『浪速史跡めぐり』長寶寺(閻魔さんのゆかりの寺)・JR大和路線は平野下車南へ国道を渡ると平野郷がある。

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『浪速史跡めぐり』長寶寺(閻魔さんのゆかりの寺)・JR大和路線は平野下車南へ国道を渡ると平野郷がある。昔ながらの町並に細い道に寺院、神社が点在する。長生院 長寶寺がある。本尊は坂上田村麻呂の守護仏伝えられる。この辺りは坂上田村麻呂の子の広野の領地で、平野の地名も広野から来たと言われ、坂上田村麿に関わりの深い寺である。そう広くは無いが境内には、その由緒は窺える堂塔ばかりで、今も下町の人々の信仰が生づいている、門をくぐると本堂、本尊十一面観音菩薩が祀られ、何より珍しいのは、「閻魔大王」が祀られている事だ、秘仏である。毎年五月十八日に御開帳がある。左手に役行者の堂がある。この寺の創建は古く平安時代のあの蝦夷征伐でその名を挙げた「坂上田村麻呂」の関わりの深い寺である、開基の慈心大姉は桓武天皇の妃で坂上田村麻呂の娘春子である。延暦二十五年(八百六)春子は桓武天皇の崩御と共に弘法大師に帰依した、十一面観音菩薩を田村麻呂の守護仏され、その後南北朝の折り、この寺を一時皇居とされ山号の王舎山もそのとき賜ったという。往時は多くの堂塔があったが、戦火や明治の廃仏に合い衰退したがその由来と面影は残されている。また「閻魔大王」の謂れも慶心房尼の閻魔大王との関わりで「よみがえりの草紙」に記されているそうである。閻魔さんを祀る珍しい寺で五月十八日の閻魔大王の開帳の日には「閻魔さんの証判押し」の行事がある。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

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『戦後日本の あの日あの時』191「新産業都市」 ●昭和37年(1962)5月10日、新産業都市建設促進法公布。

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『戦後日本の あの日あの時』191「新産業都市」
●昭和37年(1962)5月10日、新産業都市建設促進法公布。8月1日施行(道央・八戸など15カ所新産業都市に指定。工業整備特別地域一準新産業都市として鹿島など6カ所を指定)新産業都市建設推進法によって指定された工業開発都市。政府は第一次全国総合開発計画に基づき、工場と人口の分散を目的として、重化学工業地域を中心に地域開発を計画、道央、八戸、仙台湾、常磐、郡山、新潟、富山、高岡、松本、諏訪、岡山県南、徳島、東予、大分、日向、延岡、大牟田、有明、不知火、秋田湾、中海の15カ所を指定し、それ以外の開発が進んでいる地域、鹿島、東駿河、東三河、播磨、備後、周南を準新産業都市として指定した。予定通りコンビナートが設備されたのは新産業都市2カ所に留まった。このコンビナート地域では公害が発生し、地場産業の発展は軽微であった。他の大部分の地域はコンビナートが建設できず、財政危機に陥った。また資本と人口の分散は成功せず、東京一極集中が続いた。その意味では新産業都市による分散政策は失敗した。この制度は、産業構造の変化などを理由に2001年3月に廃止された。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

「西国観音三十三所巡り」一乗寺”西国二十六番札所“兵庫県加西市にある天台宗の寺院。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩

