史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『浪速史跡めぐり』四天王寺・極楽浄土の庭・西方十万億土を過ぎた彼方にある。阿弥陀如来の荘厳な優美な歓喜の世界

天王寺保久良食い気を想定して作られた「極楽浄土の庭」として公開されている。自然のわき水を利用した2つの小川「水の河」と「火の河」および2つの池「瑠璃光の池」と「極楽の池」を配し白砂の廻遊路を「白道」という広さ1の池泉廻遊式庭園である「極楽浄土の庭」と、幾度の戦災を免れて現在に至る湯屋方丈(江戸時代初期建立、国の重要文化財)、そしてその前庭である座視式庭園「補陀落の庭」からなる。 造園の着工は江戸時代初頭とされ、現在の庭は明治時代初期に、火災による焼失から復興されたものである。このときに「二河白道」の喩話に基づいた作庭がなされた。「極楽の池」の畔に建つルネッサンス様式の西洋建築八角亭」は第五回内国勧業博覧会明治36年・1903開催)で出品された現存唯一のパビリオンで、後年移建されたものである。長らく特定日のみの公開であったが、平成15年(20038月より通年の公開が行われるようになった。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。

『歴史の時々変遷』(全361回)25“氷上川継の乱” 「氷上川継の乱」奈良時代の反乱未遂事件。天応2年(782)に天武天皇の曾孫

氷上2『歴史の時変遷』(全361回)25“氷上川継の乱”

「氷上川継の乱」奈良時代の反乱未遂事件。天応2年(782)に天武天皇の曾孫の氷上川継が謀反を計画し、事前に発覚して失敗したというものである。宝亀元年(7708月に称徳天皇崩御し、天智天皇の孫の白壁王が践祚した(光仁天皇)。壬申の乱以来、天武天皇の子孫が皇位世襲してきたが、天武系の皇族の多くは打ち続いた政変に伴って殺害や処罰により政治生命を絶たれたり、あるいは賜姓を受けて臣籍降下していた。称徳天皇の崩御により、それまで維持されてきた「天武-草壁文武聖武-称徳」という皇位の天武系嫡流の直系継承は途絶え、天智系の天皇が復活することになった。ただし、光仁天皇の即位については、彼が聖武天皇の皇女の井上内親王を妻として、その間に他戸親王を儲けていたことが大きく与っており、光仁天皇は女系では天武系の天皇といえた。氷上川継は、新田部親王の子・氷上塩焼と、聖武天皇の娘・不破内親王(井上内親王の同母姉妹)の間に生まれた男子で、天武天皇の曾孫にあたる。しかし、父の塩焼が藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとして殺害され、母の不破内親王も称徳天皇を呪詛したとして皇親の身分を奪われており、称徳天皇崩後の皇位継承候補には挙げられていなかった。しかし、父と母の両方を通じて天武天皇に繋がるその血統は、反政府勢力の期待を集めるとともに、朝廷側の警戒をも招いていた。天応元年(7814月に光仁天皇は皇太子・山部親王(桓武天皇)に譲位した。太上天皇となった光仁天皇は同年12月に崩御する。翌天応2年(782)閏正月10日に川継の資人であった大和乙人が、密かに武器を帯びて宮中に侵入したところを、発見されて捕縛される事件が起きた。乙人は尋問を受けて川継を首謀者とする謀反の計画を自白する。謀反の内容は、同日の夜に川継が一味を集めて北門から平城宮に押し入り、朝廷を転覆するというものであった。翌11日に川継を召喚する勅使が派遣されたが、川継はこれを知って逃亡したため、三関固関と川継の捕縛が命じられた。14日に至って川継は大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇の喪中であるという理由で、罪一等を減じられて伊豆国遠流とされ、川継の妻・藤原法壱も夫に同行した。母の不破内親王と川継の姉妹は淡路国へ流された。さらに、法壱の父である参議藤原浜成はおりから大宰員外帥として大宰府に赴任していたが、連座して参議を解任された。浜成の属する藤原京家はこれをきっかけに凋落に向かう。この後、京家出身の公卿は、浜成の子・藤原継彦従三位、孫・冬緒大納言となったのみで、やがて歴史から消えてゆくこととなる。★歴史の変遷をたどれば時代を制した英雄伝説にも、栄枯盛衰の定理を教える。

