「一ノ宮巡り」河内国・枚岡神社・祭神天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・斎主大神 大阪府東大阪市出雲井町7の16・式内社・旧官幣大社

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「一ノ宮巡り」河内国・枚岡神社・祭神天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・斎主大神
大阪府東大阪市出雲井町7の16・式内社・旧官幣大社
元春日として春日大社が、この枚岡神社の祭神を勧請し春日大社が創建された。また春日社から武甕槌大神・斎主大神を勧請し春日神を祀った。
第一殿に天児(ままのこ)屋根(やねの)命(みこと)、第二殿に比売神、第三殿に武甕槌命、第四殿に斎主命を祀る。
社伝に依れば、神武天皇紀元前三年に神武天皇の侍臣の中臣氏の祖の天(あめ)種子(たねこ)命(みこと)が、天皇の命で神津岳の頂きに祖神の天児屋根神を祀ったのが創建とされる。
天児屋根命は『記紀』に依れば宮廷の祭礼を務める神で、中臣氏のあと藤原氏の祖神である。
中臣の支族平岡連は河内国に栄え祀ったのがこの社である。
枚岡の梅林はかおり風景百選の一つ、昔は東高野街道から一直線に参道が有った形跡を見ることが出来る。その参道を横切るように近鉄奈良線の枚岡駅が遮るように、駅のホームから枚岡神社を望める。
平岡(枚岡)の社名は神津嶽の頂が平らだったからによる。また中臣氏の支流平岡連の氏神とされ、白雉二年(650)に平岡連によって中腹の現在地に遷座された。旧鎮座地には奥宮がある。
★『古事記』では天児屋根神は興(こご)台産(とむす)霊(ひ)の子、天の岩屋戸の前で祝詞を奏でて天照大神の出現を祈り、後に天孫に従って降った五部神の一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀を司った。中臣・藤原氏の祖神とする。
経津主神は磐筒男神・磐筒女神の子。天孫降臨に先立ち武甕槌神と共に葦原中国を平定し、大巳(おおなむ)貴(ち)命(みこと)(大国主命)を説得し、葦津中国を皇孫のニニギ命に譲らせた。








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「西国四十九薬師巡り」延暦寺・滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。

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「西国四十九薬師巡り」延暦寺・滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。
比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京の北にあったので北嶺とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。
住職は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。平成六年(1994)には、古都京都の文化財の一部として、ユネスコ世界文化遺産にも登録された。
寺紋は天台宗菊輪宝。最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。
特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。
「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔、西塔、横川などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。
日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。
延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。
開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁十四年(823年)のことであった。
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。
比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。
最澄は俗名を三津首広野といい、天平神護二年(766年)、近江国滋賀郡に生まれた(生年は767年説もある)。
十五歳の宝亀十一年(781年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。
二十歳の延暦四年(786年)、奈良の東大寺で受戒し、正式の僧となった。
最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる「法華三大部」を研究した。



