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『歴史の時々変遷』(全361回)42“平忠常の乱” 「平忠常の乱」平安時代に房総三カ国で1028年に起きた反乱。

忠常7
『歴史の時々変遷』(全361回)42“平忠常の乱”
「平忠常の乱」平安時代に房総三カ国で1028年に起きた反乱。平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱であった。平将門の叔父平良文の子孫に当たる平忠常が乱を起こし、朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏した。この乱により房総三カ国は大いに荒廃した。長元の乱ともいう。平良文は下総国相馬郡を本拠に村岡五郎と称し、子の忠頼、孫の忠常の三代に亘り関東で勢力を伸ばした。忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。長元元年(1028)6月、忠常は安房守平維忠を焼き殺す事件を起こした。原因は不明だが、受領と在地領主である忠常との対立がこうじたものらしい。続いて忠常は上総国の国衙を占領してしまう。上総介縣犬養為政の妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三カ国に広まった。当時、在地豪族はたびたび国衙に反抗的な行動をとっていたが、中央の有力貴族との私的な関係を通じて不問になることが多く、実際に追討宣旨が下されることは稀だった。事件の報は朝廷に伝えられ追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがった。右大臣・藤原実資は陣定において、頼信を推薦した。頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させており、事態の穏便な解決のためには最適と考えられた。常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられている。翌年には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。合戦の詳細は不明だが消極派の成道と積極派の直方は仲たがいしたため討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。長元2年(1029)2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定はすすまなかった。長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした長元4年(1031年)春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。長元5年(1032)功により頼信は美濃守に任じられた。平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であったためであるともいわれている。この乱の主戦場になった房総三カ国は大きな被害を受け、上総守藤原辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。だが、同時にその原因は追討使であった平直方や諸国兵士、すなわち朝廷軍による収奪であったと明言している。この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。★歴史を辿れば 栄枯盛衰の攻防に生きた 葛藤の光景が見えてくる。
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『歴史の時々変遷』16”隼人の反乱“ 「隼人の反乱」養老4年(720)九州南部に住む隼人がヤマト王権

隼人の反乱①『歴史の時変遷』16”隼人の反乱“

「隼人の反乱」養老4年(720)九州南部に住む隼人ヤマト王権に対して起こした反乱である。1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、ヤマト王権の九州南部における支配が確立した。7世紀後半の九州南部はヤマト王権(朝廷)の勢力が及んでいたものの支配体制は完全ではなく、熊襲あるいは隼人と呼ばれる住民が多くの集団に分かれて割拠する状況であった。朝廷は自らの勢力範囲に広く律令制を導入することを試みていたが九州南部においては住民の支持を得られなかった。これは律令制が稲作を制度の中心に据えており、稲作に適さないシラス土壌の広がる九州南部には適合しなかったためである。一方、南西諸島を経由した中国大陸との交流が活発化しており、朝廷は覓国使と呼ばれる調査隊を組織して九州南部と南西諸島の調査を行っていたが、700年に覓国使が九州南部各地で現地住民から威嚇を受ける事件が発生した。朝廷は大宰府に武器を集め7028月、九州南部に兵を送るとともに唱更国(後の薩摩国)を設置し現地の支配体制を強化した。713年には大隅国が設置され当時律令制導入の先進地であった豊前国から5000人を移住させ指導に当たらせるなど支配体制がさらに強化されている。律令制、特に国郡制の導入や班田収授法を推し進めようとする朝廷と、九州南部において共同体的な土地利用形態を守ってきた隼人との間で緊張が高まった。7202月29、大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。朝廷は3月4大伴旅人征隼人持節大将軍に、笠御室巨勢真人副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に立て籠もった。これに対して朝廷側は九州各地から1万人以上の兵を集め九州の東側および西側からの二手に分かれて進軍し、6月17には5ヶ所の城を陥落させたと報告している。しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城の攻略に手間取り長期戦となった。大伴旅人は戦列を離れ8月12に都に戻りその後の攻略を副将軍らに任せている。1年半近くにわたった戦いは隼人側の敗北で終結し、7217月7、副将軍らは隼人の捕虜を連れて都に戻った。隼人側の戦死者と捕虜は合わせて1400人であったと伝えられている。反乱のため班田収授法の適用は延期されることになり戦乱から80年近く経過した延暦19年(800)になってようやく適用されている。