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「西国観音三十三所巡り」一乗寺”西国二十六番札所“兵庫県加西市にある天台宗の寺院。山号は法華山、本尊は聖観音菩薩である。寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基は法道仙人とされる。 国宝に指定されている三重塔(1171年建立)は平安時代後期を代表する和様建築の塔であり、日本国内屈指の古塔である。 境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られている。一乗寺の開基とされる法道仙人は、天竺(インド)から紫の雲に乗って飛来したとされる伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡(兵庫県加西市)に八葉蓮華の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号したという。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。法道仙人開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に集中しており、「インドから紫雲に乗って飛来」云々の真偽は別としても、こうした伝承の元になり、地域の信仰の中心となった人物が実在した可能性は否定できない。一乗寺には7世紀~8世紀にさかのぼる金銅仏6躯が存在し、付近には奈良時代にさかのぼる廃寺跡、石仏などが存在することからも、この地域一帯が早くから仏教文化の栄えた地であることは確かである。創建当時の一乗寺は現在地のやや北に位置する笠松山にあったと推定されている。笠松山の山麓には古法華(ふるぼっけ)石仏と称される奈良時代の三尊石仏(重要文化財)があり、「古法華」とは「法華山一乗寺の旧地」の意味と思われる。現存する一乗寺三重塔は平安時代末期の承安元年(1171年)の建立であるところから、その年までには現在地において伽藍が整備されていたと思われるが、正確な移転時期は不明である。一乗寺は中世、近世には何度かの火災に遭っているが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されている。本堂は姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永五年(1628年)に建てられたものである。山間に位置する境内は長い石段が続き、数段に分けて整地されている。バス通りに面した境内入口には山門はなく、正面に石造笠塔婆が立つ。その左方には宝物館と本坊の地蔵院がある。右方は公園風に整備され、太子堂、放生池、やや奥まったところに見子大明神の社がある。境内入口から最初の石段を上った狭い平地の左手に常行堂があり、次の石段を上ると左手に国宝の三重塔、右手に法輪堂(経蔵)がある。三重塔の直上、さらに階段を上った位置に懸崖造の本堂が建つ。このため、本堂の縁に立つと三重塔を見下ろすことができる。本堂裏手には鎮守社の護法堂、妙見堂、弁天堂、行者堂があり、本堂からさらに200メートルほど登ったところに法道仙人を祀る奥の院開山堂が建つ。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

『鎌倉・室町の群像伝』五十五”湛慶“ 湛慶(1117-1256) 鎌倉時代の慶派仏師。運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝

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『鎌倉・室町の群像伝』五十五”湛慶“
湛慶(1117-1256) 鎌倉時代の慶派仏師。運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝など皆、仏師になったが、なかでも嫡男の湛慶は、運慶、快慶とならぶ大家として知られる。ほぼ60年の長期に渡って活躍しているが、その活動はおよそ3つの期間に分けられる。第1期は貞応2年(1223)、快慶と共に醍醐寺閻魔堂の造仏をした頃までで、この年は運慶の没年にも当たる。この時期は、父・運慶や慶派の有力仏師と共同し、主に東大寺を中心とする奈良で活動した。建暦3年(1212)、41歳で最高の僧綱位である法印に叙せられるが、この頃は運慶や快慶も健在で、湛慶が表に立つことは少なかったようである。湛慶の作風は、運慶の力動感溢れる存在感と、快慶の絵画的な写実を調和した穏健な様式を作り上げたと評されるが、それはこの時期に培ったものだと考えられる。第2期は、貞応3年(1224)の平岡善妙寺の造像から、宝治2年(1248)の後嵯峨院のための造像のあたりで、新たな作風を作り上げるまで。この頃から死の直前の仕事まで、奈良では全く活動しておらず、慶派の主体が南都から離れたことが伺える。第2期の作「善膩師童子像」(雪蹊寺)や狛犬・仔犬(高山寺)には、無垢な愛らしさを表した、万物への慈しみと言う宗教的境地が感じられ、これは高山寺の明恵との交流の中で触発されて育まれたものと推察される。第3期は、東大寺講堂本像造立途中で亡くなるまで。この時期の京都・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の千手観音の巨像は、銘文から、湛慶最晩年の82歳の時に完成したことが知られる。三十三間堂の本尊の左右に林立する千体(正確には1,001体)千手観音立像中にも湛慶作の銘をもつものが数体ある。ここでの湛慶は、復興事業という性格から慶派特有の強さは抑制し、静けさの中に洗練された平安後期彫刻の再現を目指したようだ。この千手観音像における幾分平板な面相や整った姿に、次代の仏像における平俗化、技巧化、あるいは形式化の予兆を指摘する意見もある。湛慶死後、大仏師職は甥の康円が継いだとみられる。弟子に信慶。
※歴史をたどれば、時代に

「神仏霊場巡り」多賀大社・滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。祭神は 伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱

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「神仏霊場巡り」多賀大社・滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。祭神は 伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。式内社で、旧社格は官幣大社。当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。和銅五年(西暦712年)『古事記』の一部には「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と当社の記載がある。『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮を淡路の洲に構りて」とあり、淡路島に「幽宮」を構えたとされる。『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第五次遣隋使・第一次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。藤原忠平らによって延長五年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。 「二座」とあるため、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命二柱が祀られていたと分かる。なお、摂社で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭の三柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。
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『鎌倉・室町の群像伝』五十四”慈円“ 慈円(1155~1225)平安末から鎌倉初期の僧侶。諡号慈鎮。関白藤原忠通の男、

