史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

「一ノ宮巡り」備後国一ノ宮・吉備津神社・祭神吉備津彦命 広島県福山市新市町宮内400・旧国弊小社

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「一ノ宮巡り」備後国一ノ宮・吉備津神社・祭神吉備津彦命
広島県福山市新市町宮内400・旧国弊小社
祭神は大吉備津彦命で第七代孝霊天皇の第三子、四将軍の一人として山陽道に派遣され吉備を平定した。
相殿には大日本根子彦太瓊命・父孝霊天皇・細比売命(孝霊天皇の皇后)、稚武吉備津彦命(大吉備津彦命の弟)この神社は備中一ノ宮から分祀されたものと思われる。
伝承に依れば吉備国が三国に分国された際に大同元年(806)に吉備国一ノ宮から勧請された。
この神社は『延喜式』に記載されていないので、実際の創建はもっと後年であろうと思われている。
長和三年(1014)には神仏習合の時代背景もあって褞日と言う修行僧が社前四方利益のやめの法華八講を行なった。この時代、神祇官に年貢を納める慣例になっていて、その点で中央に良く知られていた。
後白河天皇の歓喜元年(1229)に起った社殿焼失事件が「百錬抄」に記載されていたりする。
武門の時代になっても深く崇敬され社領を寄進され、強力な神人を従えて、時として近隣の豪族と衝突することが有った。
貞和二年(1346)高師泰が守護佐々布次郎に吉備津神社の神人の横暴を止めるべく命令を下している。
室町時代には神仏習合の影響で僧持範によって三重塔が建立されて、天文九年(1540)には八尾城主によって梵鐘が寄進された。
慶長五年(1600)には福島正則によって、元和五年(16199)には水野勝成によって社領が寄進された。
★祭神の大吉備津彦命は『記紀』ともキビツヒコで表記は『日本書紀』彦五十狭芹彦命・吉備津彦命で『古事記』では比古伊佐勢理毗古命・大吉備津日子命となっている。
第七代孝霊天皇の夜麻登登母母曾毗命の間に生まれた御子である。『古事記』では孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命と共に四将軍の一人として派遣されたとし、播磨(針間)の氷川之前に忌瓮をすえ播磨の道を平定された。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。
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「一ノ宮巡り」丹波国一ノ宮・出雲大神宮・祭神大国主命・三穂津姫尊 京都府亀岡市千歳町千歳出雲・

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「一ノ宮巡り」丹波国一ノ宮・出雲大神宮・祭神大国主命・三穂津姫尊
京都府亀岡市千歳町千歳出雲・式内社・旧国弊中社・京都府亀岡市にある神社で別称は元出雲・千年宮とも言われ、「大八洲国国祖神社」と言った。亀岡盆地の東に立つ御蔭山の山麓に鎮座し御蔭山を御神体とする。「元出雲」の別称は、出雲大社は当社からの分霊とする説に由来をする。今現在の出雲大社は明治時代まで杵築大社と呼ばれていた。江戸時代末までは出雲神社と言えば当社を指した。社伝によれば和銅二年(709)社殿が建てられたとする。『記紀』によれば国譲りの神事が行われたと云うが丹波国は出雲、大和の中間点にあって勢力の接点があって、国譲り由縁で祀られた。境内に横穴式石室や後期古墳や付近に丹波最大の前方後円墳が有り、古くより先住し土着した氏族の崇敬した御神体と考えられる。『続日本後記』『三代実録』には神階は正応五年(1292)正一位の叙せられた。寿永三年(1184)源頼朝は院宣によって玉井四郎資重の乱行を停止させた。当時は丹波国一ノ宮として、蓮華王院の御領として平安から鎌倉期にかけて相当の社勢を誇ったものとみられる。北条泰時は神領安堵を下知し、足利尊氏は貞和元年(1345)社殿を修理、修補をしている。★祭神大己貴神は『古事記』には大国主神として最も多く登場する神ので国津神の代表格である。出雲国の主神、スサノオ神の子とも六世の孫とも言われ、少彦名神と共に協力して葦津中国を開き平定した。説話の大黒さんとして、医薬の道などを教え、国土を天孫ニニギ神に譲って杵築の地に隠退、出雲大社に祀られている。説話に因幡の白兎が有名である。三穂津姫は日本神話に登場する神である。高皇産霊尊の娘で、大国主神の后。『日本書紀』の葦原中国平定の場面のみ登場する。高皇産霊尊が大物主神にたいして「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫に為にお譲りせよ」と詔した。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「一ノ宮巡り」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神 兵庫県宍粟市一宮町須行名407・式内社・旧国弊中社

