「温故知新」        川村一彦

歴史は語る。

『河内史跡巡り』大聖勝軍寺・大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山。開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。

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『河内史跡巡り』大聖勝軍寺・大阪府八尾市の旧奈良街道に面して建つ高野山真言宗の仏教寺院。山号は神妙椋樹山。開基は聖徳太子、本尊は植髪太子(聖徳太子)である。 聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺の「上の太子」、野中寺の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。地元では単に「太子堂」と呼ばれている。由来については用明天皇の御代に排仏派と崇仏派が戦った古戦場であった。大聖勝軍寺は戦勝記念の寺である。587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が建立された。594年、推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建年とされる。756年、聖武上皇から鎮護国家寺の称号を贈られ、勅願寺に定められる。

『戦後日本の あの日あの時』159「日米安保条約改定阻止国民会議」 ●昭和34年(1959)3月28日、日米安保条約改定阻止国民会議が社会党、原水協、総評などで結成。

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『戦後日本の あの日あの時』159「日米安保条約改定阻止国民会議」
●昭和34年(1959)3月28日、日米安保条約改定阻止国民会議が社会党、原水協、総評などで結成。これらの諸要因は,岸内閣の安保条約改定交渉の開始を契機にいわゆる安保闘争が発展する基礎をなした。1959年3月,総評,社会党をはじめ諸社会団体によって日米安保条約改定阻止国民会議が結成され,4月15日の第1次統一行動を皮切りに60年10月の第23次統一行動まで持続的に国民運動を組織・指導する役割を果たし,全国で2000余にのぼる地域共闘組織に支えられてデモや国会請願運動を展開した。60年5月19日,安保条約案の批准が自民党の単独採決で強行されると,安保条約賛成者までが議会制民主主義擁護のために国会請願に加わり,運動は空前の規模に達し,労働者の政治ストも行われた。…※「日米安保条約改定阻止国民会議」について世界大百科事典より

「京都古社寺探訪」南禅寺・京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺である。

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「京都古社寺探訪」南禅寺・京都市左京区南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺である。本尊は釈迦如来、開基は亀山法皇、開山は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。亀山上皇は正応二年(1289年)、四十歳の時に落飾して法皇となった。二年後の正応四年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時八十歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾に師事した後、四〇歳で宋に留学、十年以上も修行した後、弘長二年(1262年)帰国。七十歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死にをうけて弘安三年(1281年)に東福寺の住持となった。その十年後の正応四年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円が指揮し、永仁七年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。正中二年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、至徳三年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。室町時代には旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題に発展、管領の細川頼之が調停に乗り出している。明徳四年(1393年)と文安四年(1447年)に火災に見舞われ、主要伽藍を焼失したがほどなく再建。しかし応仁元年(1467年)の乱(応仁の乱)における市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になって慶長十年(1605年)以心崇伝が入寺してからである。崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。また、幕府から「僧録」という地位を与えられた。これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。

「京都古社寺探訪」由岐神社・京都市左京区鞍馬本町にある神社である。鞍馬寺の鎮守社である。通称靫明神・祭神は大己貴命と少彦名命を主祭神として「由岐大明神」

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「京都古社寺探訪」由岐神社・京都市左京区鞍馬本町にある神社である。鞍馬寺の鎮守社である。通称靫明神・祭神は大己貴命と少彦名命を主祭神として「由岐大明神」と総称し、八所大明神を相殿に祀る。祭神は元は宮中に祀られていたが、都で大地震・天慶の乱が起き、当時の天皇である朱雀天皇の勅により、天慶三年(940年)、鞍馬の地に遷宮をし、北方鎮護を仰せつかった。例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。「靫明神」という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて平穏を祈ったことによる。洛中の五条天神社は、国難時にその責任を取って「流罪に処す」として国の役人が神社の扉に靫を架けて閉じるということが行われていたが、『徒然草』によれば由岐神社でも同様のことが行われていたという。由岐神社と五條天神宮は祭神が同じである。本殿と拝殿は、豊臣秀頼により再建。

