史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

「二十二社巡り」山城国一ノ宮・賀茂御祖神社・主祭神・玉依姫命・賀茂建角身命  京都府京都市左京区下鴨泉川町59・式内社・山城国一ノ宮・二十二社・旧官幣大社・

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下賀茂神社3
「二十二社巡り」山城国一ノ宮・賀茂御祖神社・主祭神・玉依姫命・賀茂建角身命
 京都府京都市左京区下鴨泉川町59・式内社・山城国一ノ宮・二十二社・旧官幣大社・ユネスコ「世界遺産」に登録されている。下賀茂神社も上賀茂神社同様賀茂氏の氏神を祀る神社である。
祭神祀る社殿としては、東殿には賀茂皇大神・玉依媛命。西殿には賀茂建角身命が祀られている。
何と言っても京都三大祭りの「葵祭り」で古式豊かな平安絵巻の舞台でもある。上賀茂神社の賀茂別雷命の母が玉依姫命、玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀る為、下賀茂神社の社名が「賀茂御祖神社」と呼ばれている。
社伝に依れば神武天皇時代に本社の重義たる御蔭祭りの奉仕される摂社の地に降臨されたとする。
本社は天平年間に賀茂神社(上賀茂神社)から分立したとする説がある。社名が示す通り鎮座の別雷神の母神、外祖父を祀り、代々子孫の賀茂一族が社家として他家を交えず明治の新制度まで引き継いだ。
奈良時代より神威は高く、欽明天皇御世山城国をして祭を行しめたと言う。延暦十三年(794)正二位。桓武天皇の親拝があった。平城天皇の御世に勅祭とし正一位に昇格した。『延喜式』に依れば名神大社、月次、相嘗、新嘗など祈願奉幣が有った。
山城一ノ宮として朝野の崇敬厚く、二十二社の内上七社に入り、豊臣秀吉からは五百四十石の朱印を受けた。
境内には末社・摂社が点在し、河合神社・式内社(名神大社)鴨長明所縁の社がある。その他、出雲井於神社。三井神社・賀茂波爾神社・御蔭神社・日吉神社・貴布祢神社などがある。
 また八咫烏は賀茂建角身命の化身と言われ境内には「糺(ただす)の森」みたらし池がある。
上賀茂・下賀茂神社も成り立ちが同じであるが、天平年間に分離されたと言われ、弘仁元年(810)以来斎院が置かれて、皇女が斎王として賀茂社に置かれた。
★『古事記』に出てくる神として、賀茂建角身命は八咫烏の化身とされ、神武天皇の東征で大和に向かう熊野で危機を救った金鵄八咫烏として崇められている。
賀茂(かも)建(つ)角(み)身命(みこと)は日本神話に出てくる神で、山城の賀茂氏(賀茂県主)の祖師である。賀茂御祖神社(下賀茂)の祭神である。
『新選姓氏録』に依れば賀茂建角身命は神魂命の孫である。また神武天皇の東征の際天照大神・高木神の命を受けて日向の曾の峰に天下り、大和は葛木山に至り、八咫烏に化身をして神武天皇を先導した。
その後『山城風土記』には、大和から葛木山から山代の岡田の賀茂に至り、高野川と鴨川の合流点に鎮まった。賀茂建角身命には二柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主になる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神を床の近くに置いていた所、賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)を妊娠をした。


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淡路島七福神めぐり 毘沙門天・覚住寺・毘沙門天さんは金の鎧

覚住寺 (7)
覚住寺 (6)
淡路島七福神めぐり
毘沙門天・覚住寺・毘沙門天さんは金の鎧のいでたちの毘沙門天さんは金の鎧で魔を寄せつけず、悪行煩悩を押さえつけ、清く、正しく、力強く生きる勇気の守護神が毘沙門天さんです。
覚住寺は推古朝の頃に聖徳太子の勅詔によって創建されたという。
この寺は淡路島でも最古の寺院と言う。

『戦国時代の群像』135(全192回) 「井伊直政」(1561~1602)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。