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「一ノ宮巡り」播磨国一ノ宮・伊和神社・祭神大己貴神
兵庫県宍粟市一宮町須行名407・式内社・旧国弊中社
兵庫県は宍粟市ある播磨国一宮伊和神社の主祭神は大己貴神である。
播磨の神と大己貴神とは同一神と見なせる。配神に少彦名神・下照姫神で主祭神の大己貴神は出雲国から来たと言う。
「伊和」の語源については「神酒」から或いは「於和」の国造りが終わったと言う意味からと言われている。
創建については欽明天皇の御世の創建と伝える。『延喜式』には「伊和坐大名持魂神社」とあり、正暦二年(991)正一位の神階に叙せられている。
播磨国一ノ宮とされ、幾度か火災に見舞われ焼失の度に朝廷に国司、守護職赤松氏、近隣の藩主などの庇護を受けて再建された。
また地元の豪族に伊和恒郷に大己貴神から「我れ祀れ」の神託が有った。恒郷は西の野で一夜に木々が群生し。大きな白鶴が二羽が石の上に北向きに眠っていたのを見て、そこに北向きの社殿を造営した。鶴石は本殿裏に祀られた。
★この社の祭神は大己貴神、配神は少彦名神・下照姫神は『古事記』ではこの様に記されている。
大己貴神は諸国を平定国造りしていた所、波間に天の船に乗り、蛾の皮の被服を着て近づく小さな神がいた。
名も聞いても答えず、諸神に聞いても分らず、ヒキガエルが案山子に聞けば知っている。そこで案山子に聞くと「神産巣日神の御子の少名毗古那神(古事記)と分かった」そこで大己貴神が神産巣日神に質すと、確かに自分の子で手からこぼれ落ちた子であると言う。
そこで大己貴神と兄弟の契りを結んで国を造り固めよと言った。そこで少彦名神も一緒に国造りを助けたが、少彦名神は途中で常世の世界に行ってしまった。そこで大己貴神は最後まで国造りを終えた時に天津神の天孫から国を譲るように求められた。
国譲りに応じて条件として「我が住むところに、皇孫の住処のように太く深い柱で、千木が空高くまで届くような立派な宮殿を造り頂ければ、そこにお隠れしよう」これに従い出雲の「多芸志の浜」に天之御舎を造った。
★祭神の大己貴命は『古事記』に出てくる大己(おおなむ)貴(ぢ)命は多くの名前を持つ大国主神の事で・大穴牟遅(おおなむぢ)神・大穴基持(おおあなもとも)神・大汝(おほなむち)命・大名持(おおなもち)神・八千代(やちよほこ)神・葦原醜男・葦原色許男(あしはらしこを)神・大物(おおもの)主(ぬし)神・大国(おおくに)魂(たま)大神・伊和(いわ)大神(おおかみ)・杵築(きつき)大神(おおかみ)などがある。※HP『川村一彦の歴史館』フェスブック「史跡探訪の会」もよろしく。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・伊太祁神社・祭神五十猛命(大屋毗古神) 和歌山県和歌山市伊太祈曽558・式内社・旧官幣中社

