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『歴史の時々変遷』(全361回)42“平忠常の乱” 「平忠常の乱」平安時代に房総三カ国で1028年に起きた反乱。

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『歴史の時々変遷』(全361回)42“平忠常の乱”
「平忠常の乱」平安時代に房総三カ国で1028年に起きた反乱。平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱であった。平将門の叔父平良文の子孫に当たる平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏した。この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。長元の乱ともいう。平良文は下総国相馬郡を本拠に村岡五郎と称し、子の忠頼、孫の忠常の三代に亘り関東で勢力を伸ばした。忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。長元元年(1028)6月、忠常は安房守平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが、受領と在地領主である忠常との対立がこうじたものらしい。続いて忠常は上総国の国衙を占領してしまう。上総介縣犬養為政の妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国に広まった。当時、在地豪族はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることは稀だった。事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがった。右大臣・藤原実資は陣定において、頼信を推薦した。頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させており、事態の穏便な解決のためには最適と考えられた。常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられている。翌年には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが消極派の成道と積極派の直方は仲たがいしたため討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。長元2年(1029)2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった。長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした長元4年(1031年)春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。長元5年(1032)功により頼信は美濃守に任じられた。平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であったためであるともいわれている。この乱の主戦場になった房総三カ国は大きな被害を受け、上総守藤原辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。だが、同時にその原因は追討使であった平直方や諸国兵士、すなわち朝廷軍による収奪であったと明言している。この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

鎌倉・室町の群像伝』(全186回)148“大田道灌” 太田道灌(1432~1486)室町後期の武将。

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鎌倉・室町の群像伝』(全186回)148“大田道灌”
太田道灌(1432~1486)室町後期の武将。扇谷上杉家の家老。実名は一般に太田持資と伝えらえている。太田資長とする説も有力である。扇谷の家老として活躍した太田資清の子で、康正元年(1455)頃家督を継いだらしいが、間もなく武蔵江戸城を修築して自らの居城とした。関東は古河公方足利成氏と関東管領の上杉氏とが対峙する大乱の渦中にあったが、道灌は上杉陣営の一角を担い、また鎌倉公方や関東管領が不在で混乱した相模や南武蔵における実力随一のぶしょうとして若くして実権を握った。1476年長尾景春が反乱を起こし、翌年武蔵五十子の上杉氏陣営が崩壊すると、上杉方の危急を救うべく兵を出し、景春与党の豊島氏を討ち、ついで上野に進み、翌年1478年には景春の本拠の武蔵鉢形を落とし、併せてその与党の千葉孝胤を降した。1480年には春影の籠る日野城を陥落させて、反乱を完全に鎮圧させた。足利成氏と上杉氏の講和も実現させた。しかし主君の扇谷上杉定正は、道灌は定正の居館である相模糟屋で謀殺された。道灌は関東を代表する武将であったが、一方文事、和歌や蓮歌に通じ、1474年心敬らを江戸城に招いて歌会を開いたことは有名である。
★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

>「神仏霊場巡り」法華寺・奈良市法華寺町にある法華寺は奈良時代には日本の総国分尼寺

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「神仏霊場巡り」法華寺・奈良市法華寺町にある法華寺は奈良時代には日本の総国分尼寺として東大寺の総国分寺の諸国国分寺、国分尼寺として配布された。本尊は十一面観音・開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが離脱し光明宗と称している。光明皇后所縁の寺院として、また門跡尼寺として知られ(皇族・貴族の子女が住職となる格式の高い寺院)この地は藤原不比等の邸宅があって、不比等の没後に、娘の光明子が相続して皇后宮として、官寺として法華寺を創建をした。法華寺の伽藍の完成まで十年以上の歳月を要した。発掘の結果法華寺の境内は平城京の東宮の東に接し、東西2町、南北2町にも及んだと分かった。金堂・講堂・東西両塔・阿弥陀浄土院があって丈六の阿弥陀三尊が本尊として安置されていた。平安時代以降は衰退し、平安後期には荒廃していたという。鎌倉時代には重源の東大寺再建と共に法華寺も再建がされた。その後鎌倉後期に叡尊によって本格的に再建された。その後地震や戦火に焼失したが豊臣秀頼と母淀殿によって復興した。法華寺は叡尊以来真言律宗として、また門跡寺院として保持していたが平成十一年に光明宗と変更された。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

