「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

『浪速史跡めぐり』大阪護國神社・大阪府大阪市住之江区にある神社(護国神社)である。住之江公園

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『浪速史跡めぐり』大阪護國神社・大阪府大阪市住之江区にある神社(護国神社)である。住之江公園および住之江競艇場に隣接している。正面鳥居は大阪府で最大の鳥居である。大阪府では、明治四年(1871年)4月10日に創設された真田山陸軍墓地の敷地内に招魂社が創建されたのが最初である。しかし、招魂祭は、西南戦争後は陸軍の拠点である大坂城内で、明治一六年(1883年)以降は中之島に建立された明治紀念標前で、明治33年(1900年)以降は城東練兵場で行なわれていた。なお、正確な時期は不明であるが、真田山の招魂社は大正七年(1918年)までには廃絶されている。招魂祭が長らく社前で行われなくなっていたことや、支那事変(日中戦争)勃発後に英霊崇敬の機運が高まりを見せたことから、昭和十三年(1938年)に大阪府知事・大阪市長らが護国神社造営奉賛会を結成し、昭和十五年(1940年)5月4日に鎮座祭が行われた。ただし、人材・資材の不足のため正式な社殿の建築をする事が出来ず仮社殿での鎮座であった。その後に正式な社殿の造営を行う予定であったが、大東亜戦争(太平洋戦争)の激化や敗戦後の混乱により着工出来ないままであった。昭和三十五年(1960年)に造営奉賛会が結成され、昭和三十八年(1963年)春に社殿が竣工し、5月29日に遷座祭が行われた。敗戦後の一時期、GHQによる神道指令の影響下における存続対策として「浪速宮(なにわぐう)」と称していた。

※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

『鎌倉・室町の群像伝』五十三“北条時房“ 北条時房(1175~1240)鎌倉時代初期の武将。北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。鎌倉幕府初代連署。

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『鎌倉・室町の群像伝』五十三“北条時房“
北条時房(1175~1240)鎌倉時代初期の武将。北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。鎌倉幕府初代連署。文治5年(1189)、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連と名乗る。同年、奥州合戦に従軍。建久10年(1199)に源頼朝が死去し、頼家が第二代鎌倉殿になると、蹴鞠に堪能なことから側近として随従する。頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、北条氏一門のためのスパイの役割を果たしていたとも考えられる。建仁2年(1202)に時房と改名。時連から時房に改名した経緯について、平知康から「時連」の「連」は銭の単位を意味する「貫」を連想し印象が悪いと指摘され、この知康の発言を耳にした頼家から改名を提言されたという逸話がある。建仁3年(1203)の比企能員の変により頼家が追放されるが、時房はこれに連座せず北条氏一門として次第に重きをなすようになる。元久2年(1205)、畠山重忠の乱では兄の義時と共に重忠討伐に反対したが、時政の命により関戸の大将軍として出陣する。牧氏事件で時政が失脚すると、8月9日の臨時除目で叙爵し、遠江守に任じられる。同年9月21日に駿河守に遷任し、承元4年(1210)正月14日、武蔵守となる[2]。兄の義時は相模守であり、北条氏は兄弟で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。建暦3年(1213)、和田義盛が討伐された和田合戦にも従軍し、若宮大路で奮戦し武功を挙げ、戦後、その功績を賞され上総国飯富の荘園を拝領。建保7年(1219年)、源実朝が暗殺されると上洛し、朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還した。承久3年(1221)、承久の乱では、泰時とともに東海道を進軍して上洛。泰時同様京に留まり、初代六波羅探題南方となる。元仁元年(1224)に兄義時が死去すると先に鎌倉へ帰還した執権泰時の招聘で鎌倉に戻り、泰時を補佐するため請われて同年初代連署に就任する。延応2年(1240)死去。享年66。時房死去後の連署は1247年に甥北条重時が就任するまで空席となった。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる

『戦後日本の あの日あの時』189「昭和36年娯楽・世情」 ◎1月、キャノン、キャノネットを発売。EEカメラの普及のきっかけとなる。 ◎4月、上野園内に東京文化会館完成

