史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『鎌倉・室町の群像伝』二十四“西行” 西行(1118~1190)平安末期から鎌倉初期の歌人。父は藤原氏北家藤成流、左衛門尉佐藤康清。

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『鎌倉・室町の群像伝』二十四“西行”
西行(1118~1190)平安末期から鎌倉初期の歌人。父は藤原氏北家藤成流、左衛門尉佐藤康清。母は監物源清経の娘。俗名佐藤義清。鳥羽院の北面武士を務めていたが、保延六年(1140)23歳で出家。法名円位。出家後しばらくは東山や嵯峨辺りに留まっていたが、初度陸奥への旅を終えたのち高野山に居を構えた。約20年の高野山修業時代には中国・四国地方に赴いている。高野山から伊勢に移住。その後、文治二年(1186)東大寺復興の為に砂金勧進を目的とて再度陸奥へ旅をした。無地旅を終えたのちには嵯峨の庵に居を構える。伊勢神宮に奉納するために「御裳濯河歌合」「宮河歌合」自歌合を編み、藤原俊成・定家に加判を依頼。建久元年(1190)2月16日、「願わくは花の下にて春しなむそのきさらぎの望月の頃」と言う生前の願い通り河内国弘川寺にて没した。西行の生涯はその詠歌は当時の人々に深い感銘を与えた。多大な影響力を及ぼした。その後、成立した「新古今和歌集」には最大の94首が選ばれた。その他の歌集にも多く撰集されている。
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『河内史跡巡り』顕証寺・大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。

顕証寺

『河内史跡巡り』顕証寺・大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。伝承によれば、久宝寺の地名は、飛鳥時代に聖徳太子が「久宝寺」を当地に創建したことに由来する。顕証寺西側の許麻神社(こまじんじゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃絶した。文明元年(1469年)、本願寺八世法主蓮如は、近江国近松(滋賀県大津市)に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は六男蓮淳に住持させた。これは後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。そのため、戦前まで近松別院は久宝寺村の顕証寺が法要を勤めていた。文明二年(1470年)、蓮如は河内国渋川郡を訪れて布教活動を始めた。当初は久宝寺にあった慈願寺を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした。しかし実順は永正15年(1518年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文十年(1541年)頃に顕証寺を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では顕証寺がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。その後の本願寺東西分裂の際も顕証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属した。

『戦後日本の あの日あの時』161「なべ底景気から岩戸景気へ」 ●昭和33年(1956)「なべ底景気から岩戸景気に」昭和32年(1957)から翌年にかけて起きたデフレーション現象。

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『戦後日本の あの日あの時』161「なべ底景気から岩戸景気へ」
●昭和33年(1956)「なべ底景気から岩戸景気に」昭和32年(1957)から翌年にかけて起きたデフレーション現象。「なべ底景気」「鍋底景気」とも呼ばれている。昭和29年から3年間続いた神武景気は国際収支の悪化によって急速に冷え込んだ。政府、日銀が国際収支改善の為に強力な金融引き締め策を取ったため、産業界は減益、減収、資金不足に陥り、操業短縮による在庫調整を行った。業種別には電力・陸運業など一部を除き全面的業績が低下、減配、無配になった企業が目立った。この不況について。神武景気における設備過剰による在庫急増によってもたらされた内需不振によるもので、長期間景気低迷は避けられないものとなった。日本の経済の成長基調が強いために不況は一時的なものとする「V字型論」の2説がとなえられたが、昭和33の経済白書は前者の「なべ底論」を採用し「不況は中華鍋の底をはうような形で長期化する」と言う見解を示した。この予想は外れ、国内消費は高まり政府が1958年以降、3回に渡って実施した公定歩合の引き下げによって岩戸景気に移行していった。岩戸景気は日本経済至上で1958年から1961年まで42カ月間続いた高度経済成長時代の好景気であった。※岩戸景気は、神武景気、イザナギ景気と代表となる好景気だった。神武景気を31カ月をしのぎ、神武天皇より遡って「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」として名付けられた。

