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「一ノ宮探訪」“籠神社“(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。

か籠神社 (2)
「一ノ宮探訪」“籠神社“(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏が神職を担当している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。・主祭神・彦火明命 (ひこほあかりのみこと)「天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。社家海部氏の祖神。・相殿神・豊受大神「御饌津神」ともいうとする。・天照大神・海神(- 社家海部氏の氏神。・天水分神・祭神については古くより諸説があり、『神社明細帳』では天水分神としている。社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし[2]、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道 が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説がある。延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている。籠神社をその地にあてたものとしては、建武2年(1335年)の文書の「豊受太神宮之本宮籠大明神」という記載、天和年間(1681年-1684年)の籠神社縁起秘伝の「当社籠大明神ハ即豊受大神也」とし「与謝宮ハ則是籠大明神也」とする記載がある。※歴史に学ぶ 先人の知恵と教訓。
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「厳島神社」京都府京都市上京区、京都御苑内にある神社。堺町御門の西側、九条池の中島に鎮座し

 い厳島神社1「厳島神社京都府京都市上京区京都御苑内にある神社堺町御門の西側、九条池の中島に鎮座し、「池の弁天さん」と称される。旧社格無格社市杵島姫命田心姫命湍津姫命宗像三女神を主祭神に、祇園女御を配祀する。配祀神は下述するように本来は平清盛の母の霊であったと思われるが、後に著名なその姉(つまり清盛の伯母)の祇園女御に変えられたようである。社伝によれば、安芸国厳島社を崇敬した平清盛が、摂津国兵庫津に築島(経が島)を造成した際に、同島に社殿を構えて厳島社を勧請し、後に清盛の母の霊を合祀したものに起源を持ち、その神社を時期不詳ながら当地へ遷座させたものという。鎮座地は後世九条家の邸宅に取り込まれて同家の鎮守として崇敬されるとともに、池泉廻遊式庭園1部を構成するものともなった。明治になって九条家は東京へ転宅し、その邸宅も東京へ移築されたが、当神社はそのまま残された。昭和2年(1927)には社殿が改築されている。なお現在の景観であるが、当神社が当初から池中の中島に鎮座していたかは不明であるものの、下述する社前の鳥居が移築された明和8年(1771)には池は穿たれていたので、その頃までには遡れる。社前に至る擬宝珠欄干付きの「高倉橋」は九条家移築後に架橋されたものという。

★歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「京都16社巡り」市比買神社祭神・神大市比賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、多紀理比賣命、下照比賣命京都市下京区河原町五条

い市比買神社2 (2)
「京都16社巡り」市比買神社祭神・神大市比賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、多紀理比賣命、下照比賣命京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入・御祭神は全て女神様をお祀りしているところから女性の守り神とされ、全ての女性のお願い事にご利益があります。特に時の皇后陛下がお受けになられた「女人厄除け祈祷」は有名で、全国から女性の参拝者が絶えません。 また、平安時代より市場の守り神である市比賣社は、「誓約(うけひ)の神(物事の流れを良くする神様)」として多くの人々で賑わってきました。昭和2年、京都に日本初の「中央卸売市場」が開設された折、分社として「市姫神社」が祀られ今現在も市場敷地中央にご鎮座されています。「五十日百日之祝(いかももかのいわい)」は生後五十日目・百日目に、当社御神水「天真名井(あめのまない)」により、つき上げられた「五十日之餅・百日之餅(いかのもち・ももかのもち)」を授かり、子供の口に含ませ健やかな成長を願う現在のお食べ初めの発祥・源流として知られています。これは『源氏物語』など多くの古典文学にも描かれ、歴史にその名を残している。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

「滋賀古社寺探訪」都久夫須麻神社(竹生島神社)滋賀県長浜市の竹生島にある神社。式内社で、旧社格は県社。社名は「竹生島神社(

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「滋賀古社寺探訪」都久夫須麻神社(竹生島神社)滋賀県長浜市の竹生島にある神社。式内社で、旧社格は県社。社名は「竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)」とも。祭神は次の三柱である。市杵島比売命 - 弁才天。宇賀福神 (うがふくじん。龍神でもある)浅井比売命 (あざいひめのみこと) 産土神。社伝では、雄略天皇3年に浅井姫命を祀る小祠が建てられたのが創建という。『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。天智天皇による志賀宮(近江宮)創建の際、宮中の守護神として祀られたといわれる。神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院(宝厳寺)を開基させたという。また、天平三年(731年)に聖武天皇が参拝し社前に天忍穂耳命・大己貴命を祀ったといわれるほか、行基は弁才天の像を彫刻して本尊としたと伝わる。『帝王編年記』天平神護元年(765年)の記事によれば、藤原仲麻呂の乱平定に神助があったとして従五位上を授けられたという。『日本三代実録』元慶三年(879年)には「筑夫嶋神社」の記載があるほか、平安時代中期の『延喜式神名帳』では「近江国浅井郡 都久夫須麻神社」と記載され、式内小社に列した。平安時代末からは弁才天が祀られ、弁才天を本地仏として「竹生島権現」「竹生島弁才天社」と称されるようになった[2]。現在も「日本三大弁才天」の1つに数えられており、中でも当社は「日本最古の弁才天」「弁才天の発祥地」ともいわれる。宝厳寺との習合状態は江戸時代まで続いた。慶長七年(1602年)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として豊国廟の一部を移築したといい[2]、現在の本殿や宝厳寺の唐門が残っている。明治に入り、明治新政府は神仏分離令を出した。これに基づき大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、『延喜式神名帳』に見える「都久夫須麻神社」と称するよう命じた。ただし、日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れて寺院と神社の両方が並存することとなった。明治七年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。
※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。

鎌倉・室町の群像伝』六十一”北条時宗“ 北条時宗(1251~1284)鎌倉幕府第七代執権。北条時頼の子。

北条時宗1
『鎌倉・室町の群像伝』六十一”北条時宗“
北条時宗(1251~1284)鎌倉幕府第七代執権。北条時頼の子。母は北条重時の娘。正嘉元年(1257)将軍宗尊親王の加冠により元服、1261年安達義景の女の堀内殿と結婚。1264年連署に就任。1266年将軍宗尊を廃し、その子惟康を将軍に立てる。1268年蒙古の国書がもたらされると執権に就任し、1271年には椿西に所領をもつ御家人に鎮西下向を命じ蒙古に備えた。1272年に一族の名越時章・教時、圃場時輔らを打(二月騒動)ち得宗としての地位を固める。1273年には御家人の所領の散失を防ぐために、御家人所領復令を出した。1274年元軍の来寇を退け(文永の役)翌年から翌々年にかけて異国警固番役の制度確立し、来航した元使を斬り、鎮西に石塁を築くなどして、防衛を強化、一方で高麗侵攻も企てた。1281年には再度元の襲来を退けた。(弘安の役)この間に北条一門による西国守護独占を進め、非御家人にも軍事動員を課すなど、得宗専制を推進した。朝廷に対しては、皇子の亀山天皇を治天の君に推し、1274年亀山に院政を開かせた。亀山の兄の後深草上皇がこれを不満を抱くと、1275年後深草の皇子煕仁親王を皇太子に立て、後深草系の持明院派と大覚寺派との融和を図った。時宗は禅宗に帰依し、欄溪道隆・大休正念に師事し、1279年宋の僧無学祖元を招く、1282年円覚寺を建て祖元を開山とした。※歴史をたどれば、時代に生きた、先人の喜怒哀楽の生きざまが見えてくる。


プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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