史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『浪速史跡めぐり』聖天山古墳は阿倍野区の西端、上町台地の南端に位置する小高い丘で、山の北側は公園になっており

せ聖天山古墳『浪速史跡めぐり』聖天山古墳は阿倍野区の西端、上町台地の南端に位置する小高い丘で、山の北側は公園になっており、古墳が残っている。山頂は「天下茶屋の聖天さん」と呼ばれる聖天山 正圓寺の境内である。正圓寺は元禄年中(1690年頃)にこの地に移築再興された寺院であるが、それよりも遡る南北朝の頃、この付近には吉田兼好の庵があったと伝わっている。吉田兼好:1284年?~1350年?(弘安6年~正平5年:その生年と没年は諸説ある)鎌倉時代末期・南北朝時代の歌人・随筆家。 卜部兼好(うらべのかねよし)が正しいらしく、吉田兼好は後世の俗称。武士 として朝廷に仕え、のち出家。山城国山科小野荘に住み、随筆文学の傑作『徒然草』を書いた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『歴史の時々変遷』9”白村江の戦“ 白村江の戦・天智天皇2年(663)百済復興を目指し、倭軍・百済軍が唐・

 hakusonn.jpg『歴史の時変遷』9”白村江の戦“

白村江の戦・天智天皇2年(663)百済復興を目指し、倭軍・百済軍が唐・新羅の連合軍と朝鮮半島南西部の錦江河口で交え戦。「白村江」は『日本書紀』には白村江(はくのすきのえ)とも記されている。事の経緯は倭国と友好関係を保っていた百済に対して660年に唐の高宗率いる大軍が新羅の要請に唐軍と新羅軍が合流して攻撃を加え、滅亡させたことにある。百済と友好関係からその為の復興に、福信・常之・道琛ら百済の遺臣が倭に救援を求めてきた。その要請を受けて倭に滞在していた豊璋に百済国の王位をつけて本国に送還するとともに、大量の救援群を向かわせた。これらは倭国が百済を支配下に置くための戦であった。豊璋は662年に周留城で即位し臨戦態勢強め、戦いは翌年8月白村江で2日間に渡って繰り広げられ、倭国軍は、唐・新羅の連合軍に大敗をきした。その為に倭国軍の敗残兵と共に多くの百済官人も一緒に近江京の宮廷が西方の防衛に重用され、政局の動向に影響を与えたが、6世紀以来の倭国の対百済外交に終止符が打たれた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『鎌倉・室町の群像伝』八十五”北条高時“ 北条高時(1303~1333)鎌倉幕府十四代執権。正和五年(1316)在職10年間

aaq.jpg鎌倉・室町の群像伝』八十五”北条高時“

北条高時(1303~1333)鎌倉幕府十四代執権。正和五年(1316)在職10年間、父は北条貞時、母は大室流安達康宗の娘。通称相模太郎。日輪寺殿と称す。1309年元服し、従5位下、左馬権頭となり、小侍所奉行に就任。1311年10月父の死により9歳で執権北条嫡流の家督を継承、最後の得宗となる。1316年16歳で執権就任、翌年に相模守になって正式に幕府の最高指導者になる。1326年224歳に病で出家、執権を辞したが得宗としての地位は不変であった。これは当時の鎌倉幕府が得宗を中心とした専制政治体制であったことを示す。1332年評定衆から起請文を提出させ、1331年には幕府を壟断していた内菅領長崎高資の討伐を密命するなど、政治に意欲を持っていたと思われる。

しかし高資討伐が失敗すると、幕府の実権は高時より長崎高綱・高資父子や舅の安達時頼の手中にあり、高時は傀儡的地位を余儀なくされた。高時自身も田楽・闘犬・遊宴にふけることが多く、うつ病と評価されたこともある。1333年5月22日、新田義貞に鎌倉を攻め落とされて、葛西ケ谷の東勝寺で一族与党800人とともに自刃。墓所は鎌倉の宝戒寺、同寺には得宗権現像がある。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

 

 