「西国四十九薬師巡り」禅林寺・高野山真言宗 通称・幡川のお薬師さん・和歌山県海南市幡川・幡川のお薬師さんと呼ばれ、

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「西国四十九薬師巡り」禅林寺・高野山真言宗 通称・幡川のお薬師さん・和歌山県海南市幡川・幡川のお薬師さんと呼ばれ、広く人々に親まれている。二百五十年以上前の天平時代、唐にあった青龍寺の僧「い為こう光上人」が、聖武天皇よりこの地をいただき、同天皇の勅願所として建立されたのが始まりである。中世の頃には「はた幡がわ川でら寺」とも呼ばれ、谷あいに七堂伽藍をはじめ、僧坊十二院・御社三社・承仕坊三院が立ち並ぶ精舎でした。しかし建武以前に金堂をはじめ寺庫までも火災にあい焼失し、さらに再興された後も、天正十三年(一五八五)に豊臣秀吉の南征による兵火のため再びことごとく焼失し、広大な寺領もすべて没収されました。諸堂の名残は地名として今なお残っている。その後、当寺は塔頭寺院の一つであった中之坊の秀慶法印により再興されました。秀慶法印は、兵火により一字も残さず堂宇が焼失したのを憂いて、慶長二年(一五九七)に日向国の仏師士賢に命じて木造の薬師如来像を造立し、京の仏師高慶に命じて、ご本尊の身体の部分を補作させて安置した。現在の本堂は天保三年(一八三一)、鐘楼堂は宝暦四年(一七五四)に再建されたものである。本尊の薬師如来(三十三年に一度開帳される秘仏。和歌山県文化財指定)は、開山の為光上人が青龍寺より招来した七仏の内の一体と伝えられています。天平時代の仏様で、西国薬師霊場会唯一の「そ塑ぞう像技法」で造られた如来様です。昔から眼病、その他の病にご利益があり、お薬師様の「わが名号を一たび耳に聞くとき願いとどけん」とのご請願通り、今日に至るまで多くの人々が救われている。

「神仏霊場巡り」八坂神社・京都府京都市東山区祇園町にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社。主祭神・中御座:素戔嗚尊・東御座:櫛稲田姫命 - 素戔嗚尊の妻

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「神仏霊場巡り」八坂神社・京都府京都市東山区祇園町にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社。主祭神・中御座:素戔嗚尊・東御座:櫛稲田姫命 - 素戔嗚尊の妻・西御座:八柱御子神- 素戔嗚尊の八人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称・全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする約二千三百社の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。七月の祇園祭で知られる。元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応四年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改められた。配神・ 神大市比売命、佐美良比売命 - いずれも素戔嗚尊の妻・ 稲田宮主須賀之八耳神/・牛頭天王は起源不詳の習合神で祇園精舎を守護するとされ、日本では素戔嗚尊と同神とされていた。頗梨采女は牛頭天王の后神であることから素戔嗚の后である櫛稲田姫命と同一視された。櫛稲田姫命は方角の吉方(恵方)を司る歳徳神(としとくしん)と同一と見なされていた事もあり暦神としても信仰された。八王子は牛頭天王の八人の王子であり、暦神の八将神に比定された。また、東御座には社伝に明確な記述が無い蛇毒気神(だどくけのかみ)が祭られている。この神は沙渇羅龍王の娘で今御前と呼ばれる。または、ヤマタノオロチが変化したものとも考えられている。社伝によれば、斉明天皇二年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。貞観十八年(876年) 僧・円如が播磨国広峯の牛頭天王の分霊を遷し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と称した延長四年(926年) ある修行僧が祇園天神堂を建てた承平四年(934年) 祇園感神院を建てた創建については諸説あるが、祭神は古くから牛頭天王であったことは確実である。

「遺跡探訪」一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にあった戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。

朝倉遺跡1
「遺跡探訪」一乗谷朝倉氏遺跡は、福井県福井市城戸ノ内町にあった戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。遺跡全体が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。福井市街の東南約10キロメートル、九頭竜川水系足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あいに築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。また、三国湊に続く足羽川の水運や大野盆地に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と連絡した。一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国四代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口一万人を超え、越前の中心地として栄えていた。1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄十年)には戦国五代朝倉義景が足利義秋(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義秋を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。1573年(天正元年)刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。