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『戦後日本の あの日あの時』189「昭和36年娯楽・世情」
◎1月、キャノン、キャノネットを発売。EEカメラの普及のきっかけとなる。
◎4月、上野園内に東京文化会館完成。◎少年少女の睡眠薬遊び流行。(厚生省、11月に未成年者への睡眠薬の販売禁止。◎NHK朝の連続テレビ小説始まる。(第一回は獅子文六原作の「娘と私」。◎松下電器、初の国産燃料電池を完成。
◎6月、警視庁、交通情報センターを開設。
◎9月、日赤、愛の献血運動開始。◎住井すえ「橋の無い川・第一部を「部落」に連載開始。◎大鵬・柏戸横綱に昇進。柏鵬時代の開幕。◎トヨタ自動車販売、従業員の持ち家推進で住宅資金の積み立て・貸付制度開始(大企業の持ち家推進が進む)
◎10月、東京・大阪・名古屋の証券取引所、株式会社第二部が発足。
◎11月、アンナナプキン発売。
◎この年の話題、スキー客100万人突破、登山者224万人登り。◎レジャーブーム。◎シームレス・ストッキング。◎川崎病が発見される。◎ベビーブーム世代で高校入学難となる。
◎この年の流行語。レジャーブーム*『わかちゃゆいけどやめられない』『スーダラ節』植木等*不快指数【気象用語】この年の夏から使用される。*六本木続。*『地球は青かった』宇宙飛行士ガガーリン。)
◎この年の流行歌。「東京ドドンパ娘」渡辺マリ。*「銀座の恋の物語」石原裕次郎。*『君恋し』フランク永井。*「上を向いて歩こう」坂本九。*『王将』村田英雄。
◎この年の話題のテレビ番組。*『娘と私』『夢で逢いましょう』『シャン玉ホリデー』『七人の刑事』(初の一時間テレビ)「特別機動捜査隊」「アンタチャブル』『スチャラカ社員』「若い季節」(CM)「伊東に行くならハトや」(ハトやホテル)「トリスを飲んでハワイに行こう」(寿屋)
◎この年の小説。里見弴。「極楽とんぼ」*岩田一男。「英語に強くなる本」*小田実。「何でも見てやろう」*平凡社「国民百科事典」
◎この年の話題の映画。「名もなく貧しき美しく」松山善三・高峰秀子。小林桂樹。「赤穂浪士」東映、片岡千恵蔵・中村錦之助・月形龍之介。「不良少年」岩波映画、羽仁進む。「用心棒」黒澤明監督、三船敏郎。洋画。「ウエイトサイド物語」「草原の輝き」「夜と霧」「素晴らしき風船旅行」「地下鉄のザジ」
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる

「西国49薬師巡り」花山院・第21番・東光山・花山院菩提寺・真言宗・〒669-1505兵庫県三田市尼寺●花山法皇、終焉の地当山

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は白雉二年(六五一年)天竺より渡来したとされる法道仙人によって開かれたと伝えられています。ちなみに西国三十三カ所の二十五番清水寺と二十六番一乗寺も、法道仙人によって開かれています。法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、当山もその修行の聖地として開かれました。後に花山法皇(人皇第六十五代花山天皇)は、西国三十三カ所観音霊場巡礼をご再興の後、当山に錫を留められました。
眼のあたりには秀峰有馬富士を見、南には六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島までを一望におさめるゆうすい幽邃かんが閑雅の景色はいたく法皇の御感に召したのでしょう。この山こそ終生仏道修行に励む聖地として他に勝るものはなしと思い定められたのです。その御心は、御製に「名にしおう 我が世はここに尽くしてむ 仏の御国近きわたりに」(当山第二番の御詠歌)と詠まれたことが如実に物語っています。
そして寛弘五年(一〇〇八年)御年四十一歳でご崩御なされるまで、当地で仏道修行にご精進なされたのです。法皇亡き後、当山は花山法皇(花山院)の菩提を弔うお寺として、寺号を花山院菩提寺と称するようになりました。
法皇は後の人から西国三十三カ所観音霊場中興の祖として仰がれ、観音霊場を巡礼する人たちは、花山法皇への尊崇帰依の心を示すべく当山に参詣するのがその勤めとなり、薬師霊場であるこのお山が、西国三十三カ所観音霊場の番号外の札所となったのです。
なお麓には女官たちが花山法皇を慕い来たるも、その時代の出家僧の戒律では男女共に住むこと許されず、自らも尼僧となって生涯を過ごした女官たちの墓「十二尼妃の墓」があり、村の名前もにん尼じ寺村と称して哀史を今に伝えています。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

「京洛八社巡り」下御霊神社・、京都市中京区にある神社である。旧社格は府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。祭神は以下の八柱

