『浪速史跡めぐり』天下茶屋・南海高野線は岸里玉出駅より直ぐ東に「天下茶屋」がある

て天下茶屋I7『浪速史跡めぐり』天下茶屋・南海高野線は岸里玉出駅より直ぐ東に「天下茶屋」がある。こんもりとした太閤秀吉の祠を包むように楠の大木に石碑と由来の看板がある。説明によれば400年前の昔、大坂城から住吉大社参拝の時に、途中立ち寄って茶の湯を楽しんだことで有名、天下茶屋跡の一角である。戦時中空襲に合い広大な屋敷は焼失した、秀吉縁の「恵水」と名付けられた井戸や茶室、紀州藩を始めが参勤交代には諸大名が泊まったと言う。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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『歴史の時々変遷』10”近江遷都“ 近江遷都・近江宮は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。

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近江遷都・近江宮は、飛鳥時代天智天皇近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667飛鳥から近江に遷都した天皇はこの宮で正式に即位し、近江令庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672)の壬申の乱大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。史料には、近江大津宮、大津宮、志賀の都とも呼称されるが、本来の表記は水海大津宮であったとの指摘がある1974昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。斉明天皇6年(660百済新羅に攻められて亡んだ。倭国にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、天智天皇2年(663)の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。このような状況下で、天智天皇6年(6673月19、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。その翌年(6681月、称制実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。日本で最初の律令法典となる近江令が制定されたともいわれる。 なお、この遷都の理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。また、大津を遷都先に選んだ理由については、対外関係上の危機感が強く働いていたと思われる。大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いためとする説がある。日本書紀によるとこの遷都には民衆から大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったという。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる

 

『鎌倉・室町の群像伝』八十八“島津定久” 島津貞久(1269~1363)鎌倉・南北朝時代の武将。島津氏

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島津貞久(1269~1363)鎌倉・南北朝時代の武将。島津氏。父は島津忠宗、母は三池道智の娘。文保二年(1318年)父より薩摩守護職を継承、1325年薩摩郡から薩摩半島の頴娃、喜入を経て鹿児島までの「国廻狩り」を行い、在地の掌握に努めた。1333年少弐・大友氏と共に鎮西探題北条英時を討ち日向・大隅守護職を得る。1335年以降足利尊氏方として入京し、また多々良浜の戦いなどに従う。この頃拠城を木牟礼城から碇山城に移し、その後は領国内の宮方勢と抗争、武家方が分裂すると将軍(足利尊氏)方に属し、周囲の領主が佐殿方につき苦戦した。薩摩・大隅守護職を維持し、前者を三男師久、後者四男氏久に分割した。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

 

「神仏霊場巡り」随心院・京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。小野流の開祖として知られる仁海

ず髄心院5 (1)「神仏霊場巡り」随心院京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の仏教寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)の開基。本尊は如意輪観音。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。随心院は、仁海(954 - 1046)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。仁海(954 - 1046)は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷をたびたび行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から寺地を下賜され、正暦二年(991)に建立した寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされている。第五世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。続く六世顕厳の時には順徳天皇後堀河天皇四条天皇の祈願所となっている。東寺長者や東大寺別当を務めた七世親厳(1151 - 1236)の時、寛喜元年(1229)に後堀河天皇宣旨により門跡寺院となった。その後一条家二条家九条家などの出身者が多く入寺している。その後多くの伽藍が建造され、山城、播磨、紀伊などに多くの寺領を有したが応仁の乱によりほとんど焼失した。『隨心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。その後慶長四年(1599)、二十四世増孝(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717 - 1787)は、関白九条輔実の子で、大僧正に至ったが、九条稙基が夭折したことを受けて寛保三年(1743)還俗し、九条尚実と名乗って関白、太政大臣の位に至っている。真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も随心院は「真言宗」にとどまっていたが、明治四十年(1907)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。随心院は小野派本山となった。その後昭和六年(1931)には真言宗小野派を真言宗善通寺派と改称。昭和十六年(1941)には善通寺が総本山に昇格した。現在は宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、随心院は同派大本山と位置づけられ、善通寺には管長が住し、随心院には能化が置かれている。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「一ノ宮巡り」淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮・祭神伊奘諾尊・伊奘冉尊 兵庫県淡路市多賀740・式内社・旧官幣大社

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「一ノ宮巡り」淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮・祭神伊奘諾尊・伊奘冉尊

