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「西国四十九薬師巡り」温泉寺・高野山真言宗・669-6101・城崎温泉守護の自・城崎温泉は、地蔵菩薩

 お温泉寺D「西国四十九薬師巡り」温泉寺・高野山真言宗・669-6101・城崎温泉守護の自・城崎温泉は、地蔵菩薩の化身といわれる道智上人が、衆生済度の大願を起こして諸国を巡錫の折り、養老元年(七一七)この但馬の地に来ました。当所鎮守四所明神の神託により、一千日間の祈願修行になし、養老四年(七二〇)温泉を開きました。(現在のまんだら湯)その後、大和長谷寺の観音と同木、同作の観音像を感得して、温泉寺を開創しました。天平十年(七三八)聖武天皇より城崎温泉の守護寺として末代山温泉寺の号を賜った名刹です。

現在、城崎温泉には百軒余りの旅館、ホテルがあり、それぞれに内湯がありますが、元来は外湯を中心に発展してきた温泉地であります。現在七ヶ所の外湯があり、「七湯めぐり」と称して浴客に人気があります。この七湯めぐりを七度(旅)することにより四十九の徳を得、終始苦難を免れるといわれています。
城崎温泉では元来入湯、湯治の諸人は先ず当山に参拝し、開祖道智上人の霊前に感謝を捧げ、「古式入湯作法」と言う入浴方法を授かった後に初めて外湯へ向かうのが慣わしでした。当山本尊は城崎温泉守護の本尊であり、湯治、入浴によって得られる効験は当山薬師如来の霊験であると諸人の信仰を集めておりました。
薬師堂前には境内より湧出の源泉「やくし湯」の湯飲み場があります。また門前には足湯もあり自由にご利用いただけます。西国薬師のご参拝、ご朱印を希望の方は、山門を入り薬師堂にご参拝ください。ロープウェイを利用する必要はありません。時間に余裕のある方は、ロープウェイにて本堂へもご参拝ください。
本堂は、室町時代の代表的建造物で重要文化財に指定されています。また本尊十一面観音(秘仏)、千手観音など多数の仏像、文化財を安置しています。本堂横には、城崎美術館があり、温泉寺所蔵の仏像、仏画、古文書などが展示してあります。
★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

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「西国四十九薬師巡り」門戸厄神、東光寺・兵庫県西宮市門戸西町にある寺。高野山真言宗別格本山。

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「西国四十九薬師巡り」門戸厄神、東光寺・兵庫県西宮市門戸西町にある寺。高野山真言宗別格本山。正式名は松泰山東光寺。「西国薬師霊場第二十番」「西国愛染十七霊場第二番」「摂津国八十八箇所第七六番」。日本三大厄神のうちの一つ。寺名の東光寺は、薬師如来がおられる浄土、東方浄瑠璃世界から光が発せられる寺という意味で名付けられました。寺伝によれば開創の経緯は次のとおりである。天長六年(八二九)嵯峨天皇が四十二歳の厄年のおり、愛染明王と不動明王が融合一体の厄神明王となって現れ、諸々の災厄を打ち払った夢を見られました。それを聞かれた弘法大師(空海)が自ら厄神明王を三体刻まれ、三年間の厄年を祈祷し無事に過ごされました。その後、一体を国家安泰の厄除けを願い紀州高野山麓の「天野明神」へ、一体を皇家安泰の厄除けにと山城男山の「石清水八幡宮」に、もう一体を民衆厄除けのため、ここ摂津門戸の「東光寺」に納められました。これが世にいう「日本三躰厄神明王」です。古くから厄除開運の祈願寺として名高く、多くの人々に知られ信仰されています。古くは七堂伽藍をそなえ荘厳な構えを見せていましたが、織田信長の荒木村重攻めの兵火にかかり、堂宇が焼かれてしまいました。しかし、弘法大師自刻の厄神明王は一部の損傷もなく、再建されたお堂に祀られました。明治維新の廃仏毀釈により寺領地は縮小されましたが、厄除け守護の厄神明王の威徳は今なお受け継がれています。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「西国四十九薬師巡り」高室院・高野山真言宗 通称・小田原坊・和歌山県伊都郡高野町高野山・●小田原城主北条氏直公が潜居。

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「西国四十九薬師巡り」高室院・高野山真言宗 通称・小田原坊・和歌山県伊都郡高野町高野山・●小田原城主北条氏直公が潜居。今から約千二百年前、真言宗の宗祖弘法大師は、時の帝、嵯峨天皇の勅許を得られ、真言密教の根本道場として高野山を賜られました。それから約三百数十年後、村上天皇のご血統を引かれる房海僧正によって当院が創建され、当初は、智恵門院と呼ばれていましたが、後に高室院と改められ、今日に至っている。法燈は師資連綿として受け継がれ、第九世の大聖僧正は大和の国、天河弁財天の化現と伝えられるなど、多くの名僧を輩出している。また、学問寺として学侶の名室寺院の一つに数えられ、多くの学匠が生まれている。天平年間(一五七三~九一)、小田原城主北条氏直公が当院に潜居してから、北条家の菩提所として「小田原坊」と呼ばれるようになり、現在でも、関東の寺院、ご信者との御縁は深いのです。また、伊勢の藤堂家、土佐の山内家とも壇契を結んだ時期があった。当院の本堂は明治二十一年(一八八八)の大火に類焼し、昭和五十九年(一九八四)、弘法大師御入定千百五十年御遠忌の年に現在の本堂が再建された。本尊の薬師如来は、紀伊續風土記によると行基菩薩の御真作と伝えられ、重要文化財のため現在は高野山霊宝館に収められている。現在本堂に御安置の薬師如来は、京仏師江里氏の作である。明治になって、大乗院・発光院・蓮上院を合併し、寺宝としては、弘法大師御筆大威徳明王影・高野結界啓白文・十二天屏風・同御作帆揚不動尊(重文)を蔵している。高野山は海抜約九百メートル、大小、十六の峯々に囲まれた山上の盆地です。峯々は外八葉・内八葉と呼ばれ、あたかも蓮の花が開いたようで、まさに仏国土・密厳浄土と呼ぶにふさわしい地形といえる、当院は、高野山のほぼ中央に位置し、東の奥之院、西の大伽藍寺等、どこへ参拝するのにも便利である。境内は広く、マイカーでの巡拝にも十分な駐車スペースがある。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「西国四十九薬師巡り」龍泉院・高野山真言宗・和歌山県伊都郡高野町高野山・●弘法大師雨請いの霊場・