『河内史跡巡り』長栄寺・近鉄永和駅下車北すぐの長栄寺の寺伝によると、聖徳太子が自ら本尊の十一面観世音菩薩を刻み安置、

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『河内史跡巡り』長栄寺・近鉄永和駅下車北すぐの長栄寺の寺伝によると、聖徳太子が自ら本尊の十一面観世音菩薩を刻み安置、百済系渡来僧の入法をもって開山・創建とし、山号は百済山と称する。本堂(吉祥伝)は慈雲尊者が38歳の時に造営。本尊の十一面観音は平安時代後期の作品で府文化財に指定されている(秘仏)。
  その後、中世の幾度もの戦火で荒廃したが、江戸中期の1744年(延享元年)正法律(真言律)中興の高僧慈雲尊者が再興、当寺をその道場としたが、1825年(文政8年)正月、本堂が全焼し、同年に再建されている。慈雲尊者:江戸時代の後期、大阪が生んだ真言宗の高僧で、その徳行・教化・学問いずれも面でもわが国の仏教史上稀有の偉人であると称えられている。
1718年(享保3年)大阪中之島、高松藩蔵屋敷に生まれる。13歳にて父を失い、母の進めに従い田辺の法楽寺にて出家。その後河内・野中寺で修行。22歳で法楽寺住職となる。27歳から41歳の春まで、当山に住し、以後、当山が慈雲の活動の拠点となっている。59歳にて葛城山中の高貴寺に隠棲。1804年(文化元年)87歳、京都阿弥陀寺にて遷化。代表的著書に『十善法語』、『方服図儀』、『梵学律梁』などがある。山門では石の仁王さんが出迎えてくれる。長栄寺の境内全体が1971年(昭和46年)3月、大阪府の文化財保護条例により史跡に指定されている。

「鎌倉・室町の群像伝』二十一曾我兄弟 曾我兄弟・曾我祐成(1172~1193)曾我時致(1174~1193)鎌倉初期の武士。伊豆国の武士河津裕通・祐泰の子。

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「鎌倉・室町の群像伝』二十一曾我兄弟
曾我兄弟・曾我祐成(1172~1193)曾我時致(1174~1193)鎌倉初期の武士。伊豆国の武士河津裕通・祐泰の子。祖父伊東祐親と工藤祐経と所領争いで、安元二年(1176)父を祐経に暗殺された。母がその後、相模国に武士曾我祐信に再婚したために、曾我の里で育った。兄の十郎祐成1190年に元服、弟の五郎時致は1190年に北条時政の烏帽子親として元服。1193年5月に源頼朝が富士の巻狩を行った際に、親の敵で頼朝の籠臣となっていた工藤祐経を討ち取った。しかし祐成りは仁田忠常に打ち取られたために時致は祖父祐親の敵頼朝の宿所をめがけて突進したところ生け捕りにされ、後に処刑された。この敵討の背後に、北条時政が兄弟を操り頼朝の一命をねらったする見解もある。兄弟の敵討は「曾我物語」などにより流布したが、祐成の愛人大磯の遊女虎を名乗る歩き巫女によって「曾我物語」が語られたとする見解がある。
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『戦後日本の あの日あの時』158「昭和33年娯楽・世情」 ◎1月、富士重工設計・製作の国産初のジェット。 ◎2月、若乃花、横綱に昇進/日劇この頃ロカビリー大流行。◎初のバレンタイン用のチョコを発売。 ◎3月、神宮外苑に国立競技場落成。 ◎4月、ニッポン放送。 ◎5月、テレビ受信機契約数100万台突破。 ◎7月、大相撲、6場所制に

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『戦後日本の あの日あの時』158「昭和33年娯楽・世情」
◎1月、富士重工設計・製作の国産初のジェット練習機T1が初飛行。
◎2月、若乃花、横綱に昇進(栃若時代)◎日劇でウエスタン・カーニバル。この頃ロカビリー大流行。◎メリーチョコレート、初のバレンタイン用のチョコを発売。
◎3月、神宮外苑に国立競技場落成。
◎4月、ニッポン放送。交通ニュース放送開始。
◎5月、テレビ受信機契約数100万台突破。
◎7月、大相撲、6場所制に◎「週刊朝日」、特集「新しき庶民ダンチ族」を掲載。
◎9月、日本初の貸しオムツ会社登場(料金10枚20円)
◎10月、長嶋茂雄(巨人)新人王。◎西鉄日本シリーズで三連敗に4連勝。(稲尾和久大活躍3年連続破る。)◎東京放送、橋本忍作「私は貝になりたい」を放映、大反響を呼ぶ。
◎11月、「戦艦ポチョムキン」上映促進会結成。
◎12月、1万円札発行。◎「主婦の店ダイエー」が神戸三宮に開店。
◎この年の話題。「週刊明星」「週刊女性自身」創刊。◎映画館入場者数延べ11億人突破。(入場者数ピークに達する)◎農薬の毒性が問題となる。中性洗剤が盛んにつかわれる。◎電気釜、電気こたつ人気。◎ミッチーブーム。◎フラフープ大流行。◎8ミリ映写機人気。
◎流行語、活かす。(石原裕次郎が映画で使用)。◎ハイテイーン、ローテーン、◎しびれる。◎ダンチ族。◎ながら族。◎ご清潔に。ご誠実で。(美智子妃が結婚発表の皇太子への印象評した言葉)◎神様仏様、稲尾様」
◎流行歌。「だから言ったじゃないの」松山恵子。◎「おーい中村君」若原一郎。「からたち日記」島倉千代子。◎「星は何でも知っている」「ダイアナ」平尾正章。「母さんの歌」
◎テレビ。「バス通り裏」「事件記者」「光子の窓」「月光仮面」(国産テレビ映画製作の口火を切る)CM「のり平の国定忠治」(桃屋)「リボンちゃん、ハーイ」日本麦酒。
◎小説。山本周五郎「樅の木は残った」◎松本清張「点と線」(推理小説ブーム火付け役)◎石川達三「人間の壁」◎遠藤周作「海と毒薬」◎高見順「昭和文学盛衰記」◎坂本末子「にあんちゃん」
◎映画。楢山節考」松竹、田中絹代。◎「炎上」市川崑監督、市川雷蔵。◎「駅前旅館」森繁久彌。伴淳三郎。◎「張り込み」松竹、大木実。◎洋画、「死刑台のエレベーター」「鉄道員」老人と海」「大いなる西部」「十戒」