兵庫県淡路市多賀740・式内社・旧官幣大社

『記紀』の神話によると淡路島に鎮座する伊奘諾神宮の祭神のイザナギ神とイザナミ神は日本の国の生みの親になる。

『記紀』によれば国生み、神生みを終えてイザナギ神は最初に国生みを行なった淡路島の多賀後に幽宮(くりのみや)(終焉の御住居)に鎮まった。

当社の起源になる。イザナギの終焉の地として滋賀の多賀大社がある。『古事記』であは「近江」「近淡海」とあるが淡路島は「淡海」の淡道は誤写とする説もある。『日本書紀』はあくまで「淡道」として「近江」に該当しないとしている。

記述に依れば大同元年(806)神封十三戸が充てられ、天慶三年(940)官封で五戸加増された。『延喜式神名帳』に「淡路国津名郡九座、大一座、小八座、淡路伊佐那伎神社、名神大」と記載されている。

平安時代から鎌倉時代にかけて徐々に一ノ宮の記述が現れ出し、一の宮として崇敬され認められるようになっていった。また『淡路国大田文』から鎌倉時代の初期から神宮寺が有ったことが分る。

当社の神宮寺であった妙京寺の記録に依れば、弘安三年(1280)坂上田村麻呂の子孫の田村経春は社殿を再興した。武田勝頼との戦いで先陣を命じられたが従わず切腹となった。

次に江戸時代には徳島藩主蜂須賀家に崇敬され元和七年(1621)黒印状で一宮供領十石を得ている。

その後、当社の管理を廻り、寺家と社家の主導権争いで宝暦年間に六年にも及ぶ『一宮の唯一騒動』の記載が残されている。檀家を持たず一宮領分を配分して祭礼を勤める社家六坊と別当の妙京寺の末寺六坊の存在が分る。この社家六坊は神宮寺と考えられる。その後神宮寺の改宗で法相宗とも真言宗とも言われた神宮寺が日蓮宗に改宗されそれに従わない社僧は追放されたと言う。昭和七年にイザナミ神を合祀した。又昭和昭和二十七年に伊奘諾神社を伊奘諾神宮に改められた。★『古事記』では伊邪那(いざな)()(かみ)・(国生みを命じられた神、男神でイザナミ神と夫婦、イザナミ神が出産で火傷を負って亡くなり黄泉の国に行ってしまって後を追って行くが連れ戻せなかった。黄泉国から帰還し穢れた体を禊をして多くの神を産む、最後に神生みを行なって三貴公子を産む。) 伊邪那(いざな)()(かみ)・(イザナキ神と国生み神生みをして火の神の子カグツチを産んで死んだ。黄泉の国に行った。伊邪那岐神と夫婦神 女神)※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『浪速史跡めぐり』天神の森・天下茶屋跡から東に行くと天神ノ森「天満宮」がる。祭神は「菅原道真公

 て天神の森天満宮お『浪速史跡めぐり』天神の森・天下茶屋跡から東に行くと天神ノ森「天満宮」がる。祭神は「菅原道真公」末社に天照大神、猿田彦命、稲荷大明神、祠には白雪龍神、白髭竜王、白龍大明神が境内に祀られている。菅原道真公は筑紫へ流された時に、途中住吉明神に参拝中、この地にて休まれたと言う。また茶人の千利休の師武野紹鴎が茶室を構えた所で「紹鴎の森」とも呼ばれ、大きな石碑も建っている。豊臣秀吉も淀殿の解任の折りには、安産祈願をしたと言う。

※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 12・「黄泉の国の光景」 イザナギはイザナミを取り戻そうと黄泉国へ赴いた

黄泉国お。黄泉に着いたイザナギは、戸越しにイザナミに「あなたと一緒に創った国土はまだ完成していません。帰りましょう」と言ったが、イザナミは「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、生き返ることはできません」と答えた(注:黄泉の国のものを食べると、黄泉の住人になるとされていた。これを「黄泉竈食ひ(よもつへぐい)」という)。さらに、イザナミは「黄泉神と相談しましょう。お願いですから、私の姿は見ないで下さいね。」といい、家の奥に入った。イザナギは、イザナミがなかなか戻ってこないため、自分の左の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)という櫛の端の歯を折って、火をともして中をのぞき込んだ。するとイザナミは、体は腐ってがたかり、声はむせびふさがっており、の姿をした8柱の雷神(八雷神)がまとわりついていた。雷神の名は以下の通り。

◎大雷(おほいかづち、イザナミの頭にある)◎火雷(ほのいかづち、イザナミの胸にある)◎黒雷(くろいかづち、イザナミの腹にある)◎折雷(さくいかづち、イザナミの陰部にある)◎若雷(わかいかづち、イザナミの左手にある)◎土雷(つちいかづち、イザナミの右手にある)◎鳴雷(なるいかづち、イザナミの左足にある)◎伏雷(ふすいかづち、イザナミの右足にある)