「一ノ宮探訪」“籠神社“(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。

か籠神社 (2)
「一ノ宮探訪」“籠神社“(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏が神職を担当している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。・主祭神・彦火明命 (ひこほあかりのみこと)「天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。社家海部氏の祖神。・相殿神・豊受大神「御饌津神」ともいうとする。・天照大神・海神(- 社家海部氏の氏神。・天水分神・祭神については古くより諸説があり、『神社明細帳』では天水分神としている。社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし[2]、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道 が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説がある。延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている。籠神社をその地にあてたものとしては、建武2年(1335年)の文書の「豊受太神宮之本宮籠大明神」という記載、天和年間(1681年-1684年)の籠神社縁起秘伝の「当社籠大明神ハ即豊受大神也」とし「与謝宮ハ則是籠大明神也」とする記載がある。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

『社寺神仏豆知識』12・(仏教十三宗五十六派)法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する

 や薬師寺r『社寺神仏豆知識』12・(仏教十三宗五十六派)法相宗(ほっそうしゅう)は、インド瑜伽行派唯識派)の思想を継承する、中国の時代創始の大乗仏教宗派の一つ。唐代、638年(貞観19年)中インドから玄奘が帰国して、ヴァスバンドゥの『唯識三十頌』をダルマパーラが注釈した唯識説を中心にまとめた『成唯識論』を訳出編集した。この論を中心に、『深密経』などを所依の経論として、玄奘の弟子の慈恩大師(一般に窺基と呼ぶ)が開いた宗派である。そのため、唯識宗・慈恩宗とも呼ばれる。この時代の仏教宗派とは後世の宗派とは異なり、学派的なものであり、寺が固定されたり、教団となったりすることは少ない。また、基と同じ玄奘の門人である圓測の系統も広義では法相宗と呼び、門人の道證の時代に隆盛を迎えたが以後に人を得ず開元年間には基の系統に吸収されてしまった。玄奘と基が唐の高宗の厚い信任を得たことから、法相宗は一世を風靡した。しかし、その教義がインド仏教を直輸入した色彩が濃く、教理体系が繁雑をきわめたこともあり、武周朝(690 - 705)に法蔵華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰え、安史の乱会昌の廃仏によって致命的な打撃を受けた。その後、の頃に中国仏教史では、法相宗は姿を消したと考えられているが、詳細は不明である。法相(ほっそう)とは、存在のあり方を指す。個々の具体的存在現象のあり方だけでなく、一切の事物の存在現象の区分やその有様も指している。実際には、存在現象そのものに関しては、説一切有部などの部派仏教を中心に研究が進められ、その研究の上に、存在現象のあり方を、我々人間がどのように認識しているのか、という研究が進められた。さらに、最終的には一切の存在現象はただ識に過ぎないとする。さらに三性説を立て、人間が縁起の理法に気付く(覚る)までをダイナミックに分析する。三性とは、事物は縁起に依るという依他起性、それに気付かずに執着するという遍計所執性、縁起を覚って円らかになる円成実性である。基は師の玄奘が訳出した『成唯識論』を注釈し、一切法の相を五位百法に分類し分析的に説明した。この相と性を学ぶことを合わせて性相学という。日本仏教での法相宗は、南都六宗の一つとして、遣唐使での入唐求法僧侶により数次にわたって伝えられた。653(白雉4年) 道昭が入唐留学して玄奘に師事し、帰国後飛鳥法興寺でこれを広めた。658斉明天皇4年) 入唐した智通智達等も法相宗を広めた。これらは同系統に属し、平城右京元興寺が創建されると法相宗も移り、元興寺伝、南伝といわれた。703(大宝3年) 智鳳智雄らが入唐した。717(養老元年) 入唐した義淵の弟子玄昉も、ともに濮陽智周に師事して法相を修め、帰国後これを広めた。なかでも玄昉は興福寺にあって当宗を興隆し、興福寺法相宗の基をきずき、興福寺伝または北伝といわれる。8-9世紀には法相宗は隆盛を極め、多くの学僧が輩出した。ことに興福寺では賢憬修円徳一などが傑出し、修円は同寺内に伝法院を創建、その一流は伝法院門徒と呼ばれた。徳一は天台宗最澄との間で三一権実諍論で争った。元興寺には護命、明椿などの碩学が出たが、のち元興寺法相宗は興福寺に吸収され、興福寺は法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となった。平安末期以降にも蔵俊貞慶覚憲信円らが輩出した。1882興福寺薬師寺法隆寺3寺が大本山となったが、2次大戦後、法隆寺は聖徳宗を名乗って離脱(1950年)し、また京都の清水寺も法隆寺と同様に北法相宗として独立(1965年)し、興福寺、薬師寺の2本山が統括するにいたった。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

