の鎮護として、藤堂氏らの歴代藩主によって加護された。明治になって旧国弊中社に列せられた。★『古事記』では大彦命については、孝元天皇の第一皇子に大毗(おおび)古(こ)命(みこと)が生まれ、次に少名(しょうな)日子(ひこ)建(け)猪(い)心命(こころみこと)。次に若(わか)倭(やまと)根子(ねこ)日子大毘々(ひこおおほびび)命(みこと)(開化天皇)。次に他の妃から比古布都押之信命。次に建波邇夜須毘古命。五人の御子が生まれた。大毘古命の子、建(たけ)沼(ぬ)河(かわ)別命(わけみこと)は阿倍の臣等の祖である。また金山毗古・比咩命は鉱山を司り、神生みの際、嘔吐物から産まれた。鍛冶・鉱業の守護する神として岐阜の南山大社、島根の金屋子神社で祀られている。

『歴史歳時記豆知識』19・遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述に

遣唐使1
遣唐使2
『歴史歳時記豆知識』19・遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。現在では中国側において派遣された遣唐使の墓が発見されたりしている。海外情勢や中国の先進的な技術や仏教の経典等の収集が目的とされた。旧唐書には、日本の使節が、中国の皇帝から下賜された数々の宝物を市井で全て売って金に替え、代わりに膨大な書物を買い込んで帰国していったと言う話が残されている。第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。・貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)・太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在しない。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。・12回説:藤家禮之助・20回説:東野治之、王勇・他に14回、15回、16回、18回説がある。日本が最初に遣唐使を派遣したのは、舒明天皇2年(630年)のことである。推古天皇26年(618年)の隋の滅亡と続く唐による天下平定の情報は日本側にも早いうちから入っていた可能性があるが、聖徳太子・蘇我馬子・推古天皇と国政指導者の相次ぐ崩御・薨去によって遣使が遅れた可能性がある。ちなみに、高句麗は唐成立の翌年、新羅と百済はその2年後に唐への使者を派遣している。だが、この第1次遣唐使は結果的には失敗であった。唐は帰国する遣唐使に高表仁を随伴させたが、高表仁は日本にて礼を争い、皇帝(太宗)の言葉を伝える役目を果たせずに帰国した(争った相手については『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』は倭の王とする)。『日本書紀』にはこのような記述は存在しないものの、高表仁の難波での賓礼以降、帰国までの記事が欠落すなわち高表仁と舒明天皇の会見記事が記載されておらず、何らかの異常事態が発生したことを暗示している。詳細は不明であるが、唐側が日本への冊封を意図して日本がこれを拒んだなどのトラブルが想定されている。その後、しばらく日本からの遣使は行われず、唐側も突厥や高昌との争いを抱えていたため、久しく両者間の交渉は中絶することになる。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

『社寺神仏豆知識』13・スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神である。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命

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スサノオ1
『社寺神仏豆知識』13・スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神である。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。『古事記』の記述によれば、神産みにおいて伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)が黄泉の国から帰還し、日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする(阿波岐原は江田神社のある宮崎市阿波岐原町に比定される[1])。『日本書紀』では伊弉諾尊と伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)の間に産まれ天照・月読・蛯児の次に当たる。統治領域は文献によって異なり、三貴神のうち天照大神は天(高天原)であるが、月読尊は天、滄海原(あおのうなばら)または夜を、素戔嗚尊には夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。素戔嗚尊は記述やエピソードが月読尊や蛯児と被る部分がある。『古事記』によれば、建速須佐之男命はそれを断り、母神伊邪那美のいる根之堅洲国に行きたいと願い、伊邪那岐の怒りを買って追放されてしまう。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対し、二柱は疑いをはっきり究明するために誓約(うけひ)を行う。我の潔白が誓約によって証明されたとして高天原に滞在する建速須佐之男命だったが、居られることになると次々と粗暴を行い、天照大神はかしこみて天の岩屋に隠れてしまった。そのため、彼は高天原を追放された(神逐)。出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降った建速須佐之男命は、その地を荒らしていた巨大な怪物八岐大蛇(八俣遠呂智)への生贄にされそうになっていた美しい少女櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)と出会う。建速須佐之男命は、櫛名田比売の姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治する。そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち、紀・草薙剣)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっている)。その後、櫛から元に戻した櫛名田比売を妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県安来市)へ行きそこに留まった。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

『浪速史跡めぐり』長寶寺(閻魔さんのゆかりの寺)・JR大和路線は平野下車南へ国道を渡ると平野郷がある。昔ながらの町並に細い道に寺院、神社が点在する。長生院 長寶寺

ち長宝寺1
『浪速史跡めぐり』長寶寺(閻魔さんのゆかりの寺)・JR大和路線は平野下車南へ国道を渡ると平野郷がある。昔ながらの町並に細い道に寺院、神社が点在する。長生院 長寶寺がある。本尊は坂上田村麻呂の守護仏伝えられる。この辺りは坂上田村麻呂の子の広野の領地で、平野の地名も広野から来たと言われ、坂上田村麿に関わりの深い寺である。そう広くは無いが境内には、その由緒は窺える堂塔ばかりで、今も下町の人々の信仰が生づいている、門をくぐると本堂、本尊十一面観音菩薩が祀られ、何より珍しいのは、「閻魔大王」が祀られている事だ、秘仏である。毎年五月十八日に御開帳がある。左手に役行者の堂がある。この寺の創建は古く平安時代のあの蝦夷征伐でその名を挙げた「坂上田村麻呂」の関わりの深い寺である、開基の慈心大姉は桓武天皇の妃で坂上田村麻呂の娘春子である。延暦二十五年(八百六)春子は桓武天皇の崩御と共に弘法大師に帰依した、十一面観音菩薩を田村麻呂の守護仏され、その後南北朝の折り、この寺を一時皇居とされ山号の王舎山もそのとき賜ったという。往時は多くの堂塔があったが、戦火や明治の廃仏に合い衰退したがその由来と面影は残されている。また「閻魔大王」の謂れも慶心房尼の閻魔大王との関わりで「よみがえりの草紙」に記されているそうである。閻魔さんを祀る珍しい寺で五月十八日の閻魔大王の開帳の日には「閻魔さんの証判押し」の行事がある。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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