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「一ノ宮巡り」紀伊国一ノ宮・伊太祁神社・祭神五十猛命(大屋毗古神)
和歌山県和歌山市伊太祈曽558・式内社・旧官幣中社
祭神は五十猛(いたけるの)命(みこと)・脇宮大屋都比売(おおやつひめの)命(みこと)(妹神)・脇宮都麻津比売(とまつひめの)命(みこと)(妹)で何れもスサノヲの子神である。
創建についての初見は『続日本紀』の文武天皇の大宝二年(702)に「是日分、遷伊太祁曽、大屋津比売、都麻都比売三神社」記されている。
古くは日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇十六年に日前宮と国懸宮がその地に祀られることで、いわば土地を明け渡した。両社は互いに、同じような内容を伝えている。
その際に現地点の近くの「亥の杜」に遷座をした。和銅六年(713)現地に遷座をした。『延喜式神名帳』には名神大社に列し、紀伊国一ノ宮とされた。
神階は嘉祥三年(850)従五位下、貞観元年(859)従四位上に叙され、その後、延喜六年(906)正四位上に叙せられた。
名神大社として、月次、相嘗、新嘗の官幣を預かる。
天正年間に豊臣秀吉の根来攻めで社領は没収されたが、秀長の時代になって所領は回復され社殿も建立された。
★『日本書紀』には三神が木種を分布し、天降っては韓地に植えず、筑紫から始め国内全部を青山に播植したと伝える。
五十猛命は『古事記』では大屋毗古、『日本書記』には五十猛命と呼ばれている。
父神スサノオと共に多くの樹木を新羅に降臨したが、日本に渡り植林をした。また五十猛神は大国主命を助けている、因幡の白兎を助けた大国主命は八上比売と結婚をしたが兄弟神の嫉妬らいろんな仕打ちに遭い、母神に助けられたりしたが、最後に追い詰められた時に、大木の蔭に隠れる。
矢で射られて殺されそうになった時に木の股から五十猛神の許に逃れる。
抓津姫神は日本神話に登場する女神で父スサノヲ神、兄に五十猛神で五十猛神と共に全国の山々に木々の種をまき、紀伊国に戻って住んだと言う。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


「一ノ宮巡り」志摩国一ノ宮伊(い)雑宮(ざわみや)・祭神天照坐皇大御神御魂 三重県志摩市磯部町上之郷

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374・式内社・皇大神宮別宮・皇大神宮の別宮の一社、渡会郡大紀町の瀧原宮とともに「天照大神の遥宮」と呼ばれる。伊雑宮は内宮の別宮で、内宮の背後の鳥路山を越えた志摩市磯部町の上之郷にある。伊勢神宮別宮で十四社の内伊勢以外のものは伊雑宮のみで神田を持つ唯一の別宮である。明治以降、式年遷宮の為にお木曳行事が伊勢神宮に準じて二十年に一度行われる。
祭神は「天照坐皇大御神御魂」創建は延暦二十三年(804)『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂とされる。中世から近世まで祭神には諸説が有って伊雑宮の神職の磯部一族の祖先とされる伊佐波登美命と玉柱命の二柱と考えられてきた。その後、記述の確認で“天照大神分身”の箇所記されている事で明治以降は伊雑宮の祭神は天照大神御魂一柱とされた。鎌倉時代に成立したとみられる『倭姫命正紀』に依れば、伊勢神宮が内宮を建立した時に倭姫命が神宮への神饌を奉納する御贄地を探していた所、志摩国の伊佐波登美命が御贄地を選定し伊雑宮を建立された。通説にはこの説が伊勢神宮にとって都合の良い説ではあるが、この説には未だ確証が得られていない。創建は不詳とされ、伊雑宮付近は水田、稲作に適したことから、志摩土着の海洋信仰とする説など謎が多く残されている。また伊勢平家にまつわる源氏との確執で、平安期には治承・寿永の乱で戦禍を被り、伊勢平氏の伊勢に源氏の侵攻が予想され、伊勢志摩両国を平家が警備をした。伊雑宮は熊野三山が源氏の支持を得られた勢いで攻撃を受け、本殿を破壊され神宝を奪われた。勢いに乗った熊野勢は山を越えて伊勢国に攻め込んだが反撃で退却をした経緯が有って、時代の趨勢に翻弄された面が有った。伊雑宮は伊勢神宮に社殿が類似していて、入って右に宿衛屋があって、正殿は南面にして建ち、周囲に内に瑞垣、玉垣で二重で、正殿は神明造り、屋根の鰹木は六本、東西両端に内宮と同じ千木が高く聳(そび)えている。参拝をして感想は今までにない特異な形式の一ノ宮であった。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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