『歴史歳時記豆知識』18・大学寮(だいがくりょう)とは?、律令制のもとで作られた式部省(

大学寮1大学寮2『歴史歳時記豆知識』18・大学寮(だいがくりょう)とは?律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行った。『日本書紀』の天智天皇10年(671)紀に「学識頭」という役職が見られ、また『懐風藻』の序文に天智天皇学校を創設したという記述が見られるため、この時代に大学寮の由来を求める考え方が有力であるが、その後の壬申の乱などの影響で整備が遅れ、大宝律令学令)の制定により具体的な制度が確立したといわれる。当初は儒教を教える後の明経道が中心であったが、728(神亀5年)と730(天平2年)の2度の学制改革(前者の改革で文章博士・律学博士(後の明法博士)が設置され、後者の改革で文章生明法生得業生制度が発足した)を経て、757(天平宝字元年)には大学寮公廨田(後の勧学田)が設定されて学生に対する給食が行われるなど、制度の充実が図られた。以後、儒教以外の漢文学を教授した文章博士の地位が向上して、後には文章博士の学科である紀伝道が上位を占めるようになった。

この背景には、大学制度の範をの制度に求めたものの、儒教による国家統治の原則が確立していた唐とは違い、仏教や古来からの神道が儒教と並立した日本の支配階層においては、儒教理念が唐よりも重視されず、それ以上に教養としての漢文の知識が必要とされたことによる。こうした風潮によって、大学寮での儒教教育が一種の行政処理のための「技術」とみなされて、中下流貴族の立身のための機関と考えられるようになり、子弟の教育を家庭で行う上流貴族を中心にした旧来の風潮を打破するには至らなかった。そのため、平安時代初期に再度の改革が行われ、806(大同元年)には10歳以上の諸王と五位以上の官人の子孫の就学を義務付けるが出された。ただし、上級貴族の反発に加えて、入学年齢を17歳から引き下げたこと、更に学令で定められた9年間よりも短い4年間の就学を経た上での事実上の中退を認めたことから大学寮側からの反発もあり、812(弘仁3年)に撤回された。その後、824(天長元年)にこの規定が復活したが、『延喜式』にはこの規定について触れられておらずそれ以前に廃止されたと考えられている。また、勧学田の拡張や大学教官への職田設定、学生に対する学問料給料(学資)支給制定などの財政支援策も採られた。こうした就学政策に加えて、唐風文化への関心の増大などがあり、平安時代前期に相当する9世紀から10世紀初頭にかけてが大学寮の全盛期にあたった。ところが、藤原氏勧学院を創設したのを機に各氏が大学別曹を創設するようになると、次第に大学寮の存立基盤が揺らいでいくようになる。大学別曹は一族単位で学生の学資・生活を保障してその官界進出を助ける制度であったから、安定した勉学環境を得た大学別曹を持つ氏族出身者とそれ以外の氏族との間で「格差」が生み出されるようになった。更に大学寮の教官の間でも学説のみならず学生の立身を巡って一種の学閥が形成されるようになり、その中でも紀伝道では菅原氏大江氏、それ以外の諸氏の間で激しい争いが行われた。また、遣唐使の廃止による中国文化への関心低下と律令制の弛緩、藤原氏摂関政治の確立による中下流貴族の没落などによって、大学寮の地位も徐々に低下していくようになる。更に律令制の弛緩は勧学田の荘園化による喪失を招き、これに対して大学寮向けの出挙制度の整備などの措置が取られたものの十分とは言えず、大学寮財政を圧迫する事になる。皮肉にもこれを維持できたのは大学寮からの給料を必要としない大学別曹保有氏族出身の学生の増大による大学寮支出の減少であった。914(延喜14年)、三善清行は「意見十二箇条」の第4条で大学寮の荒廃ぶりを記しているが、前後の史料を見る限り学生数の減少などの大学寮そのものの荒廃を裏付ける事実は確認されておらず、勧学田の喪失と大学別曹の興隆によって教育の公平さが失われていく現状に対する警告であったと考えられている。一方において任官制度にも変化が生じ、「(諸)道挙」と呼ばれる在学中の学生が教官の推薦によって無試験で判官主典級官職に任官される制度(紀伝道では9世紀中期、紀伝道明法道算道では9世紀末期以後)が導入され、更にこれが10世紀には諸国のへの任官を対象とした「(諸)道年挙」も開始された。更に10世紀後期には大学別曹(勧学院奨学院学館院)に対しても自己の所属する学生を諸国の掾への無試験任官の推挙を行う「(諸)院年挙」を認めるようになった。これによって大学寮に残って博士などの教官職を目指す者以外にとっては卒業は任官の必須の要件ではなくなり、大学寮の試験そのものが形骸化・簡略化されるきっかけとなった。10世紀後期に入ると、試験問題の出典が予め受験者に通告されたり、権力者による情実の横行などがしばしば行われ、遂に院政期には権力者による合格者の枠配分や大学寮への成功(財政支援)によって任官や合格が決まるなどの例も見られるようになる。更に平安時代末期には、官司請負制の導入や官吏(官僚)が門閥で占められるようになった(貴族による蔭位の制の濫用)ためにその機能を果たさなくなり、その風潮は大学にも及んで博士の地位を世襲させるために特定の家系の家学として知識の独占を図るようになり、授業も大学寮ではなく自らの私邸を用いて限られた子弟や門人に対してのみ行われるようになった。また教授や学生の学資や施設の維持に用いられていた勧学田や出挙の仕組みの崩壊によって財政的にも衰退を余儀なくされる。1154(久寿元年)には大学寮庁舎が倒壊する事故が起きるが再建されずに替わりに明経道院が庁舎を兼ねるようになった(『兵範記』)。やがて、1177(治承元年)の安元の大火の後、閉鎖された。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。