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「京洛八社巡り」下御霊神社・、京都市中京区にある神社である。旧社格は府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。○吉備聖霊(吉備真備とされることも多いが、吉備真備は憤死した人ではないので、神社側は六座の神霊の和魂と解釈している)○崇道天皇(桓武天皇の皇太子、早良親王)○伊予親王(桓武天皇の皇子)○藤原大夫人(伊予親王の母、藤原吉子)○藤大夫(藤原広嗣)○橘大夫(橘逸勢)○文大夫(文屋宮田麻呂)○火雷天神(菅原道真とされることも多いが、神社の創建は道真が天神とされるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈している)●相殿に天中柱皇神・霊元天皇を祀る。これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来より京都御所の産土神として崇敬された。享保年間に霊元天皇の霊を配祀した。元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられる。後に新町出水に移され、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の都市整備にともない現在地に遷座した。なお、式内社研究家の志賀剛は延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)を当社に比定している。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

『浪速史跡めぐり』杭全神社・JR平野駅より東側に国道に面して杭全神社がある。神社の前が平野小学校でその前に「古河藩陣屋跡」

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『浪速史跡めぐり』杭全神社・JR平野駅より東側に国道に面して杭全神社がある。神社の前が平野小学校でその前に「古河藩陣屋跡」の碑があって平野荘は豊臣秀吉正室北政所の領地であった。 創建は平安時代の始め坂上広野麻呂の子の当道が領地としたところである。素戔鳴尊”第一殿“(国文)を氏神として祀ったのが始まりという。街中とは思えない静寂の中に荘厳な社殿があって”第二殿“(国文)建久元年熊野権現を勧進し、”第三殿(国文)に醍醐天皇の勅命により熊野三所権現を祀っている。この神社の神主は代々坂上家の一族七家が管理していたが明治の神仏分離例によって、寺院は長寶寺に移管された。この神社の行事は夏祭りの平野各地より繰り出す九台の地車「けんか祭り」と御田植え神事である。
また境内への参道に“古河藩陣屋跡”の碑がある。平野庄は北の政所の領地と
してその後江戸時代は下総古河藩主本多忠良に与えられて以来、松平、土井と変わっても明治まで古河藩領であったと言う。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

『鎌倉・室町の群像伝』五十一“承明門院” 承明門院(1171~1257)源 在子第82代後鳥羽天皇の妃で第83代土御門天皇の生母。

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『鎌倉・室町の群像伝』五十一“承明門院”
承明門院(1171~1257)源 在子第82代後鳥羽天皇の妃で第83代土御門天皇の生母。父は法勝寺執行能円で母は藤原範兼の女藤原範子[2]。源通親の養女。同母弟に久我通光、土御門定通、中院通方がいる。院号は承明門院で法名は真如妙。承安元年(1171)、能円と藤原範子との間に生まれる。父の能円は平清盛の正室(継室)平時子の異父弟であった関係から平氏政権では法勝寺の執行に任ぜられている。母の範子は高倉天皇の第四皇子の尊成親王(後の後鳥羽天皇)の乳母を務めた。寿永2年(1183)、平家が西国に落ちた際に能円が平家に同行したため範子は源通親と再婚した。後に通親は在子を養女にしている。この頃、通親の養女の在子は後鳥羽天皇の後宮に入った。建久6年(1195)8月に兼実の女で中宮の任子が昇子内親王を出産した。一方、同年12月には在子が為仁親王(後の土御門天皇)を出産した。将来、天皇の外祖父として実権を握る足掛かりを得た通親はこれを機に丹後局ら反兼実派の旧後白河側近と連携し兼実の失脚を謀った。兼実は関白の地位を追われ中宮任子は内裏から退出させられた。建久9年(1198)、後鳥羽天皇は為仁親王に譲位し院政を敷く。新帝土御門天皇の外祖父である通親は3年前に権大納言に昇任していたが、これを機に院庁別当を兼任することになった。在子は正治元年(1199)に従三位准三后に列せられ建仁2年(1202)には院号宣下を受け承明門院となる。なお、「美福門院の例」とは『古事談』で述べられている崇徳天皇が鳥羽天皇の実子ではなく崇徳の母待賢門院が鳥羽の祖父白河法皇と密通してできた子であり、それを知った鳥羽が美福門院を寵愛するようになった話である。しかし、在子の母範子が死去したのは正治2年(1200年)で、重子が順徳天皇を生んだのはその3年前の建久8年(1197)であり矛盾する。建仁2年(1202年)10月には通親が死去し、承元4年(1210年)11月には後鳥羽上皇の意向により土御門天皇が皇太弟守成親王に譲位した。建暦元年(1211年)12月、在子は出家した。承久3年(1221年)の承久の乱により、配流された後鳥羽・土御門の両上皇と生別。土御門上皇が承久の乱の前年に通親の孫娘通子との間に儲けた邦仁王(後の後嵯峨天皇)は在子の土御門殿で養育されている。承久の乱によって在子は実家が没落し苦しい生活を強いられた。仁治3年(1242年)、四条天皇の崩御により孫の邦仁王が践祚した。後半生は不遇であった在子であったが、晩年には孫の皇位継承を目の当たりにすることができた。正嘉元年7月5日(1257年8月15日)、87歳で死去した
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