井伊2
井伊1
『戦国時代の群像』135(全192回)
「井伊直政」(1561~1602)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。
上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。兜は天衝脇立朱漆塗頭形兜。徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。
自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。
遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。
また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。
その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。幼名は虎松。
井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、当時の井伊家当主である井伊直盛(直政の父の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。
父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。当時、虎松はわずか2歳であったため、新たに直親の従妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。
虎松も今川氏に命を狙われたが、新野親矩が今川に助命して新野のもとで直政とその母は暮らす。しかし永禄7年(1564年)、新野親矩が討死し、そのまま新野の妻のもとで育てたとも、井伊直盛の正室と直政の実母が養育したともいうが、永禄11年(1568年)、甲斐の武田が今川を攻めようとした際、井伊家家老の小野但馬は今川からの命令として、直政を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、直政を出家させることにして浄土寺、さらに三河鳳来寺に入った。
天正2年(1574年)、直政が父の13回忌のために龍潭寺に来た時、井伊直盛の正室(井伊直虎の母)・井伊直虎・龍潭寺の住職・直政の母が相談し、家康に仕えさせようとするが、まずは鳳来寺に帰さないために直政の母が松下源太郎に再嫁し、直政は松下家の養子になったことにしたという。
天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた。
万千代は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立てた。
天正10年(1582年)、22歳で元服し、直政と名乗る。この年、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する(結婚は天正12年説あり)。
同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国、甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、士大将になった。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになる。
その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。また、同時に井伊谷4万石に加増されたという説あり。このころから、「兵部少輔」を称する(「兵部大輔」とあるのは誤記)。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えの部隊を率いて武功を挙げ、一躍天下に名を知られるようになる。
また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような前立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。
天正13年(1585年)、真田攻めの撤退を指揮するために上田に派遣される。この後、井伊谷6万石に加増されたという説あり。
天正14年(1586年)10月、家康が上洛し、秀吉に臣従すると、直政の武力・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜したという。
天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次を始め、古参の重臣達が諸大夫に留まる中、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった。
この時に「井侍従藤原直政」という署名が見られ、豊臣姓ではなく藤原姓を称した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。
同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。
先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされているが、笠谷和比古によると実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦に求めるべきとされている。
家康から諸将に七月七日付で出されている軍法の第四条で抜け駆けを厳禁している。そもそも合戦開始時においても、合戦後においても福島から井伊に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、井伊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている。
その後の直政と忠吉の行動に関しては、宇喜多秀家・小西行長の軍と戦った、敵中突破退却を図ろうとする島津義弘の軍と戦ったと言う2説があるが、最近では島津軍と戦ったという説が有力であるとされている。この戦いで義弘の甥である島津豊久を討ち取った。
しかし、退却する島津軍を百余騎率いて猛追し、遂に義弘の目前まで迫り、いざ義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤が撃った銃弾が右肘関節(記述によっては右肩または左腕)に命中し落馬してしまう。
あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追い付けず、単騎駆けのような状態であったという。関ヶ原の戦いで大怪我を負ったにも関わらず、精力的に戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和などに務めた。
家康への全面的な忠節を誓わせた輝元からは、直政の取り成し、特に、周防・長門の二カ国が安堵された事に大いに感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文が直政に送られた。
慶長7年(1602年)2月1日に、おそらくは長年の家康に対する奉公による過労と関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、 破傷風が元で]死去した。
直政が死去した当初、地元の民衆達の間で三成の怨霊が城下を彷徨っているという噂が広まって、このことが家康の耳に入り、家康の命によって、佐和山城を始めとする三成に関係する物の全てを廃した。[
その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となった。代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれた。それ以来、この地は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄えることとなった。
家康は、西国の抑えと、非常時に朝廷を守るため、京都に近い彦根に徳川最強の軍団である井伊家を配したと伝えられ、これを見ても徳川家から強い信頼を受けていたと考えられる。
家康は、徳川最強軍団である井伊家を率いる当主を誰にするかは重要な問題であったことから、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に出兵するに際し、直政の跡継ぎとして井伊家の軍団を率いる大将には、それまで名目上の井伊家当主であった直政長男の井伊直継には能力がなかったことから(表向きは病弱とする)、次男である井伊直孝を指名した。遺体はその遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付された。その跡地に長松院を創建した。