『浪速史跡めぐり』大阪護國神社・大阪府大阪市住之江区にある神社(護国神社)である

ご護国神社2住之江公園および住之江競艇場に隣接している。正面鳥居は大阪府で最大の鳥居である。大阪府では、明治四年(18714月10に創設された真田山陸軍墓地の敷地内に招魂社が創建されたのが最初である。しかし、招魂祭は、西南戦争後は陸軍の拠点である大坂城内で、明治一六年(1883)以降は中之島に建立された明治紀念標前で、明治33年(1900)以降は城東練兵場で行なわれていた。なお、正確な時期は不明であるが、真田山の招魂社は大正七年(1918)までには廃絶されている。招魂祭が長らく社前で行われなくなっていたことや、支那事変日中戦争)勃発後に英霊崇敬の機運が高まりを見せたことから、昭和十三年(1938)に大阪府知事・大阪市長らが護国神社造営奉賛会を結成し、昭和十五年(19405月4に鎮座祭が行われた。ただし、人材・資材の不足のため正式な社殿の建築をする事が出来ず仮社殿での鎮座であった。その後に正式な社殿の造営を行う予定であったが、大東亜戦争太平洋戦争)の激化や敗戦後の混乱により着工出来ないままであった。昭和三十五年(1960)に造営奉賛会が結成され、昭和三十八年(1963)春に社殿が竣工し、5月29に遷座祭が行われた。敗戦後の一時期、GHQによる神道指令の影響下における存続対策として「浪速宮(なにわぐう)」と称していた。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 43・「香坂かごさか王みこと忍おし熊くま王みこの反逆の説話」 応神天皇の誕生

応神8『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記)

43・「香坂(かごさか)(みこ)(おし)(くま)(みこ)の反逆の説話」

応神天皇の誕生

海波に関わる政務がまだ完了されていないうちに、皇后は出産の臨月になった。

そこで出産を遅らせようと、御腹に石を持ち、御裳の腰に付けられ出産を引き延ばされた。

新羅から筑紫国に帰られた時に、御子は生まれになった。

その御子の生まれの名を付けて、宇美と言う。その御裳(みも)に付けられた石は、筑紫国の伊斗(いと)(むら)にある。

また松浦県の玉島里においでになって、そこの河の辺りで食事をした時に、四月の上旬、その川の突き出たと岩の上で、御裳の糸を抜き取り、飯粒を餌として、河の鮎を釣っておられた。