 

 

 

 

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)115“光厳天皇” 光厳天皇(1313~1364)鎌倉末期天皇。元徳三年(1331)

光厳1鎌倉・室町の群像伝』(全186回)115“光厳天皇”

光厳天皇(1313~1364)鎌倉末期天皇。元徳三年(1331)から二年間在位。名は量仁。父は後伏見天皇、母は広義門院寧子。嘉暦元年(1326)立太子。1331年討幕の為に京都を脱出した後醍醐天皇に代わって、鎌倉幕府の要請によって践祚。幕府滅亡後は後醍醐天皇によっては廃された。しかし、建武親政に離反した足利尊氏の求めに応じて、1336年朝敵の名を免れるために院宣を与え、同年足利尊氏は入京すると弟の光明天皇を践祚させて院政を開始した。これが南北朝両朝分立の端緒となった。光厳院政は子の崇光天皇の即位後も継続された。正平一統によって崇光天皇は廃止され、院政は停止。その後、光厳院は光明・崇光院らと共に南朝に拉致され、河内東条。大和賀名生、河内金剛寺を転々とした。この間賀名生で出家。1357年に京に帰り、崇光流の所領の維持を命じたのち、丹波国山国荘し、同所で死去した。★史跡が教える先人の葛藤と情景に学ぶ教訓。

「近畿三十六不動巡り」龍泉寺・奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院

り龍泉寺4 (2)「近畿三十六不動巡り」龍泉寺・奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院で、同派の大本山である。山号は大峯山。吉野の竹林院桜本坊喜蔵院東南院と共に山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の一つ。本尊は弥勒菩薩近畿三十六不動尊霊場第三十一番札所。龍泉寺の境内には、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水が流れていて、修験者たちから「清めの水」とされ、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として著名である。洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっている[1]。洞川地区の中心的寺院として龍王講社を組織し、多くの参詣を組織しているなど、大峯山山上ヶ岳への登拝の出発点となっている。毎年10月に、八大龍王堂大祭が行われる。伝承によれば、 700頃、大峰山で修行していた役小角が、この地に泉を発見し、「龍の口」と名づけて、その側に小堂を建て、八大龍王を祀ったのが起源とされる。龍泉寺ができてから二百年ほど後、寺から1kmほど上流にある「蟷螂の岩屋」に雌雄の大蛇が住みつき、人々を襲ったため、修験者たちが訪れなくなり、寺も衰退した。そこで、当山派修験道の祖とされる聖宝が、真言の力で大蛇を退治し、寺を再興したとされる。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。

「神仏霊場巡り」熊野本宮・旧官幣大社・平安時代の「蟻の熊野詣」熊野本宮は京より遥か遠い往復一カ月を要する神仏習合の聖地

く熊野本宮9「神仏霊場巡り」熊野本宮・旧官幣大社・平安時代の「蟻の熊野詣」熊野本宮は京より遥か遠い往復一カ月を要する神仏習合の聖地、修験道の霊地である。熊野三山は本宮・速玉・那智大社化の形成されている。紀伊半島から西側に南下し、田辺から入る中辺路(筆者も少し歩いた)高野山からの小辺路、大峰山からの行者道、伊勢からの伊勢路を古代の人々は熊野に目指した。祭神は中央本殿(第三殿、証誠殿)には家都美御子大神(素盞鳴尊・本地は阿弥陀如来)相殿の第一殿(西側前)熊野牟須美神(伊奘冉尊・本地は千手観音)事解男神、第二殿(中御前)には、御子速玉之男(本地は薬師)・伊奘諾尊を祀る。第四殿には天照大神(本地は十一面観音)を祀る。以上を上四殿と言う。後第五殿から第十二殿までを中・下に各四社を祀り合わせ熊野十二社権と言う。鎌倉時代には時宗の開祖一遍上人が参篭し阿弥陀仏を感得したという。所が熊野本宮大社は明治二十二年(1889)熊野川の洪水で社は流され、現在の地に移築された。熊野川と支流の合流の中州にあった場所は今は「大斎原(おおゆはら)」として大切に守られている。熊野速玉大社、熊野那智大社に比べ本宮は古式蒼然として鎮座し霊気が漂う気がする。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。