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『鎌倉・室町の群像伝』五十四”慈円“
慈円(1155~1225)平安末から鎌倉初期の僧侶。諡号慈鎮。関白藤原忠通の男、同母兄に九条兼実がいる。1165年青蓮院の覚快親王の室に入り、1167年に出家し、道快を名乗る。僧としての昇進は1178年法性寺座主、翌年無動寺検校を経て、関白九条兼実在職時の1192年天台座主・権僧正となり頂上を極めたが、1196年の政変(兼実の関白・氏長者罷免)により座主を辞任した。1201年以降も、九条家の朝廷における影響力の低下に対応して3度も座主になり、辞職と還捕を繰り返した。その間、後鳥羽院の護持僧となって歌壇で活躍するが、九条家の勢力を確保しつつ、幕府と公家の友好関係の樹立を模索した為に、院権力拡大を進める後鳥羽院と対立した。天皇と摂関による共同統治を理想とした慈円の政治思想「愚管抄」からすれば、院政は不健全な大勢だが、半面、九条家の枠内でしか政治を考えられない限界もあった。承久の乱の勃発で慈円の狙いは水の泡と帰し、4年後に世を去った。学僧として膨大な著作をもの氏、歌人としても知られている。

「浪速史跡巡り」大国主神社・所在地:大阪市浪速区敷津西1丁目 最寄駅:地下鉄御堂筋線「大国町」

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「浪速史跡巡り」大国主神社・所在地:大阪市浪速区敷津西1丁目
最寄駅:地下鉄御堂筋線「大国町」下車、②号出口上がるすぐ・当神社の縁起は、社伝によれば、神功皇后が三韓出兵の帰りに立ち寄り、この地に松を三本植えて、そこに素戔嗚尊を祀り、渡航安全を祈願したのが始まりとし、この松の木にちなみ「松本宮」と称したという。
 中世以降は牛頭、天王社、祇園社などの名が残り、明治初年の神仏分離令により「八坂神社」と改称されている。現在の社名となったのは明治20年代(1887~96年)である。
 この「敷津松之宮」は素盞鳴尊、大国主命、奇稲田姫命、事代主命、少彦名命とポピュラーな名前の神々が祀られている。
 「大阪七福神」の1つ『木津の大国さん』で知られる「大国主神社」は「敷津松之宮」の摂社である。 この大国主神社は江戸時代の1744年(延享元年)に出雲大社から勧請されたと伝えられ、毎年1月9日から11日には大国まつりが行なわれ賑わう。境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑がある。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

『戦後日本の あの日あの時』190「江田にビジョン」 昭和37年(1962)7月27日、社会党書記長江田三郎、党全国オルグ会議で「江田ビジョン」を発表

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『戦後日本の あの日あの時』190「江田にビジョン」
昭和37年(1962)7月27日、社会党書記長江田三郎、党全国オルグ会議で「江田ビジョン」を発表.(米の高い生活水準・ソ連の徹底した社会保証・英の議会民主主義・日本の平和憲法の4つの基盤にした新しい社会主義のイメージを打ち出す。)1946年に日本に引き揚げ、日本社会党に入党。左派の活動家として頭角を現す。1950年に参議院議員に初当選し、1951年の左右分裂後は左派社会党に属した。左派社会党時代、左派の日刊機関紙として「社会タイムス」を創刊し、自ら社会タイムス社の専務として経営に参画するが、経営陣がそろって経営の素人だった上に販売代金の回収がきちんと行なわれなかったことから、たちまち経営難に陥り、社会タイムス社は倒産した。この時、社会タイムス社の経営に引き入れた和田博雄が会社の借金の一部を背負う形となり、その後の和田との確執の原因になったと言われている[3]。1958年、委員長鈴木茂三郎のもとで社会党組織委員長となり、党組織の近代化や活動家の待遇改善に尽力し、若手活動家たちから絶大な信頼を得る。1960年には書記長に就任した。委員長浅沼稲次郎の暗殺事件後、委員長代行として1960年総選挙を指揮する。3党首テレビ討論会にも社会党代表として出演し、穏やかな口調が視聴者に好印象を与え、国民的な人気を得た。「江田ビジョン」と構造改革論。1960年総選挙の頃より、江田は構造改革論を社会党の路線の軸に据えようとした。これは、日本社会の改革を積み重ねることによって社会主義を実現しようとする穏健な考え方で、これまで権力獲得の過程が曖昧であった平和革命論を補強しようというものであった。しかし、労農派マルクス主義に拘泥する社会主義協会がこれに反発し、江田ら若手活動家たちの台頭を恐れた鈴木茂三郎・佐々木更三らも構造改革論反対を唱え始める。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