これに因んで、四月の上旬の時に、女たちが裳の糸を抜き、飯粒を餌として鮎を釣る事今にまで絶えない。

こうして、息長帯日売命は、筑紫から大和に帰られる時に、人の心に疑いの理由あり、棺を載せた喪船一艘を仕立てて、御子である太子をその喪船にお乗せにして、その前から「御子はもう崩御された」と噂を立てさせられた。

このようにして上京なさる時に、香坂(かごさか)(みこ)(おし)(くま)(みこ)が噂を聞いて、待ち受けて皇后に手を入れようと思い、斗賀(とが)()に出て行き、事の成否を祈る()気比(けい)(かり)(神に祈ってする狩)をした。

そこで香坂王がクヌギの木に登って座って見ていると、大きな猪が激しい勢いで走り出て、そのクヌギの木を掘り倒し、香坂王に噛みついつき喰い殺した。

香坂王の弟の忍熊王は、兄の死が宇気比の凶であるのも関わらず、慎みを恐れずに、軍を起こし皇后を待ち受け迎え撃つ時に、忍熊王は喪船に向かってきて、その中の空船を攻めようとした。

そこで皇后は喪船から軍勢をおろし上陸をして戦った。

その時忍熊王は、難波の吉師部(大阪の岸部の事か)の祖先の、伊佐比宿祢(いさひすくね)を将軍として、太子側は、丸迹臣の祖先の、難波根子建振(なにわねこたけふる)(くま)(みこと)を将軍とされた。太子軍が忍熊王軍を追い詰めて山城に至った。

そこで建振熊命は計画を廻らして、相手側に「息長帯日売命は崩御された」と伝えさせた。

弓の弦を切り、偽りの降伏をした。

すると忍熊王の将軍はすっかり騙された、自分たちも弓の弦をはずし、武器をしまった。

そこで太子軍は頭髪に隠してあった、予備の弦を使って、再び張り直し追撃をした。忍熊軍は逢坂山まで逃げ退き、そこで反撃をした。

しかし太子軍は更に追撃をして、琵琶湖の沙々那美に出て、悉く忍熊軍を斬った。その忍熊軍は、伊佐比宿祢と共に追い詰められ、船に乗り、湖上に浮かんで歌って言うには

さあ我が将軍よ

振熊の奴の 痛手はもうたくさん

近江の海に

すっぽりはいってしまうよ

二人の御子は湖に身を投げて一緒に死んだ。

☆応神天皇の皇継の説話・あくまでもこの辺の説話は皇系争いの正統性の記述である。

神功皇后の出産の御子から太子の表記が初めて出現する。香坂王と忍熊王は仲哀天皇とは異母兄弟で倭健の御子である。

神功皇后は筑紫から大和に戻る時にすでに、神功皇后は謀反の動きを察知していた。仲哀天皇の「御子はもう崩御された」噂を流し誘発させた。

香坂王、忍熊王はこの知らせに信じ込み、皇后を殺そうと待ち受けていた。

香坂王は斗賀野にて謀反の吉兆を狩りで占いをした。

皇后が来るのを待ち伏せをして、クヌギの木に登って見ていると、猪の突進で木はなぎ倒され、噛みつかれて殺された。狩で占った凶に懲りず軍を起こし、太子軍に攻めてきた。喪船から下りって戦った。

忍熊軍は難波の吉師部(大阪に岸部の地名がある)で伊佐比宿祢を将軍として戦ったが、山城まで追いつめたが忍熊軍が押し返し、一進一退の合戦を繰り広げた。建振熊命は計略を案じ、相手側に「息長帯日売命は崩御なさった、もう戦うことはない」そうして弓の弦を切、偽りの降伏をした。