★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『歴史の時々変遷』15”平城京遷都“ 「平城京遷都」奈良時代の日本の首都

平城京5。いわゆる「奈良」である。の都「長安」や北魏洛陽城などを模倣して建造されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置していた。和銅元年(708)元明天皇は遷都の詔を出し、「四禽図に叶い、三山鎮を作す」と言って奈良盆地の北端辺り、造営された。藤原京から平城京への遷都文武天皇在世中の707に審議が始まり、708には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710に遷都された時には、内裏大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。740恭仁京難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745には、再び平城京に遷都され、その後784(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都とも呼ばれた。平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京が設けられている。東西軸には一条から九条大路(十条については後述)、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画である。各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は東西約4.3キロメートル、南北約4.7キロメートルに及ぶ。平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道中ツ道を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める4町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられた物であった。 平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、4町の宅地を占有した藤原不比長屋王藤原仲麻呂の邸が集まっていた。 唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。平城宮内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物で、朱雀門の北にあった大極殿740の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側(壬生門の北)に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、大安寺薬師寺興福寺元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって天平勝宝4年(752)に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。この他、海龍王寺法華寺唐招提寺菅原寺喜光寺)、新薬師寺紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見されたことに依る。この羅城は中国の都城の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『歴史の時々変遷』14”和同開珎“ 「和同開珎」和銅元年(708)日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目にあたる

あqw『歴史の時変遷』14”和同開珎“

「和同開珎」和銅元年(708)日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭1番目にあたる。直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621に発行された開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である1として通用した。当初は1文で2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあった。7085月には銀銭が発行され、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月に発行されたことが続日本紀に記されている。しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。ただし、現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には贋作が多いので注意を要する。当時の日本はまだ米やを基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。和同開珎以前に存在した貨幣として、無文銀銭富本銭が知られている。19991月19には、奈良県明日香村から大量の富本銭が発見され、最古の貨幣は和同開珎という定説が覆る、教科書が書き換えられるなどと大きく報道された。しかし、これらは広い範囲には流通しなかったと考えられ、また、通貨として流通したかということ自体に疑問も投げかけられている。現在のところ、和同開珎は、確実に広範囲に貨幣として流通した日本最古の貨幣であるとされている。★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

『歴史の時々変遷』4”崇峻天皇の暗殺の謎“ 崇峻天皇の暗殺の謎・587年用明天皇の死後、


『歴史の時々変遷』4”崇峻天皇の暗殺の謎“
崇峻天皇の暗殺の謎・587年用明天皇の死後、故敏達天皇の皇后の豊御食炊屋姫と大臣蘇我馬子の推挙で、崇峻天皇の誕生となった。豊御食炊屋姫と馬子の協調は、炊屋姫が馬子の父である稲目の娘の堅塩姫を母としている。592年10月、猪が献上された際に、崇峻天皇が「いつになったらこの猪の首を斬るように、いやな男の首を斬ることが出来るだろうか」と言い、兵を増やし、また大伴の子手子妃が自分への崇峻の愛情が薄くなったことに不満を持って、馬子の告げ口したことの始まり、崇峻天皇と馬子が次第に離反したと言われている。馬子によって擁立された崇峻天皇も操り天皇に嫌気がさしたとしても不思議はない。危惧を抱いた馬子は密かに徒党を集めて崇峻天皇暗殺計画を練り上げた。東国の調が献上されたと偽り、東漢直駒に命じて天皇を暗殺させたのである。崇峻天皇は暗殺されるや、その日の内に倉橋岡陵に葬られたと言う。暗殺者東漢直駒は馬子の娘で天皇の妃と不義が発覚して殺された。馬子の魂胆は全て東漢直駒に罪を着せた終結させたようだ。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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