『戦後日本の あの日あの時』188「昭和36年文化・芸術」 ◎1月1日、日本海側の豪雪で列車100本が立ち往生。乗客15万人に車内に越年。

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『戦後日本の あの日あの時』188「昭和36年文化・芸術」
◎1月1日、日本海側の豪雪で列車100本が立ち往生。乗客15万に車内に越年。
◎1月14日、横浜マリーンタワー完成。
◎1月18日、大逆事件生き残りの元被告坂本清馬、東京高裁に再審請求。
◎1月29日、平城宮官衙跡から初の紀年(天平宝宇6年)木簡発見。
◎2月1日、深沢七郎「風流夢譚」(中央公論)60年12月号)に腹を立て右翼の少年、中央公論社の社長の嶋中邸を襲い、家人2人を殺傷。
◎2月1日、東京都、本庁職員1万の始業寺5分間繰り下げ9時15分とする初の時間差出勤を実施。
◎2月19日、日本医師会(会長武見太郎)と日本歯科医師会(会長川村弘)医療費値上げ要求で一斉全国一日休診。
◎3月15日、重要文化財の日。日光・薬師堂(鳴き竜)焼失。
◎3月15日、有田八郎、三島由紀夫「宴のあと」をプライバシー侵害と告訴。
◎4月28日、沖縄・那覇で祖国復帰県民総決起大会開催。2万人参加。
◎6月12日、本田技研工業チーム、イギリスのマン島オートレースで125CC.250CCの両クラスに優勝。オートバイ輸出増加への道開く。
◎6月21日、厚生省、小児マヒの生ワクチン1300万人分、ソ連より緊急輸入を決定。
◎6月24日、本州各地に集中豪雨。死者357人。被害家屋43万戸。
◎6月24日、市川猿之助・中村歌右衛門ら歌舞伎団、訪ソ公演に出発。
◎7月31日、京都市電北野線(65年間走り続けた市電廃止)
◎8月1日、大阪、釜ヶ崎のドヤ街で暴動。2000人余りの群衆が警察官と衝突。
◎8月15日、第二室戸台風、瞬間最大風速84・5M以上は新記録。死者202人。被害家屋98万戸。
◎8月19日、日紡貝塚女子バレーボールチーム(監督大松博文)ヨーロッパ遠征に出発。
◎9月30日、愛知県用水完成(新幹線水路長112キロ総延長1135キロ)
◎10月12日、炭労、石炭政策転換を要求して東京でキャップランプラン・デモ。
◎10月15日、日紡貝塚女子バレーボールチーム24戦無敗で遠征より帰り「東洋の魔女」と言われる。
◎11月29日、児童扶養手当法公布。貧困母子家庭の子供一人に毎日8000円支給。
◎12月7日、にせ1000円札(秋田で発見343枚見つかる。)
◎12月21日、中央公論社『思想の科学』の「天皇制」の62年1月号を業務上の都合に販売中止。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる

「西国観音三十三所巡り」総持寺””西国22番札所“・本尊千手観音菩薩・高野山真言宗・

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「西国観音三十三所巡り」総持寺””西国22番札所“・本尊千手観音菩薩・高野山真言宗・大阪府茨木市総持寺・西国二十二番札所・寺伝によれば創建については五キロ東の淀川の関係の深い中納言藤原山蔭が、父高房が継母の命令で淀川に突き落とされた。高房は子の若君の姿を一目見たいと、観音菩薩にすがった所、死んだはずの若君が前日に助けた亀に乗って帰ってきたのである。高房は「尊像を刻み、伽藍を建立する」観音に約束をしたが、実現できないままに死んでしまった。子の山蔭は亡父の願いをかなえるために奔走し仁和二年(886)堂宇を建立したと伝える。以後の当寺は藤原山蔭一族が氏寺として維持してきた。平安時代には一条・後一条・白河・鳥羽天皇の勅願時となって、寺勢は上向き南北朝時代には広大な境内を持つ寺院になった。戦国時代には消失したが豊臣秀頼に再興された。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

「一ノ宮巡り」大鳥神社・大阪府堺市西区鳳北町・旧官幣大社 和泉国一ノ宮は大鳥神社である。 祭神は日本武尊と合わせ地域の豪族大鳥連祖神を祀っている。

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「一ノ宮巡り」大鳥神社・大阪府堺市西区鳳北町1の1の2・式内社・旧官幣大社
和泉国一ノ宮は大鳥神社である。
祭神は日本武尊と合わせ地域の豪族大鳥連祖神を祀っている。
社伝に依れば東夷征伐の帰途我に病蒙り、伊勢国は能褒野に於て薨去(こうきょ)され白鳥と化し当地に留まったという。
大鳥氏は『新撰姓氏録』に和泉国神別で大中臣朝臣と同祖、天児屋根命の後なりとある。大同元年(806)神封二戸が寄せられた。神階は『日本三代実録』貞観元年(861)従三位昇叙された。
その後『和泉国神名帳』には正一位とある。
『延喜式神名帳』では名神大社に列し、祈年、月次、新嘗の官幣、祈雨神祭に八五社に一として臨時奉幣に預かり和泉国一ノ宮として朝野の崇敬を受ける。
平清盛、重盛父子が熊野詣の帰途に当社に祈願をして和歌、神馬を奉納している。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も社領を寄進し社殿の造営を行なっている。
天正年間には戦火で社殿は焼失、慶長七年(1602)豊臣秀頼により再興された。德川綱吉は柳沢吉明に修繕をせしめた。
★『古事記』のヤマトタケル説話の日本武尊命を祭神としている。
元来は一豪族の祖神を主体に祀っていたが、日本武尊が征西し熊襲を平定、再びイズモタケルを征伐し、再度東征し、伊吹山で病に倒れて、伊勢国の能褒(のぼ)野(の)で死去する。
遺体はその地に葬られるが、陵墓から白鳥が飛び立ち、大和国の琴引原で留まり、再び河内国の古市舞い降り、最後に大鳥の池に舞い降りた古事に習って社殿を建てて祀った。
この白鳥の舞い降りた由来で日本武尊の祭神として祀ったようである。
しかし本来大鳥氏は中臣氏と同じく天児屋根命を祖神としていたので、一時天照大神を祭神として祀っていた経緯があるようである。
和泉国で唯一の神名大社になって、境内の面積も一万五百坪の広さで、大鳥氏が強力な豪族として大きな影響力を有し、武功の神として平清盛も戦勝祈願をしたと伝えられており、一ノ宮大鳥神社として形成されていった。
鎌倉期には大鳥美波比神社・大鳥鍬靫神社・大鳥井瀬神社・大鳥濱神社と共に「大鳥五社」を形成し、「大鳥荘」となる。中世では和泉国一ノ宮として国衙から崇敬を受けるが、その後大鳥氏に代わって田代氏が主導権を奪われ衰退する。
神仏習合の時代には別当寺に大鳥山勧学院神鳳寺の行基なども関与し、三重の塔が建立し栄えた。
織田信長などの寄進を受けるが、戦火で焼失し豊臣秀頼の社寺造営の籠を受けて、神鳳寺共に栄えるが明治の廃仏毀釈によって神鳳寺の五重の塔など破却され、末寺共々大鳥神社も衰退していった。
明治維新の社格制度で再び官幣大社として再建され、祭神も祭神考証の結果、大鳥連の祖神に変更された。
これには神社側の反発が有ったが内務省の通達で決定された。
神社側の意向に沿った日本武尊が加えられ祀られたのは、国家管理から離れた戦後の事だった。
本殿の造りも大鳥造りと言う。「切り妻造・妻入り社殿」と言う出雲大社に次ぎ古い形式を持つ古形式を保っている。神の妹と言われていることもあり、謎の多い神である。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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