「古社寺探訪」建仁寺・京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する

け建仁寺4「古社寺探訪」建仁寺・京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。京都五山の第三位に列せられている。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。山内の塔頭としては、桃山時代の池泉回遊式庭園で有名であり、貴重な古籍や、漢籍・朝鮮本などの文化財も多数所蔵していることで知られる両足院などが見られる。また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。なお、しばしば日本最初の禅寺と言われるが、これは間違いで博多聖福寺が最初の禅寺である。日本に臨済宗を正式に伝えたのは栄西がはじめとされている。栄西は永治元年(1141)、備中国岡山県)に生まれた。十三歳で比叡山に上り翌年得度(出家)。仁安三年(1168)と文治三年(1187)の二回、南宋に渡航した。一度目の渡宋はわずか半年であったが、二度目の渡宋の際、臨済宗黄龍派(おうりょうは)の虚庵懐敞(きあんえじょう)に参禅した。建久二年(1191)、虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て、帰国する。当時、京都では比叡山(延暦寺)の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。栄西ははじめ九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で正治二年(1200)に建立された寿福寺の開山となる。その二年後の建仁二年(1202)、鎌倉幕府二代将軍・源頼家の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。創建当時の建仁寺は天台、真言、禅の3宗並立であった。これは当時の京都では真言、天台の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259)には宋僧の蘭渓道隆11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の寺院となる。建仁寺は、応仁の乱による焼失のほか、応永四年(1397)、文明十三年(1481)などたびたび火災にあっており、創建当時の建物は残っていない。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「神仏霊場巡り」」大阪天満宮・大阪府大阪市北区に鎮座する神社(天満宮)。別名に天満天神・浪華菅廟・

て天満宮L「神仏霊場巡り」」大阪天満宮・大阪府大阪市北区に鎮座する神社天満宮)。別名に天満天神・浪華菅廟・中島天満宮がある。大阪市民からは「天満の天神さん」と呼ばれ親しまれている。毎年行われる天神祭日本三大祭大阪三大夏祭りの一つとして知られている。901菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、同地にあった大将軍社に参詣した。903に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949大将軍社の前に七本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『浪速史跡めぐり』定専坊・東淀川区豊里は住宅地の真ん中に定専坊(浄土真宗)があって、重厚な伽藍である

じ専定慈『浪速史跡めぐり』定専坊・東淀川区豊里は住宅地の真ん中に定専坊(浄土真宗)があって、重厚な伽藍である。開山は行基と伝えられ、真言宗は西光寺と言ったが、楠木正勝の孫、掃部助が出家して浄賢を名乗り、浄土真宗に改宗した。石山本願寺の縁の寺でもある。浄土真宗中興の祖の開祖蓮如上人も立寄ったと言う。境内にある鐘楼は石山本願寺に使われていた早鐘と伝えられる。その早鐘の前には楠木一族の墓があるが、中には入れず、外から覗くだけであった。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記) 11・黄泉の国(死後の世界) 黄泉国(よみ)とは、日本神話における死者の世界

よ黄泉の国お (1)『古事記が描く説話の憧憬』全61回(楽しい古事記)

11・黄泉の国(死後の世界)

黄泉国(よみ)とは、日本神話における死者の世界のこと。古事記では黄泉國(よみのくに、よもつくに)と表記される。黄泉とは、大和言葉の「ヨミ」に、漢語の「黄泉」の字を充てたものである。漢語で「黄泉」は「地下の泉」を意味し、それが転じて地下の死者の世界の意味となった。 語源には以下のような諸説がある。①「夜」説。夜方(よも)、夜見(よみ)の意味、あるいは「夜迷い」の訛りともいう。②「四方」説。単に生活圏外を表すとの説。③「闇」説。(ヤミ)から黄泉(ヨモ・ヨミ)が派生したという。④「夢」説。もともと(ユメ)のことをさしていたという。⑤読み」説。常世国の別名とする説で、常世国から祖霊が歳神(としがみ)として帰ってくる正月を算出するための暦(こよみ=日読み)から。⑥「山」説。黄泉が「坂の上」にあり、原義は山であるとする。

『古事記』黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか)といい、葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。古事記には後に「根の堅州国」(ねのかたすくに)というものが出てくるがこれと黄泉国との関係については明言がなく、根の国と黄泉国が同じものなのかどうかは説が分かれる。黄泉比良坂の「坂本」という表現があり、これは坂の下・坂の上り口を表しているという説と、「坂」の字は当て字であり「さか」は境界の意味であるという説とがある。また古事記では、黄泉比良坂は、出雲国に存在する伊賦夜坂(いぶやざか)がそれであるとしており、現実の土地に擬されている。そこで変わり果てたイザナミの姿を目撃したイザナギが、黄泉の国から逃げ帰る場面が以下のように表現されている。

逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時
(訳)逃げ来るを、猶ほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に至りし時  

口語訳では「(イザナギが)逃げるのを、(イザナミは)まだ追いかけて、(イザナギが)黄泉比良坂の坂本に着いたとき」となる。この時、追いすがる妻やその手下の黄泉の醜女(しこめ)達を退けるため、黄泉路をふさいだ大石を、道反の大神(ちがえしのおおかみ)といった。道反の大神は岐神として、日本各地に祀られている。そしてさらにその場にあったの木から実をもぎ取ってを投げつけることで黄泉の醜女を追い払っており、このときの功績によって桃は意富加牟豆美命(おおかむつみのみこと)という神名を賜り、「これからも(今私にしてくれたように)困った人を助けておくれ」と命じられた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

『鎌倉・室町の群像伝』八十四”欄溪道隆“ 欄溪道隆(1213~1278)鎌倉中期に来日した臨済宗楊岐派の松源派の禅僧。

aqw.jpg 鎌倉・室町の群像伝』八十四”欄溪道隆“

欄溪道隆(1213~1278)鎌倉中期に来日した臨済宗楊岐派の松源派の禅僧。中国は西蜀四川省の人。号は欄溪、諱は道隆。成都の大慈寺で出家。浙江で無準らに師事し、陽山の無明の下で悟りを開く。天童山で入宋律僧月翁と知り合五、日本では教学仏教が盛んであるが、禅宗ではまだ始まったばかりであった。1246年日本の律僧塩田和尚と同船し、義翁や龍江らの弟子を伴って来日した。月翁を頼って京都は泉涌寺来迎院に滞在し、鎌倉に下ると北条時頼は常楽寺に招き、政務の余暇に法を聞いた。時頼は建長寺を創建し、中国のような禅寺とするために蘭渓を開山として迎えた。円爾は東福寺から僧を派遣し蘭渓の教化を助けた。中国、モンゴルが勃興するとスパイの嫌疑をかけられ3年ほど陸奥に流された。諡号が大覚禅師からこの門流を大覚派と言われた。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「京都古社寺探訪」東福寺・京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来、開基は、九条道家、開山は円爾である

 qq.jpg「京都古社寺探訪」東福寺・京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院。本尊釈迦如来、開基は、九条道家開山円爾である。京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄えた。この地には延長二年(924)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺・法性寺の巨大な伽藍があった。嘉禎二年(1236)、九条道家摂政)は、この地に高さ五丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良東大寺興福寺の二大寺から一字ずつ取って「東福寺」とした。五丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239)から始めて、完成したのは建長七年(1255)であった。高さ五丈の本尊釈迦像は元応元年(1319)の火災で焼失、十四世紀半ば頃に再興されるが、明治十四年(1881年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている。]これは創建時の本尊ではなく、十四世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ五丈」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾を迎えた。円爾は駿河国栃沢の人で、嘉禎元年(1235)、宋に渡って径山・興聖万寿禅寺の高僧・無準師範に入門。印可を得て仁治二年(1241)、日本へ帰国した。円爾ははじめ九州博多の承天寺に住したが、同寺が天台宗徒の迫害を受けて焼き討ちされたため、九条道家の援助で上洛、東福寺の開山に迎えられた。東福寺の建設工事は三〇年以上に亘って続き、法堂が完成したのは文永十年(1273)であった。その後、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失するが、九条家鎌倉幕府足利家徳川家などの援助で再建されてきた。近代に入って明治十四年(1881年)にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる

「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・丹生都比売神社・丹生都比売神かみ 和歌山県伊都かつらぎ町上天野230・式内社・旧官幣大社

q.jpg「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・丹生都比売(にうつひめ)神社(じんじゃ)丹生都比売(にうつひめ)(かみ)

和歌山県伊都かつらぎ町上天野230・式内社・旧官幣大社

この神社に訪れて感銘を受けたのは、かつらぎ町はまるで桃源郷のような場所にあることで、紀ノ川から急な道を上り詰めた所に盆地が広がる。そして優美な社殿が迎えてくれる。

