史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

鎌倉・室町の群像伝』(全186回)148“大田道灌” 太田道灌(1432~1486)室町後期の武将。

太田⑤
鎌倉・室町の群像伝』(全186回)148“大田道灌”
太田道灌(1432~1486)室町後期の武将。扇谷上杉家の家老。実名は一般に太田持資と伝えらえている。太田資長とする説も有力である。扇谷の家老として活躍した太田資清の子で、康正元年(1455)頃家督を継いだらしいが、間もなく武蔵江戸城を修築して自らの居城とした。関東は古河公方足利成氏と関東管領の上杉氏とが対峙する大乱の渦中にあったが、道灌は上杉陣営の一角を担い、また鎌倉公方や関東管領が不在で混乱した相模や南武蔵における実力随一のぶしょうとして若くして実権を握った。1476年長尾景春が反乱を起こし、翌年武蔵五十子の上杉氏陣営が崩壊すると、上杉方の危急を救うべく兵を出し、景春与党の豊島氏を討ち、ついで上野に進み、翌年1478年には景春の本拠の武蔵鉢形を落とし、併せてその与党の千葉孝胤を降した。1480年には春影の籠る日野城を陥落させて、反乱を完全に鎮圧させた。足利成氏と上杉氏の講和も実現させた。しかし主君の扇谷上杉定正は、道灌は定正の居館である相模糟屋で謀殺された。道灌は関東を代表する武将であったが、一方文事、和歌や蓮歌に通じ、1474年心敬らを江戸城に招いて歌会を開いたことは有名である。
★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。

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『鎌倉・室町の群像伝』九十八“北条時行”北条時行(?~1353)鎌倉時代末期から南北朝時代の武将である。鎌倉幕府最後の得宗北条高時

北条時行8 鎌倉・室町の群像伝』九十八“北条時行”北条時行(?~1353)鎌倉時代末期から南北朝時代武将である。鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。鎌倉幕府残党を糾合して北条氏復興のため中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。のち足利尊氏方に捕らえられ処刑されたとされる。幼名を亀寿丸という。母は安達時顕の娘・二位局。1333年、新田義貞による鎌倉攻めが行われ、執権北条高時を始め北条一族郎党は集団で自害し、鎌倉幕府は滅亡したが、時行は北条泰家の策によって諏訪盛高に連れられ鎌倉を脱出した。「太平記」には、1335年、逃亡潜伏していた北条泰家や旧幕府の関係者達、西園寺公宗らが北条氏の復興を図った際、旗頭として高時の忘れ形見である時行に白羽の矢が立てられ、泰家は諏訪盛高に亀寿丸を招致するよう命じた。盛高は二位局の元へ赴き、家臣に裏切られ処刑された邦時の話を持ち出して、「このままだと亀寿丸様もいつその首を手土産に我が身を朝廷に売り込もうと考える輩に狙われるか分かりませぬ」などと脅して二位局らを困惑させている隙に時行を強奪して連れ去ったと記載されている。その後二位局は悲観して入水自殺したともされる。時行は北条氏が代々世襲する守護国の一つであった信濃に移り、ここで諏訪家当主(大祝)である諏訪頼重に迎えられ、その元で育てられた。信州では得宗家被官であった諏訪神党などは冷遇され、代わって足利氏と懇意の小笠原氏が優遇されていた。時行は諏訪氏の勢力下、または中央の目の届き難い伊那谷地方にて潜伏・養育されていたとみられ、伊那地方には時行が住んだとされる遺跡や地所の伝承が多く残る。建武2年(13357月、成長した時行は、後醍醐天皇による親政に不満を持つ勢力や北条の残党を糾合し、信濃の諏訪頼重、時継親子や海野氏根津氏望月氏滋野氏滋野三家)らに擁立されて挙兵した。時行の挙兵に応じて各地の北条家残党、反親政勢力が呼応し、時行の下に集まり大軍となった。建武親政方の信濃守護小笠原貞宗と戦って撃破し、722日には武蔵国の女影原で待ち構えていた渋川義季岩松経家らの軍を破り、さらに小手指原で今川範満を、武蔵府中で下野国守護小山秀朝を、鶴見で佐竹義直を破り、破竹の勢いで鎌倉へと進軍した。尊氏の弟である鎌倉将軍府執権足利直義を町田村の井出の沢の合戦で破り、鎌倉へ迫ると足利直義らは鎌倉を放棄して足利氏所縁の三河国へ逃走。時行は父祖の地である鎌倉を奪回した。またこの際、鎌倉に幽閉されていた護良親王(大塔宮)は、時行に利用されることを恐れた直義方の手により殺害された。鎌倉を占拠した時行を鎮圧するべく、朝廷では誰を派遣すべきか議論が起こった。その武勇、実績、統率力、人望などを勘案して、足利尊氏が派遣されることとなった。直義と合流した尊氏は東進し、迎え撃つ時行軍と干戈を交えた。両軍は最初の内こそ拮抗していたが、徐々に時行軍の旗色が悪くなっていった。遠江国・駿河国・相模国など十七か所で局地的な合戦が幾度か起こったが、時行軍はそのたび破れ退却を余儀なくされた。ついには鎌倉にまで追い詰められ時行軍は壊滅。諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら信濃の諾将四十余名は勝長寿院で自害した。この自害した者達の遺体は皆顔の皮を剥がれており、誰が誰だか判別不可能だったため、時行も諏訪親子と共に自害して果てたのだろうと判断されていた。

★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『鎌倉・室町の群像伝』九十七“関山慧玄”関山慧玄5 (2)”関山慧玄(1227~1360)鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗の僧。信濃国高井郡の国人領主高梨氏