『歴史の時々変遷』(全361回)237“大坂の陣” 「大坂の陣」江戸幕府と豊臣家(羽柴家)との間で行われた合戦。

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『歴史の時々変遷』(全361回)237“大坂の陣”
「大坂の陣」江戸幕府と豊臣家(羽柴家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615)の大坂夏の陣から成る。大坂の役(おおさかのえき)とも。豊臣秀吉死後の豊臣政権においては五大老の徳川家康が影響力を強め、慶長5年(1600年)に元五奉行の石田三成らが蜂起した関ヶ原の戦いで家康は東軍を指揮して三成ら西軍を撃破する。徳川家康は戦後処理や論功行賞を主導するなど実権を握った。この際、豊臣家の蔵入地(直轄地)を処分、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石程度まで削がれた。慶長8年2月12日(1603)、家康は伏見城で征夷大将軍に就任、江戸幕府を開き、江戸城を始め普請事業を行うなど政権作りを始める。家康の政治目標は徳川家を頂点とした長期的かつ安定した政権をつくることであったとされ、徳川家の主君筋に当たり幕府のヒエラルキー社会では別格的存在となる豊臣家に対し、服属させるか、それが拒絶された場合には処分する事を考え始めたという。同年7月、徳川秀忠の娘である千姫が秀吉の遺言に基づき子の豊臣秀頼に輿入した。慶長10年(1605)正月に家康が、つづいて2月に秀忠が伊達政宗ら奥羽の大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍を率いて上洛した。同年4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲り、自らの官位であった右大臣位を秀頼に譲る。将軍就任時の秀忠の官位が内大臣であったのに対し、秀頼はこうして右大臣になったが、秀忠の将軍職継承は天下にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものである。先の家康の将軍任官時の序列はまだ秀頼が上であって、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していたが、既に家康、そして徳川政権が時を追うごとに優位になっていくことを止めることはできなかった。5月8日、秀頼に対して臣下の礼を取るように高台院を通じて秀頼生母の淀殿に要求した。淀殿は会見を拒否したが、家康は松平忠輝を大坂に遣わし融和に努めている。慶長16年(1611)3月、後陽成天皇の譲位を受けての後水尾天皇即位に際して上洛した家康は二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、加藤清正や浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する。翌4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという誓詞を提出させた。翌慶長17年(1612年)には前年上洛していなかった東北・関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただし、秀頼からは誓詞を提出させていない。二条城の会見後の慶長16年(1611)に浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正が、慶長18年(1613年)に池田輝政・浅野幸長、慶長19年(1614)に前田利長が亡くなったことで、豊臣家の孤立は強まり、幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり、兵糧や浪人を集めだし、更には前田家と誼を通じようとするなど、幕府との対決姿勢を前面に押し出し始めた。豊臣家に対し融和策をとる徳川家も戦の準備は怠らず、攻城兵器として国友鍛冶に大鉄砲・大筒の製作を命じ、他にも石火矢の鋳造、イギリスやオランダに対し大砲・焔硝・鉛(砲弾の材料)の注文を行っている。海外、キリスト教陣営との接触は両軍共に存在し、大坂城にはポルロ神父など多数のキリシタン、神父が篭城することとなる。こうしたなかで発生した方広寺鐘銘事件により、両家の対立は決定的となる(方広寺鐘銘事件の詳細は後述)。慶長19年(1614)8月、豊臣家は鐘銘問題の弁明のために片桐且元を駿府へ派遣するが、家康は且元と面会していない。しばらくして大野治長の母の大蔵卿局が駿府へ派遣されたが、家康は大蔵卿局とは面会して丁重に迎えている。9月6日、家康は豊臣方の徳川家に対しての不信が問題の要因であるとし、以心崇伝と本多正純を使者として、大蔵卿局と且元とを同席させた上で、双方の親和を示す方策を講じ江戸に赴いて申し開きするよう要求したという。同日、家康は今度は西国の大名50名から誓詞をとっている。且元は大坂へ戻り、9月18日、私案として以下の3つの妥協案の一つを採用するように進言した。秀頼を江戸に参勤させる・淀殿を人質として江戸に置く・秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する・の案に淀殿は怒り且元は次第に裏切り者として扱われるようになった。秀頼や木村重成からの調停があったものの、28日に高野山に入るとして大坂城を出ることを決めたが、これは秀頼側ら穏健派の態度をも硬化させ、「不忠者である」として改易が決められる。10月1日に片桐且元は蔵の米や金などの勘定の引き継ぎを済ませ、300程の雑兵を率き連れ、貞隆、石川貞政らと共に大坂城を退去した。・且元は慶長18年に秀頼から一万石を加増された際に徳川家を憚りこれを辞退したが、家康の命により拝領している。このように且元は豊臣家の家臣でありながら家康の家臣でもあり、豊臣家が且元を処分しようとしたことは家康に口実を与えることになった。家康はこの件を根拠にして諸大名に出兵を命じ、大坂の陣が勃発している。徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)に藤堂高虎の協力で築城を始めた膳所城を皮切りに伏見城・二条城・彦根城・篠山城・亀山城・北ノ庄城・名古屋城の再建・造営や江戸城・駿府城・姫路城・上野城などの大改修など、諸大名を動員した建築事業として御手伝普請を課し、いわゆる天下普請を行った。この中で駿府城の普請は、普請に対する主従関係の希薄な五百石夫(知行高五百石につき人夫一人)という形で行われ、これは秀頼の所領に対しても賦課された。駿府城の改修により、家康は大御所政治を始動する。名古屋城普請の際には豊臣家へも動員が命じられたが、淀殿がこれに拒否反応を示し、沙汰止みになっている。秀頼の寺社造営、豊臣秀頼・淀殿は、豊臣秀吉没後から秀吉の追善供養として畿内を中心に寺社の修復・造営を行っている。主なもので東寺金堂・延暦寺横川中堂・熱田神宮・石清水八幡宮・北野天満宮・鞍馬寺毘沙門堂など、85件にものぼった。慶長13年(1608年)には、家康が方広寺大仏殿(秀吉が建立し慶長元年(1596年)に倒壊)の再建を勧めている。これら多くの造営で秀吉が大坂城に遺した金銀は底をつくのではないかという憶測も流れたが、実際には全く困窮していなかった。大坂の役で多くの戦費を消費したにもかかわらず、大坂城落城後、約2万8千枚の金(約28万両)と約2万4千枚の銀(約24万両)が幕府に没収されている。