「近畿三十六不動巡り」大龍寺は、兵庫県神戸市中央区神戸港地方再度山にある仏教寺院。山号は再度山。東寺真言宗別格本山。通称、中風除けの寺。寺伝によれば、神護景雲二年(768年)、和気清麻呂によって再度山

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「近畿三十六不動巡り」大龍寺は、兵庫県神戸市中央区神戸港地方再度山にある仏教寺院。山号は再度山。東寺真言宗別格本山。通称、中風除けの寺。寺伝によれば、神護景雲二年(768年)、和気清麻呂によって再度山(摩尼山)山頂近くの南斜面に開かれたとされる。山号は空海が大輪田泊から唐に渡る直前と帰国直後の2度、当寺に参詣したことに由来するという。奥の院には空海作と伝わる「亀の岩」があり、空海が登山した道は大師道と呼ばれ、空海の修行地である現在の再度山公園には修法ヶ原の地名が残る。14世紀前半は赤松則村の多々部城の構成要素であったために度々戦火を受け衰亡したが、観応年間(1350年〜1352年)、善妙上人による中興が行われ、堂宇が再建される。 現在の伽藍は江戸時代初期以降に再興されたものである。森林に映える朱塗りの大きな山門はランドマークになっており六甲全山のハイキングコースなどにも取り入れられることがあるため、登山家もたびたびおとずれる。

「神仏霊場巡り」長田神社・兵庫県神戸市長田区長田町に位置する神社。旧社格は官幣中社。廣田神社、生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされる。

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「神仏霊場巡り」長田神社・兵庫県神戸市長田区長田町に位置する神社。旧社格は官幣中社。廣田神社、生田神社とともに神功皇后以来の歴史を持つ名社とされる。生田神社、湊川神社と共に神戸を代表する神社の一つ。主祭神は事代主神。本殿瑞垣内に天照大御神、応神天皇を祀る。『日本書紀』によると、神功皇后摂政元年)2月、神宮皇后が三韓征服後、新羅より帰還中、難波に帰還する途中、武庫の水門で船が進まなくなったので卜ったところ、事代主の神より「吾を長田國に祀れ」と神託を受け、創祀されたという。 この由緒から、2001年(平成13年)には鎮座1,800年を祝った。太古から長田神社と呼ばれていたが、長田社、長田宮、長田大明神、摂津本宮長田大明神とも呼ばれていた。延喜式神名帳では名神大社、更に祈雨八十五座に列され、社に奉祀する神戸(かんべ)41戸によって護持されていた。現在まで続く「神戸(こうべ)」の地名は、この神戸職に由来している。近代社格制度のもとで1871年(明治4年)に県社に列格し、その後1885年(明治18年)に明治天皇の西国巡幸の際、初めて官幣社に列し官幣小社に、1896年(明治29年)には官幣中社に昇格した。なお、社格昇格の経緯は同じ神戸市内の生田神社と同様・同時である。
                

『河内史跡巡り』元善光寺・当山は不断山善光寺として一光三尊の阿弥陀如来を本尊としている。元善光寺とも呼ばれている。

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『河内史跡巡り』元善光寺・当山は不断山善光寺として一光三尊の阿弥陀如来を本尊としている。元善光寺とも呼ばれている。本田善光が難波の堀江で阿弥陀如来を会得し信濃に帰る途中ここに一泊し、その分身を祀り、庵を建て、翌年再び訪れて当山を建立したという。全国元・新善光寺の中で唯一融通念仏宗である。本田善光については欽明天皇の御代に百済より仏教とともに、一光三尊阿弥陀如来が伝わった。仏教を導入に崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の争いで如来仏は難波の堀に捨てられたものを、本田善光が仏像を持ち帰ったことに始まる。元善光寺の伝説には信州に帰る途中にこの地に寄ったと伝えから由来が始まった。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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