忍熊軍はすっかり騙され、自分たちも、うっかり弓をはずし、武器をしまった。その時太子軍は頭髪の中に隠してあった弦を取り出して、再びその弓を張り直し追撃を開始した。

忍熊軍は逢坂山まで退却、そこで体勢を立て直し再び戦い臨んできたが太子軍は打ち破り、琵琶湖の湖上まで追いつめて、忍熊王と将軍は身を投げて死んだ。  

 

気比(けひ)大神(おおかみ)

そこから、建内宿祢命は、その太子をお連れして、禊をしょうと、近江と若狭の国を次々に廻った時に、越前の敦賀に仮宮を造り、そこに太子を、お迎えをした。するとその地に鎮座される伊奢沙(いざさ)和気(わけ)大神(おおかみ)が、太子の夢に現れて

「私の名を太子の名と取替えたい」と言った。

そこで太子は祝いの言葉を述べて「畏まりました、言葉の通り

換えましょう」と申し出。

その神が「明日浜辺においでください、名換えの贈り物献上致します」

と言われた。

翌朝浜にやって来た所、鼻に傷が付いた、海豚の大群がいっぱいになるほど浦に押し寄せていた。そこで使者を遣わせ、神に申させ「お召し上がりのなる魚を我に賜ったのですね」と言われた。

神の名を称えて御食大神と申し上げた。それで、今もって気比大神と言う。

その海豚の鼻の血がくさかったので、その浦を名付けて血浦という。今は都奴賀(つるが)(敦賀)と言う。

 

☆気比大神の説話・皇后は九州から新羅、新羅から帰国して異母兄弟の謀反と対決に難波から近江まで、更に若狭に、出産の御子は太子になっていて、建内宿祢は太子を気比神社に案内し、禊をする。その説話には少々無理があるが。

神の神託を背景に権威を次期天皇の太子に授けて、河内王朝への序幕なのか、神と対話し、名前の交換に及んで応神天皇へお布石に進んでゆく。神功皇后の系譜は、天日(あまひ)(ほこ)(みこと)に一説に神功皇后は新羅の出自、気比大神の名前を交換したと成れば、祖神から名前を受け継ぐ、その一つの儀礼的なものと考えられる。

(さか)(くら)の歌

敦賀から都に帰り上がっておいでになる時に、母君の息長帯日売は、祝いの待ち酒を醸して太子にさし上げた。その母君が歌いになって言われるには、

この御酒は わたしが醸した御酒ではありません

石の姿でお立ちの 少名古那神が

自ら祝福し 踊り狂って祝い醸し

自ら祝福し 酒槽(さかふね)(まわ)って祝い醸し

献上してきた これがその御酒

だんだん召し上げれ さあさあ

このようにお歌いになって、神の御酒を太子にさし上げた。

そこで 建内宿祢命が太子に代わってお答え申し、歌っていった。

この御酒を 醸した人は

その太鼓を 臼の上に立てて

歌いながら 醸したからか

舞ながら 醸したからか

この御酒は 御酒

なんとまあ とても楽しいことよ さあさあ

これが酒楽の歌である。

酒を司る長 常世にいらしゃる

すべて教えて、(たら)中津(なかつ)日子(ひこ)天皇(てんのう)(仲哀天皇)寿命は五十二歳。

御陵は河内の恵賀の長江にある。

皇后は御年百歳で崩御された、佐紀の楯列の御陵に葬られた。

☆酒楽の歌の説話・神功皇后の応神天皇の成人式のような祝い酒の祝宴、待ちに待った皇后の太子に対する期待と喜びが、酒に舞に、歌に込められて宴は華やかに繰り広げられ、酒に酔い乾杯の声が聞こえるような歌である。

良く醸造(じょうぞう)された酒への讃美、古代も現代の祝宴には欠かせない。酒を酌み交わす心情は変わらないものである。古代社会の様子も窺われ、歌に抒情詩があふれ込められている。この祝宴は「酒楽の歌」として、宮中の儀式行事「大嘗祭(だいじょうさい)」に類似した儀式かも知れない。

★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)147“上杉顕定”上杉顕定(1454~1510)室町後期の武将。関東管領。越後守護上杉房定に次男