『鎌倉・室町の群像』二十三“源実朝” 源実朝(1192~1203)鎌倉幕府の三代将軍。建仁三年(1203)から六年在職。源頼朝の次男。母は北条政子、。

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『鎌倉・室町の群像』二十三“源実朝”
源実朝(1192~1203)鎌倉幕府の三代将軍。建仁三年(1203)から六年在職。源頼朝の次男。母は北条政子、。幼名を千幡。建仁三年(1203)北条政時は征夷大将軍源頼家を廃止、弟の千幡を鎌倉殿に立てて自らは執権を執った。後鳥羽上皇は千幡を実朝と命名。征夷大将軍に任じた。公武の融和を図るために上皇は元久元年(1204)近臣坊門信清の娘を鎌倉に下し実朝の妻とした。当時上皇は和歌に熱中していたが、実朝も歌道に励み、藤原定価の指導を受けたりした。1205年時政の妻で牧の方が実朝を殺し、娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとした。政子と弟の義時は実朝を守り、時政を伊豆に追い、義時が執権となり政子を助けて幕政を運営した。上皇は実朝との友好関係を通じて地頭の個別的停止を求めるなど、幕府の制御を企てたが、義時はこれらに反発し、実権を持たない実朝は上皇と義時らと板挟みになって苦しむ、ついには上皇と実朝との間に不信が募っていった。健保六年(1218)になり、実朝の官位が異様に昇進し、短期間に権中納言、左中将から権大納言、内大臣を経て右大臣に至った。上皇が官職に果報負けした実朝の破壊を期待した結果だった。1219年右大臣拝賀の為に鶴岡八幡宮に参詣した際、実朝は頼家の遺子公暁に殺された。実朝の死によって上皇は幕府との妥協を断念し、公武融和路線を捨てて、幕府打倒に企てるようになった。

『戦後日本の あの日あの時』160「北朝鮮帰国」 ●昭和34年(1959)8月13日、日本、北朝鮮赤十字代表

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『戦後日本の あの日あの時』160「北朝鮮帰国」
●昭和34年(1959)8月13日、日本、北朝鮮赤十字代表、在日朝鮮人の北朝鮮帰国に関する協定を調印。12月14日、帰国1船、新潟を出港。国交のなかった日本と北朝鮮とは北朝鮮への帰国希望者の窓口は日本赤十字社と朝鮮赤十字社によって実務が行われた。1959年12月14日に最初の帰国船が新潟県新潟港から出港し、数度の中断を含みながら行われた。1984年まで93、340人が北朝鮮に渡った。その内少なくとも6、839人は日本人妻や子と言った日本国籍保有者であった。在日朝鮮人は日本から近い朝鮮半島の南部の出身者が多かった。北朝鮮は帰国船の費用は負担し、事業の後期には万景峰号(初代)が使用された。日朝間の帰国船の往来には頻繁に北朝鮮から朝鮮総連関係者、日本へ、韓国へ工作員も送られた。在日朝鮮人は、朝鮮半島の日本が統治時代に様々な事情で日本国本土に移った。韓国政府の虐殺を逃れるためや、戦後の出稼ぎや朝鮮戦争勃発に自ら蜜入国した人も少なくない。そうした人々の中に、そのまま日本に居留した人もあれば朝鮮戦争特需で恩恵を甘受した人もあれば、依然として困窮する者もいた。特に1956年の生活保護の削減と、1957年から翌年にかけて、なべ底景気が貧困層を直撃していった。在日朝鮮人の間で、朝鮮戦争の荒廃から復興が進まず、政情不安を理由に、韓国への帰国不安視する一方で、社会主義体制のもとで千里馬運動による急速な復興を実現した北朝鮮への憧れと、北朝鮮の「地上の楽園」の宣伝に促されて帰国を希望した人が多くいた。実際に状況は悲劇的環境に多くの人々は嘆き悲しみ、日本への帰国を希望し、脱北した人も多くいた。現在の北朝鮮の拉致被害者の禍根の原因ともなっている。

「奈良古社寺巡り」聖林寺・奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。

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「奈良古社寺巡り」聖林寺・奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は霊園山、本尊は地蔵菩薩、開基は定慧とされる。国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下ろす小高い位置にある。伝承では和銅五年(712年)に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。妙楽寺の後身である談山神社は当寺のはるか南方の山中に位置する。聖林寺の近世までの歴史は不明の部分が多いが、江戸時代には性亮玄心が三輪山平等寺の遍照院を移して再興したという。江戸中期には文春諦玄により現在の本尊・子安延命地蔵菩薩像が安置された。明治の神仏分離令の際に、三輪明神(大神神社)神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管された。

>「奈良古社寺巡り」手向山八幡宮・祭神応神天皇・比売大神・仲哀天皇・神功皇后で宇佐八幡宮と同じである。奈良市は東大寺の大仏殿の道を東の手向山麓

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「奈良古社寺巡り」手向山八幡宮・祭神応神天皇・比売大神・仲哀天皇・神功皇后で宇佐八幡宮と同じである。奈良市は東大寺の大仏殿の道を東の手向山麓に位置し、手向山神社ともいう。天平勝宝元年(749)東大寺造立に当たって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。八幡宮分社では第一号である。当初は平城京の南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿の南方に鏡池付近に遷座したが、治承4年(1180)の平重衡の南都焼き討ちで焼失し、慶長二年(1250)北条時頼が現在地に再建した。明治の神仏分離令までは東大寺に属し、鎮守社とされてきた。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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