「西国観音三十三所巡り」宝厳寺”西国33番札所“・滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院。

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「西国観音三十三所巡り」宝厳寺”西国33番札所“・滋賀県長浜市の竹生島にある真言宗豊山派の寺院。山号を巌金山(がんこんさん)と称する。本尊は弁才天(観音堂本尊は千手観音)、開基は行基とされる。西国三十三所観音霊場の第三十番札所である。観音霊場であるとともに、弁才天信仰の聖地でもあり、日本三大弁才天の1つにも数えられている。琵琶湖の北端近くに浮かぶ竹生島に位置する。竹生島は周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルほどの小島で、島の周囲は南東部にある船着き場を除いてほとんどが急な断崖になっている。島には宝厳寺と都久夫須麻神社の他にはみやげ物店が数軒あるだけで、文字通り信仰の島である。現在は宝厳寺と都久夫須麻神社という「寺」と「神社」に分かれているが、このように区別されるようになったのは、明治時代初期の神仏分離令以降のことであり、竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていた。延喜式神名帳には、近江国浅井郡の社として都久夫須麻神社の名があり、祭神は浅井姫命(あざいひめのみこと)とされていた。浅井姫命は、浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する神ともいわれるが、平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視されるようになったようである。近世には宝厳寺は観音と弁才天の霊場として栄える一方で、都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化し、寺と神社の区別はなくなっていた。宝厳寺は奈良時代、聖武天皇の命により、僧・行基が開創したとされている。行基は出身地の河内国を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、行基が竹生島を訪れ、弁才天を祀ったのが起源とされているが、承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には、行基の来島は天平十年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したとある。当初は本業寺(ほんごうじ)、のちに竹生島大神宮寺と称し[1]、東大寺の支配下にあったが、平安時代前期、10世紀頃から近江国の他の多くの寺院同様、比叡山延暦寺の傘下に入り、天台寺院となった。以降、島は天台宗の僧の修行の場となった。また、平安時代末期頃からは観音と弁才天信仰の島として栄えた。中世以降、貞永元年(1232年)、享徳3年(1454年)、永禄元年(1558年)などに大火があったが、その都度復興している。永禄元年の大火後、慶長7年-8年(1602-1603年)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて伽藍を復興している。この際復興されたのが唐門、渡廊、観音堂、ならびに弁才天社(現・都久夫須麻神社本殿)である。唐門は豊国廟(京都東山にあった豊臣秀吉の霊廟)の唐門(極楽門ともいい、元は大坂城の極楽橋の唐破風造部分であった可能性が指摘されている)を移築したものであり、都久夫須麻神社本殿は豊国廟あるいは伏見城の日暮御殿を移築したものとされる。明治の神仏分離の際、時の政府は弁才天社を平安時代の『延喜式』に見える「都久夫須麻神社」という社名に変更することを強要し、仏教寺院としての宝厳寺は廃寺の危機を迎えるが、寺側は、弁才天は仏教の仏であると主張して譲らなかった。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

「神仏霊場巡り」水無瀬神宮・大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る

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少し大きい文字「神仏霊場巡り」水無瀬神宮・大阪府三島郡島本町にある神宮。旧社格は官幣大社。旧称は水無瀨宮。祭神は後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。創建は後鳥羽天皇の離宮水無瀬殿の跡に建立された。承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、仁治元年(1240年)、水無瀬信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。明応3年(1494年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀨宮の神号を奉じた。境内には、環境庁認定「名水百選」に選ばれた「離宮の水」がある。江戸時代まで仏式で祀られていたが、明治時代に神式に改められ、水無瀨宮に改称した。後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀した。明治6年(1873年)に官幣中社に、昭和14年(1939年)に官幣大社に列格し、水無瀬神宮と改称された。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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