おののいたイザナギは逃げようとしたが、イザナミは自分の醜い姿を見られたことを恥じて、黄泉醜女(よもつしこめ)にイザナギを追わせた。

○イザナギは蔓草(つるくさ)を輪にして頭に載せていたものを投げ捨てた。すると葡萄の実がなり、黄泉醜女がそれを食べている間、逃げた。しかしまだ追ってくるので、右の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)という竹の櫛を投げた。するとタケノコが生え、黄泉醜女がそれを食べている間、逃げた。

○イザナミはさらに、8柱の雷神と黄泉軍にイザナギを追わせた。イザナギは十拳剣で振り払いながら逃げ、ようやく黄泉の国と地上の境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に着いたとき、坂本にあったの実を3つ投げたところ、追ってきた黄泉の国の悪霊たちは逃げ帰っていった。

○ここでイザナギは、桃に「人々が困っているときに助けてくれ」と言って、意富加牟豆美命(おほかむずみのみこと)と名づけた。

○最後にイザナミ本人が追いかけてきたので、イザナギは千人がかりでなければと動かないような大岩で黄泉比良坂をふさぎ、悪霊が出ないようにした。その岩をはさんで対面してこの夫婦は別れることとなる。

このときイザナミは、「私はこれから毎日、一日に千人ずつ殺そう」と言い、これに対しイザナギは、「それなら私は人間が決して滅びないよう、一日に千五百人生ませよう」と言った。これは人間の生死の由来を表している。

○このときから、イザナミを黄泉津大神(よもつおほかみ)・道敷大神(ちしきのおほかみ)とも呼び、黄泉比良坂をふさいだ大岩を道返之大神(ちかへしのおほかみ)・黄泉戸大神(よみとのおほかみ)ともいう。なお、古事記では、黄泉比良坂は出雲国の伊賦夜坂(いふやのさか;現在の島根県松江市の旧東出雲町地区)としている。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

『鎌倉・室町の群像伝』八十六“吉田定房” 吉田定房(1274~1338)鎌倉後期から南北朝の公卿。峨醍醐天皇の乳父。

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吉田定房(1274~1338)鎌倉後期から南北朝の公卿。峨醍醐天皇の乳父。父は大納言吉田経長、母は権中納言葉室定嗣の娘。大覚寺統に仕え、後宇多上皇の信任を得。乾元元年(1302)29歳で参議になる。従三位、権中納言を経て1307年三位に叙された。翌年持明院統から花園天皇が即位すると辞官。1318年後醍醐天皇が即位して再び後宇多上皇の院政が始まると復帰し、院評定衆・伝奏となり、1319年権大納言。醍醐寺三宝院に伝わる後醍醐天皇の討幕計画を諫めた定房奏状したものとされる。討幕計画が発覚し天皇が窮地に陥った同年9月正中の変では幕府に対する弁明するための天皇の誓書を起草、1331年の元弘の変では討幕計画を幕府側に密告した。建武政治が親政が開始されると重用され、准大臣・内大臣に昇り、雑訴決断所蔵人・恩賞方蔵人・伝奏等の要職を務めた。南北朝に入ると、1337年京都を脱して吉野に参じ、後醍醐天皇に仕えたが、翌年1月23日吉野で没。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