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「西国四十九薬師巡り」龍泉院・高野山真言宗・和歌山県伊都郡高野町高野山・●弘法大師雨請いの霊場・
高野山は海抜約千メートルの山上に広がる東西六キロ・南北三キロの盆地で、内八葉外八葉の峰々に囲まれている。ちょうど蓮台の形のようなこの地は、いにしえ古より紫雲棚引く霊山として信仰されてきた。若き日の弘法大師空海も、山嶽修行者の仲間に入り山野を跋渉し修行に明け暮れていた頃に、訪れたこともある高山深嶺の地であり、中国より密教を持ち帰った空海が、弘仁七年(八一六年)嵯峨天皇よりこの地を賜り、真言密教の一大修行道場である伽藍諸堂の建立に着手したのが、高野山金剛峯寺のはじまりである。高野山は、開創以来厳しい修行道場のため女人禁制が敷かれ、明治五年(一八七二)に解除されるまでは、いかなる女性といえども女人堂より内に入ることは許されなかった。現在は不動口の女人堂だけが残り、かつての厳しい女人禁制の名残を留めている。高野山上には約百二十の寺院があり、僧侶だけでも約千人が生活しています。世界に類をみない山上宗教都市で、平成十六年には世界遺産に登録され、国内はもとより海外からも参拝者や観光客が多く訪れている。龍泉院は承平の頃(九三一年頃)真慶律師によって開創され、弘法大師がかつて日照りが続いた際に善女龍王を勧請し祈雨の修法を行われた霊池が傍らにあることから、院号が付けられた。また弘法大師の高弟の真雅僧正が、当院において阿字観を修せられた霊験あらたかな古刹であり、鎌倉との由緒深く、毛利元就、佐々木高綱、楠正成等の帰依厚く、織田家、源家等の檀縁が深い。
本尊の薬師如来像(重文)は藤原時代末期の作。寺宝の弘法大師御作の真言八祖・りゅう龍みょう猛菩薩像は、毛利元就が当院に寄贈したもので弘仁仏として有名です。当院は高野山真言宗総本山金剛峯寺の北側に位置し、金堂、根本大塔等の諸堂がある檀上伽藍や、女人堂も近い。山門を入った正面に本堂があり、左側に護摩堂、大師堂と並び、右側に庫裡、玄関がある。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「西国49薬師巡り」花山院・第21番・東光山・花山院菩提寺・真言宗・〒669-1505兵庫県三田市尼寺●花山法皇、終焉の地当山

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は白雉二年(六五一年)天竺より渡来したとされる法道仙人によって開かれたと伝えられています。ちなみに西国三十三カ所の二十五番清水寺と二十六番一乗寺も、法道仙人によって開かれています。法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、当山もその修行の聖地として開かれました。後に花山法皇(人皇第六十五代花山天皇)は、西国三十三カ所観音霊場巡礼をご再興の後、当山に錫を留められました。
眼のあたりには秀峰有馬富士を見、南には六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島までを一望におさめるゆうすい幽邃かんが閑雅の景色はいたく法皇の御感に召したのでしょう。この山こそ終生仏道修行に励む聖地として他に勝るものはなしと思い定められたのです。その御心は、御製に「名にしおう 我が世はここに尽くしてむ 仏の御国近きわたりに」(当山第二番の御詠歌)と詠まれたことが如実に物語っています。
そして寛弘五年(一〇〇八年)御年四十一歳でご崩御なされるまで、当地で仏道修行にご精進なされたのです。法皇亡き後、当山は花山法皇(花山院)の菩提を弔うお寺として、寺号を花山院菩提寺と称するようになりました。
法皇は後の人から西国三十三カ所観音霊場中興の祖として仰がれ、観音霊場を巡礼する人たちは、花山法皇への尊崇帰依の心を示すべく当山に参詣するのがその勤めとなり、薬師霊場であるこのお山が、西国三十三カ所観音霊場の番号外の札所となったのです。
なお麓には女官たちが花山法皇を慕い来たるも、その時代の出家僧の戒律では男女共に住むこと許されず、自らも尼僧となって生涯を過ごした女官たちの墓「十二尼妃の墓」があり、村の名前もにん尼じ寺村と称して哀史を今に伝えています。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが垣間見えてくる。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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