『浪速史跡めぐり』大依おおよさみ羅神社じんじゃ・我孫子観音より南北に大和川の手前の府立阪南高校の一角に大依羅神社がある。

お大依羅神社2『浪速史跡めぐり』大依(おおよさみ)神社(じんじゃ)・我孫子観音より南北に大和川の手前の府立阪南高校の一角に大依羅神社がある。祭神は開化天皇の第四皇子の豊波豆羅和気王を主神に住吉三神を合祀する。主神の依羅吾彦男垂見が、仲哀天皇の熊襲征伐に従ったこともあり、依羅氏は代々神官を勤め、南北朝の動乱で依羅氏が滅亡すると、社殿も焼失したと言う。現在の社殿は昭和四十六年に再建されたもので、本殿西北側にある、古井戸は「雨乞いの井戸」「摂津名所絵図会」にも「庭井に泉」と記されていて庭井の泉の石碑が残っている。この神社の南門を出て参道を進むと、大和川の堤防沿いに行くと、依羅池跡の石碑が立ち「日本書紀」に河内狭山の水が少ないので、勅によって造られた。勿論大和川は江戸時代造られたので古代には池が必要だったのだろう。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。

『鎌倉・室町の群像伝』(全186回)114“阿野廉子” 阿野廉子(1301~1359)後醍醐天皇の寵愛の女房

阿野廉子④ 。後村上天皇、祥子・惟子・皇太子となった恒良・成良親王両親王の3男2女の生母。女房号は新待賢門院。阿野公康の女。中宮禧子の内侍で後醍醐天皇の寵愛を受ける。元弘元年(1331)従三位に叙せられ、後醍醐の乳母の夫、洞院公賢の養女となり、その後見を得ている。後醍醐の隠岐流罪には、廉子と二人の女房と近臣二人が共にした。建武新政権で廉子の地位は高く、第一の護良親王に次ぐ恩賞が与えられた。「太平記」や北畠顕家の諫奏にも、廉子を的として女房の内奏の害と言われている。卓越した政治的手腕発揮。後醍醐の亡き後南朝の支柱となって、所領安堵など具体的施策を行った。「新葉和歌集」などの和歌がある。墓所は河内の観心寺にある。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 27・「葦原中国平定の神々」 天下り活躍した神々、日本神話において、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話。国譲り(くにゆずり)ともいう

葦原中國2『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記)

27・「葦原中国平定の神々」

天下り活躍した神々、日本神話において、天津神国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話。国譲り(くにゆずり)ともいう。「古事記」では天照大御神高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治すべきは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とし、何人かの神を出雲に遣わした。大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。

天忍穂耳の派遣

天照大御神は、「葦原中国は私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(あめのほしおみみ)が治めるべき国だ」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神に報告した。

天菩比の派遣

高木神(高御産巣日神・たかみむすび)と天照大御神は天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。思金神(おもいかね)と八百万の神が相談して「天菩比命(あめのほひ)を大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。高木神と天照大御神は天菩比命に大国主の元へ行くよう命じた。しかし、天菩比命は大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻らなかった。

天若日子の派遣

高木神と天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々と思金神が相談して「天若日子(あめのわかひこ)を遣わすべき」と答えた。そこで、天若日子に天之麻古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わした。しかし、天若日子は大国主の娘の下照比賣(したてるひめ)と結婚し、自分が葦原中国の王になろうとして八年たっても高天原に戻らなかった。