全国に一八〇社ある丹生都比売神社の総本社である。

別称天野神社、祭神は丹生都比売大神・高野御子大神・大食津比売大神・市杵島比売大神の四柱である。

この神社は高野山の北西にあって、高野山とは関わりが深く、空海が金剛峯寺を建立にあたって、神社が神領を寄進したと言い伝えがあって、高野山御入口にあって、当社の背後の尾根上には高野山への参道である「高野山町石道」が通っており、高野参りの前に、まず当社に参拝をして高野にゆく習わしがあった。習わしであった。

祭神は四所明神と言われ、第一殿は丹生都比売大神、第二殿は高野御子大神、第四殿は大食津比売大神、第四殿は市杵島比売大神である。

丹生都比売大神についてその性質は二説に別けられる。

一つに水神と見るもので、貴志川・有田川・丹生川・鞆淵川の流域と神域が重なる。もう一つに社名にある丹生の「丹」すなわち朱色は朱砂、朱色の水銀の採掘に携わる人々によって祀られたとする説である。また丹生都比売神はイザナギとイザナミの御子神であるとしている。

同じ神の稚日女尊と同一神とも言われている。

またこの神が高野山創建に関わった説話に「空海への土地譲り」伝説がある。高野山金剛峯山寺の建立に当り、地主神による当社から神領を譲ったと言う話による古記録として『金剛峯寺建立修行縁起』がる。

弘仁七年(817)、空海は「南山の犬飼」と言う二匹の犬を連れて猟師に大和から宇智郡から紀伊国境まで案内され、後に山民の山へ導かれたと言う。以上の説話は『今昔物語集』にも記載されており、説話における前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神の化身と言われている。

『丹生祝氏本系帳』には丹生氏が元狩人の神の生贄ために二頭の犬を連れて狩をした伝承があり、この説話が高野山開設に取り入れられたと言う。空海の死後弟子たちによって当社の神領が高野山の寺領になって行った。当社が国史での初見は『日本三代実録』貞観元年(859)従四位下勲八等の神階が授与された記録がある。『延喜式神名帳』紀伊国伊都郡に「紀伊国神名帳」には天神として「正一位勲八等、丹生津比咩大神」と記載あり、高野山開設後、丹生都比売神と高野御子神は「丹生両所」「丹生高野神」として、高野山の鎮守となっている。平安時代かの二座から四座になったとみられる。仁平元年(1151)文書に「第三神宮」とある。正応六年(1293)天野四所明神の三大神号蟻通神が神託見え、第三殿に「蟻通神」が祀られた。 祭神の追加については時代は前後するが『高野春秋』によれば承元二年(1208)北条政子の援助で行勝上人と天野祝により気比神宮の大食比売大神、厳島神社の市杵比売神が勧請された。

これによって高野山荘園に当社が勧請され、各地に丹生神社が誕生していった。また神仏習合の影響で当社の境内には多くの仏教伽藍、諸堂が建立されていった。やがて山岳修行の修験者の拠点にもなって行った。この様子は「弘法大師・丹生高野両明神象」に当社の境内も描かれている。その後公家、武家から多くの崇敬を受け、紀伊国一ノ宮を称するようになっていった。紀伊国には古くより日前宮・日懸宮は一宮として存在していたが、「一宮」の呼称自体はなく、他の社で一宮を称したのは伊太祁曽神社がある。

中世に多くの社領を受けていたが天正検地で没収された。近世には増々神仏習合で高野山学侶領から二〇二石の分与をされたが、明治の神仏分離令によって、丹生都比売神社は高野山から独立をした。

★この社の祭神について丹生都比売神はイザナギとイザナミの間に生まれた御子とされる一方、古代豪族の丹生氏の祖神と考えられ、地域的に見て貴志川・丹生川・有田川など水に携わる氏族であり、朱、丹生氏の氏名に関係する水銀を採取する氏族だったのだろう。また高野御子大神は狩場明神の別名で先住氏族の、地主神として考えらえないことはなく、両神は類似した地域氏族だったのかも知れない。他の二神は意図的に北条政子らの執権者が勧請した神々で直接的に丹生都比売神社と関連性は薄いと考えられる。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

 

 

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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