「神仏霊場巡り」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角

azx.jpg「神仏霊場巡り」金峯山寺・奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基は役小角と伝える。金峯山寺の所在する吉野山は、古来桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもあった。「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、吉野山と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する山上ヶ岳を含む山岳霊場を包括した名称であった。吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県高野山熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山には吉水神社如意輪寺竹林院桜本坊喜蔵院吉野水分神社金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。金峯山寺の中興の祖とされるのは、平安時前期の真言宗の僧で、京都の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝である。『聖宝僧正伝』によれば、聖宝は寛平六年(894年)、荒廃していた金峯山を再興し、参詣路を整備し、堂を建立して如意輪観音多聞天金剛蔵王菩薩を安置したという。両部曼荼羅密教末法思想浄土信仰金峯山に参詣した著名人には、宇多法皇藤原道長藤原師通白河上皇などがいる。このうち、藤原道長は山上の金峯山寺蔵王堂付近に金峯山経塚を造営しており、日本最古の経塚として知られている。埋納された経筒江戸時代に発掘され現存している。金峯山は未来仏である弥勒仏浄土と見なされ、金峯山(山上ヶ岳)の頂上付近には多くの経塚が造営された。修験道は中世末期以降、「本山派」と「当山派」の二つに大きく分かれた。本山派は天台宗系で、園城寺(三井寺)の円珍を開祖とする。この派は主に熊野で活動し、総本山は天台宗寺門派聖護院である。一方の当山派は真言宗系で、聖宝を開祖とする。吉野を主な活動地とし、総本山は醍醐寺三宝院であった。金峯山寺は中興の祖である聖宝との関係で、当山派との繋がりが強かった。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に移り、南朝を興したのにも、こうした軍事的背景があった。近世に入って慶長19年(1614年)、徳川家康の命により、天台宗の僧である天海(江戸・寛永寺などの開山)が金峯山寺の学頭になり、金峯山は天台宗の傘下に置かれることとなった。明治維新に入り修験道信仰は多大な打撃をこうむった。1868年(明治元年)発布された神仏分離令によって、長年全国各地で行われてきた神仏習合の信仰は廃止され、寺院は廃寺になるか、神社に変更し生き延びるほかなかった。1872年(明治五年)には追い討ちをかけた形で修験道廃止令が発布され、1874年(明治七年)には金峯山寺自体も廃寺に追い込まれた。僧侶・修験道者らの嘆願により、1886年(明治十九年)には「天台宗修験派」として修験道の再興が図られ、金峯山寺は寺院として復興存続が果たせた。ただし、山上の蔵王堂は「大峯山寺」として、金峯山寺とは分離され現在に至っている。太平洋戦争後の1948年(昭和二十三年)に、天台宗から分派独立して大峯修験宗が成立し、1952年(昭和二十七年)には金峯山修験本宗と改称、金峯山寺が同宗総本山となっている。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・日前神宮・国懸神宮・祭神日前大神・国懸大神 和歌山県和歌山市秋月365・式内社・旧官幣大社

日れ「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・日前神宮・国懸神宮・祭神日前大神・国懸大神

和歌山県和歌山市秋月365・式内社・旧官幣大社

神社の近くで場所を聞くと「にちぜんさん」と教えてくれた。

紀伊国一ノ宮は二社で左に日前神社、右に国懸神社になっている。

日前神宮の祭神は日前大神、日像鏡を神体とする。相殿には思兼神・石凝(いしころ)(とめの)(みこと)、右の国懸神社は主祭神国懸大神、相殿日矛鏡を御神体とし玉祖命・明立天御影命・鈿女命で御神体の鏡は伊勢神宮の神宝の八咫鏡の同等のものとされる。

八咫鏡が伊勢神宮の神体とされていたので、日前宮・国懸宮は重要な神として皇祖神に準じた扱いを受けてきた。

朝廷は神階を送らない特別な神宮とされてきた。『日本書紀』には天照大神の岩戸隠れの際の、石凝姥命が八咫鏡の鋳造した鏡を日前宮に祀られている。

神武天皇の東征後、紀伊国造家の祖神である、天道根命が八咫鏡に先立って鋳造された鏡であると言うことで日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前神宮の神体に、日矛鏡を日懸神宮の神体にした。

創建鎮座については、もとは名草郡毛見郷浜宮にあったものを垂仁天皇に御世に現在地に遷座されたと言う。

もう一つの一ノ宮伊太祁神社は現在地にあった所、紀伊国の国譲りで、今の伊太祁神社後に遷座をしたと記されている。朱鳥元年(686)国懸神社に奉幣したと伝えらえている。『延喜式神名帳』には紀伊国一宮とされた。

持統年間に紀伊大神奉幣と見え、嘉祥三年には「左馬助従五位下紀朝臣貞守を遣わし紀伊国日前、国懸大神社に向かわしむ」と記す。

中世には熊野詣での途中で参拝されたと言う記録が残されている。

天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めで社領は没収され、その際に社殿が取り壊され境内は荒廃した。江戸時代には紀州徳川藩主により再興された。

★御神体が日矛鏡・日像鏡の御神体について《即ち石凝を以て冶工として 天香山の金を採りて、日矛をつくらしむ。又、真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽(あまの)(はぶき)に作る。此を用て造り奉る神は、是即と紀伊国に所坐す日前神なり》日前・国懸神宮の社伝では、日矛とは矛であはなく日矛鏡と言う名のかがみである。三種の神器の一つである八咫鏡に先立って造られた「日像鏡」と「日矛鏡」の次に作ったのが、八咫鏡であると言う内容である。

現在まで日像鏡と日矛鏡は天照大神の前霊として日像鏡は日前神宮、日矛鏡は国懸神宮の御神体として奉斎されると伝わる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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