天照大御神と高木神がまた八百万の神々に、天若日子が戻らないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々と思金神は「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を遣わすべき」と答えたので、天つ神は、鳴女に、葦原中国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故八年経ても帰らないのかを、天若日子に聞くように命令した。鳴女は天より下って、天若日子の家の木にとまり理由を問うと、天佐具賣(あまのさぐめ)が「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ」と天若日子をそそのかした。そこで彼は高木神から与えられた天之麻古弓と天之波波矢で鳴女の胸を射抜き、その矢は高天原の高木神の所まで飛んで行った。

高木神は血が付いていたその矢を、天若日子に与えた天之波波矢であると諸神に示して、「天若日子の勅(みことのり)に別状無くて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢は天若日子に当たるな。もし天若日子に邪心あれば、この矢に当たれ」と言って、天之波波矢を下界に投げ返した。矢は天若日子の胸を射抜き、彼は死んでしまった。鳴女も高天原へ帰らなかった。

天若日子の葬儀

天若日子の死を嘆く下照比賣の泣き声を、天にいる天若日子の父天津國玉神や母が聞き、下界に降りて悲しみ喪屋をつくった。阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこね)が弔いに訪れた時、天若日子によく似ていたため、天若日子の父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言って阿遅志貴高日子根神に抱きついた。すると阿遅志貴高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣で喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山である。阿遅志貴高日子根神の妹の高比賣命は、歌を詠んだ。

建御雷の派遣

天照大御神が八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、思金神と八百万の神々は、「稜威雄走神(いつのおはばり)か、その子の建御雷神(たけみかづち)を遣わすべき」と答えた。天之尾羽張(あめのおはばり)は「建御雷神を遣わすべき」と答えたので、建御雷神に天鳥船神(あめのとりふね)を副えて葦原中国に遣わした。

事代主の服従

建御雷神と天鳥船神は、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子の事代主神に訊ねるよう言った。事代主神は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れた。

建御名方の服従

建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子の建御名方神にも訊くよう言った。その間に建御名方神がやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴んだ。すると、建御雷神は手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、建御名方神は逃げ出した。建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。建御名方神は逃げきれないと思い、「この地から出ないし、大国主神や事代主神が言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。

大国主の国譲り

建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねた。大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の百八十神たちは、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言った。大国主神は出雲国の多藝志(たぎし)の小濱に宮殿を建てて、たくさんの料理を奉った。建御雷神は葦原中国平定をなし終え、高天原に復命した。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。

 

「京都古社寺探訪」法然院・京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院である

ほ法然院6 (2) 

。元は浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28年(1953年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが、院号の「法然院」で名が通っている。別称には「本山獅子谷法然院」がある。寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代になり、延宝八年(1680年)に、知恩院の第三十八世である萬無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したのが当寺であるとされる。現貫主は三十一世の梶田真章1984年就任)。寺は、鄙びた趣きをもつ、茅葺で数奇屋造りの山門と、内藤湖南河上肇谷崎潤一郎九鬼周造などの著名な学者や文人の墓が数多く存在する。哲学の道近くという立地も関係して、春秋の観光シーズンには、大勢の参拝者がある。本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されている。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定されている。また境内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。

「神仏霊場巡り」日牟禮八幡宮・祭神は誉田別尊・息長足姫尊・比売神。近江八幡市の日牟禮八幡宮

 ひ日牟禮神社1は創建は成務天皇が高穴穂宮で即位の時、武内宿祢に命じて大嶋大神を祀ったのが始まりという。天皇が近江行幸の際に、沖津島神社の帰りに日牟禮社に立ち寄ったが、後年そこで日輪を見る奇端があって、祠を建てて「日群八幡宮』称した。一条天皇の正暦二年(991)法華峰(八幡山)に社を建て宇佐八幡宮を勧請し「上の八幡宮」を祀ったと伝えられる。寛弘二年((115)遥拝の麓(現在地)に「下の社」した。皇室の崇敬深く、綸旨を下して天下泰平を祈願する事再三に及んだ。足利尊氏・徳川両将軍を始め武家の崇敬深く受けた。天正一三年(1585)八幡城が築かれ、安土城から多くの人々が移住し城下町が築かれた。★歴史が伝える伝統文化。未来に語る継ぐ。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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