「平安京物語」2、“長岡京遷都”平城京での肥大化し、奈良仏教の影響力に翻弄され統制機能を失い、天武天皇系から断絶した天智系の復活

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「平安京物語」2、“長岡京遷都”平城京での肥大化し、奈良仏教の影響力に翻弄され統制機能を失い、天武天皇系から断絶した天智系の復活によって、首都平城京を朝廷は見切りをつけ、新たな新都を模索し、長岡京へと遷都に方向を定めた。延暦3年(784)11月に平城京から長岡京に桓武天皇の勅命が下された。造営には河川を使って物資を運べる利点があった。延暦4年(785)正月に宮殿で新年の儀式を行った。この都は建築から僅か半年で完成したことになる。この宮殿建設には遷都に反対する奈良の人々の押し切っての為を意識したのか、急速に段取りが組まれた思われる。遷都の際には難波の宮の宮殿の資材を移築し、平城京の宮殿の資材を使用をしなかった。また遷都の際に朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対派を退けた。しかしその後不吉な出来事が起き、同年9月に造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、その首謀者の陰に平城京の仏教関係者が含まれていた。またこの暗殺に桓武天皇の弟の早良親王の反逆の嫌疑が掛かり幽閉・配流となって親王は配流先に向かう途中で恨みを抱いたまま死去した。親王の死後には天候異変で干ばつに飢餓・疫病が大流行し、天皇・皇后の近親者が相次ぎ死去した。その原因を陰陽道師に占わせたところ、早良親王の恨みと怨霊と結果が出た。その直後二か月後に二度の大雨で都の流れる川が氾濫し大きな被害をもたらした。和気清麻呂の建議もあって平安遷都することになった。



『浪速史跡めぐり』太平寺「十三まいり」・摂州 護国山 大阪十三仏十三番札所。北山不動。    地下鉄谷町線谷九駅から八分、都心の谷町筋の通利に面し

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『浪速史跡めぐり』太平寺「十三まいり」・摂州 護国山 大阪十三仏十三番札所。北山不動。  
 地下鉄谷町線谷九駅から八分、都心の谷町筋の通利に面し、赤いのぼりの旗が有って大きく「十三まいり」と書いてあって「十三仏まいり」とは江戸の「七五三」に対して大坂、京都で盛んに行なわれた行事で、十三歳になった男女が「虚空蔵菩薩」の縁日三月十三日、四月十三日にお参りすると福徳と知恵を授かるという。
「大阪歳時記」には(十三日に因み十三歳になる子供が夕陽ガ丘の「太平寺」と言う曹洞宗のお寺に智慧を授けてもらうためにお参りをしたものらしい。
こんな会話がつい最近まで浪速に町商人の日常に有った風景である。その願いの本尊は本堂に虚空蔵菩薩が祀られている。
本来この世の現世を、地上を受け持つ虚空蔵菩薩、地下の世界を地蔵菩薩が人々の苦悩を救う役割分担として受け持った仏様であるが、京都も「十三まいり」は盛んでかの蕪村も娘を嵯峨の法輪寺に虚空蔵菩薩に「十三まいり」をしている句がある。この寺の創建はもともと四天王寺の寺域に有って中には堂塔を外されて真言宗の龍翔寺になり、加賀の曹洞宗の超山和尚が幕府に願い出て再建したものである。元禄の頃皇室、大名の加護で栄え北側の北山不動が大いに参詣で栄えた。境内には「針塚」「筆塚」「茶筅塚」があって、北山不動が往時を偲ばせている。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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