 鎌倉・室町の群像伝』九十七“関山慧玄”関山慧玄5 (2)”関山慧玄(1227~1360)鎌倉時代末期から南北朝時代臨済宗信濃国高井郡の国人領主高梨氏高梨高家の子とされる。朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師追諡された。 1307鎌倉建長寺に入り、南浦紹明に師事。慧眼の法名を授かり、南浦寂後も鎌倉にあって物外可什巨山志源などに参禅。その後帰郷。建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じ、ここで宗峰妙超(大燈国師)を紹介され、京都大徳寺に遷って宗峰に師事。やがて1329雲門の関字の公案で開悟し、宗峰がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。その後、後醍醐天皇に法を説くなどしたが、のち美濃の伊深に草庵を結んで隠棲した。1337花園上皇は、離宮を禅苑に改めてその寺名命名と開山となる禅僧の推薦を宗峰に依頼。宗峰が関山を推挙し、関山は妙心寺開山となった。禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、枯淡な禅風で修禅に専念したという。『沙石集』には「本朝ならびなき禅哲なり」と称賛されている。形式に拘らず厳しく弟子を指導し、法嗣授翁宗弼(じゅおう そうひつ)ただ一人であり、また妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかった。13601212日、関山は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。遺戒は授翁が門下の雲山宗峨に成文させ、今日「無相大師遺誡」と称し読誦されている。関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状以外にほとんど残されていない。さらに遺命して肖像を残させなかったため、今日の関山像は後世に作成された物である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属する。関山の禅は、後に系統に白隠慧鶴が出て大いに繁栄し、他の臨済宗諸派が絶法したのに対し、その法灯を今日に伝えている。

★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『鎌倉・室町の群像伝』九十五”北畠親房“ 北畠親房(1293~1354)鎌倉末期から南北朝期の公卿。

北畠親房ン鎌倉・室町の群像伝』九十五”北畠親房“

北畠親房(1293~1354)鎌倉末期から南北朝期の公卿。中院流村上源氏。父は北畠師重、母は藤原隆重の女。正安二年(1300)兵部権大輔に任官。1308年従三位、左兵衛督、検非違使別当を歴任。1312年従弐位。1324年大納言となった。吉田定房、万里小路宜房とともに後醍醐天皇の親政を補佐して「後三房」と称された。天皇の厚い信任を受けて、第二皇子世良親王の養育にあたった。しかし1330年親王の夭逝により悲しみの内に出家し、宗玄と号した。1333年10月、建武政権の奥羽統治機関である奥将軍府の成立に伴い、長子北畠顕家と共に、義良親王に奉じて陸奥多賀城に赴き、東北の経営に当たった。1335年12月、足利尊氏が敗走する新田義貞軍を追って西上するや、そのあとを追って入京、、京中合戦を展開し足利軍を急襲に追放した。翌年5月、勢力挽回した足利尊氏の上洛で建武政治の崩壊した際、伊勢に赴き南朝勢力の扶植に努めた。1338年5月に和泉堺浦合戦で顕家を失った。東国における南軍を結集するために、同年9月、義良親王を奉じて次子北畠顕信と伊勢大湊から東国に向かって解纜したが、途中、暴風雨にあって船団は壊滅し、親房のみ常陸東条浦に漂着した。小田治久らの援助を受けて、神宮寺城、小田城、関、大宝城を転戦した。後醍醐天皇の死去の悲報を小田城中で聞いた。『神皇正統記』執筆しつつ、結城親朝らの南軍への結集を呼びかけたが効果がなかった。親朝が足利方として旗幟を鮮明にした1343年11月、関東を脱出して吉野に帰り、後村上天皇を補佐した。1352年室町幕府の虚を衝いて京都を奪還したものの、幕府側の反撃にあって京都を放棄し、遠くの賀名生へと敗走した。1354年失意のうちに生涯を閉じた。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『鎌倉・室町の群像伝』九十四“新田義貞” 新田義貞(1301~13389鎌倉末から南北朝期の武将。

新田義貞2鎌倉・室町の群像伝』九十四“新田義貞”

新田義貞(1301~13389鎌倉末から南北朝期の武将。上野国の御家人。通称小太郎。父は朝氏。正憲二年(1333)本領新田荘世良田に駐屯する幕府徴税使紀親連を捕縛し、5月8日には討幕挙兵をした。売却地に天役を賦課されたのが反逆の契機と思われている。各地の反幕勢力に推されて22日には鎌倉幕府を滅亡させた。その後、足利尊氏派との権力闘争に敗れて京都に移り、後醍醐天皇に接近し、建武政権下越後守、上野介・播磨介・近衛中将・武者所頭人となり、天皇が寵愛された。勾当内侍を下げ渡された。建武政権崩壊後は、後醍醐天皇の反尊氏の総大将に仕立て上げられるが、1335年箱根・竹之下戦い、1336年赤松攻め、湊川戦い、東寺合戦に悉く敗北し、同年10月に後醍醐は大館氏明・江田行義と謀って義貞を見捨て京都の足利尊氏と和睦しょうとしたために、事前に察知した義貞は洞院実世らと謀って比叡山上で後醍醐を包囲。恒良・尊良親王らとともに北陸敦賀を去り退勢の挽回を図った。しかし翌年3月に本拠金崎城は足利勢に攻められ落城し、恒良は捕縛され京都で毒殺された。義貞はその後、後醍醐の南朝に服したらしいが、一進一退の攻防の中1338年、藤島の灯明寺畷で戦死した。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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