上杉3 鎌倉・室町の群像伝』(全186回)147“上杉顕定”上杉顕定(1454~1510)室町後期の武将。関東管領。越後守護上杉房定に次男。文正元年(1466)山内上杉氏の家督を継いで関東管領となる。当初は上杉一族の将師として武蔵五十子に布陣し、古河公方足利成氏と対峙したが、1477年に家臣の長尾景春が反乱を起こすと、成氏と和睦してこれを鎮圧し、さらに景春の拠点であった武蔵鉢形城を占拠して自らの居城とした。1480年には景春の乱の終息、その地位を保持することに成功した。1487年からは一族の上杉定正・朝良と争うが、1505年にこれを降伏させた。長く関東管領の職にあり、古河公方と連携して関東の安定に努力したが、1510年越後の長尾為景と戦って敗死した。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる

「一ノ宮巡り」大鳥神社・大阪府堺市西区鳳北町1の1の2・式内社・旧官幣大社和泉国一ノ宮は大鳥神社である。祭神は日本武尊

おお「一ノ宮巡り」大鳥神社・大阪府堺市西区鳳北町1の1の2・式内社・旧官幣大社和泉国一ノ宮は大鳥神社である。祭神は日本武尊と合わせ地域の豪族大鳥連祖神を祀っている。社伝に依れば東夷征伐の帰途我に病蒙り、伊勢国は能褒野に於て薨去こうきょされ白鳥と化し当地に留まったという。大鳥氏は『新撰姓氏録』に和泉国神別で大中臣朝臣と同祖、天児屋根命の後なりとある。大同元年(806)神封二戸が寄せられた。神階は『日本三代実録』貞観元年(861)従三位昇叙された。その後『和泉国神名帳』には正一位とある。『延喜式神名帳』では名神大社に列し、祈年、月次、新嘗の官幣、祈雨神祭に八五社に一として臨時奉幣に預かり和泉国一ノ宮として朝野の崇敬を受ける。平清盛、重盛父子が熊野詣の帰途に当社に祈願をして和歌、神馬を奉納している。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も社領を寄進し社殿の造営を行なっている。

天正年間には戦火で社殿は焼失、慶長七年(1602)豊臣秀頼により再興された。德川綱吉は柳沢吉明に修繕をせしめた。

★『古事記』のヤマトタケル説話の日本武尊命を祭神としている。

元来は一豪族の祖神を主体に祀っていたが、日本武尊が征西し熊襲を平定、再びイズモタケルを征伐し、再度東征し、伊吹山で病に倒れて、伊勢国の能褒(のぼ)()で死去する。

遺体はその地に葬られるが、陵墓から白鳥が飛び立ち、大和国の琴引原で留まり、再び河内国の古市舞い降り、最後に大鳥の池に舞い降りた古事に習って社殿を建てて祀った。

この白鳥の舞い降りた由来で日本武尊の祭神として祀ったようである。

しかし本来大鳥氏は中臣氏と同じく天児屋根命を祖神としていたので、一時天照大神を祭神として祀っていた経緯があるようである。

和泉国で唯一の神名大社になって、境内の面積も一万五百坪の広さで、大鳥氏が強力な豪族として大きな影響力を有し、武功の神として平清盛も戦勝祈願をしたと伝えられており、一ノ宮大鳥神社として形成されていった。

鎌倉期には大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥濱神社と共に「大鳥五社」を形成し、「大鳥荘」となる。中世では和泉国一ノ宮として国衙から崇敬を受けるが、その後大鳥氏に代わって田代氏が主導権を奪われ衰退する。

神仏習合の時代には別当寺に大鳥山勧学院神鳳寺の行基なども関与し、三重の塔が建立し栄えた。

織田信長などの寄進を受けるが、戦火で焼失し豊臣秀頼の社寺造営の籠を受けて、神鳳寺共に栄えるが明治の廃仏毀釈によって神鳳寺の五重の塔など破却され、末寺共々大鳥神社も衰退していった。

明治維新の社格制度で再び官幣大社として再建され、祭神も祭神考証の結果、大鳥連の祖神に変更された。

これには神社側の反発が有ったが内務省の通達で決定された。

神社側の意向に沿った日本武尊が加えられ祀られたのは、国家管理から離れた戦後の事だった。

本殿の造りも大鳥造りと言う。「切り妻造・妻入り社殿」と言う出雲大社に次ぎ古い形式を持つ古形式を保っている。神の妹と言われていることもあり、謎の多い神である。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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