『歴史の時々変遷』(全361回)206“秀吉の四国攻め“ 「秀吉の四国攻め」安土桃山時代の

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秀吉2
『歴史の時々変遷』(全361回)206“秀吉の四国攻め“
「秀吉の四国攻め」安土桃山時代の天正13年(1585)に行われた、羽柴秀吉と長宗我部元親との戦争である。
資料によっては四国征伐、四国の役、四国平定などの呼称も用いられる。これに加えてウィキペディアでは、本能寺の変によって中断された1581年(天正9年)から1582年(天正10年)にかけての織田信長による四国進出の過程についても説明する。
天正3年(1575年)、土佐を統一した長宗我部元親は家臣の反対を押し切り、中島可之介を使者として織田信長の元に派遣した。
目的は元親の長男弥三郎の烏帽子親を信長に引き受けてもらうことだった。交渉は成功し、信長は弥三郎に一字を与えて信親と名乗るよう返書を出した。
この時信長は元親に阿波での在陣を認め、また「四国は切り取り次第所領にしてよい」という朱印状も出したとされる。
天正8年(1580)6月、元親は香宗我部親泰を安土に派遣し、阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。
また阿波征服のために、康俊の父三好康長が長宗我部氏に敵対しないように信長から働きかけてくれるよう依頼し、いずれも了解を得た。この頃は明智光秀が取次役として、元親・信長の交渉窓口となっていた。
なお、この時のことを記した『信長公記』天正8年6月22日条において、元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現していることが注目される。
この「捕佐(=輔佐)」の意味については不詳とされてきたが、この当時の土佐国は長宗我部氏によって統一されていたものの、土佐一条家の当主である一条内政が未だに元親の庇護下に置かれており、信長は内政=国主・元親=輔佐すなわち陪臣と位置づけたと解する説が浮上した。
つまり、信長は長宗我部氏の土佐支配そのものを暗に否認して元親の行動に一条家の家臣として織田政権の秩序に従属するように求めたというのである。
なお、一条内政は天正9年(1581年)2月に反乱に連座して、元親によって土佐から追放されているが、これは単なる土佐国内の問題ではなく、天正8年6月以後の状況の変化によって元親の織田政権政策が強硬寄りに変更されて「信長ー内政ー元親」の秩序を拒否した結果とされている。
天正9年(1581年)3月、康長は讃岐から阿波に入り、式部少輔を長宗我部氏から離反させた。
同年6月、信長から香宗我部親泰に朱印状が与えられた。その内容は長宗我部氏と三好氏が協力することを求めるもので、信長の四国政策が三好氏寄りに変更されたことを示すものだった。
長宗我部氏から圧力を受けた阿波の三好氏、伊予の河野氏や西園寺公広らは信長に救援を求めたため、信長は元親に土佐及び阿波南半分の領有のみを許し、他の占領地は返還するよう命じた。
しかし元親は、四国征服は信長が認めたことであり、また獲得した領地は自力で切り取ったものであり信長の力を借りたものではなく、指図を受けるいわれはない[6]とはねつけた。光秀は石谷頼辰を派遣して元親を説得したが、おそらく天正9年(1581年)後半頃[7]には織田・長宗我部の交渉は決裂した。
一方、長宗我部氏は信長と対立関係にあった毛利氏とも協調関係にあった。両氏に関係が生じたのは、阿波の親長宗我部勢力であった大西覚用が遅くても天正5年(1577年)2月までに毛利方に通じたために4月に長宗我部氏が大西氏を攻めたものの、同年7月までに毛利氏が現状(大西氏の長宗我部氏への服属)を認めて以降のことであり、大西氏や讃岐の親毛利勢力で天正7年(1579年)以降長宗我部氏の傘下に入った。
香川信景を通じて協調関係にあったと考えられるが、長宗我部・織田の決裂に伴い、天正9年(1581)8月までには讃岐天霧城にて対織田同盟を結んだ。
また東伊予の金子元宅とも天正9年(1581)中には同盟を結んだ。北海道大学助教で長宗我部氏関係の論文を多く発表している平井上総によると、長宗我部氏から見れば瀬戸内海に影響力を持つ毛利氏との連携は元来は三好氏との交戦中に毛利氏が三好氏と結びついて軍事衝突に至る事態を回避する目的を主としており、三好氏と対立関係にあった織田氏との関係を損なうものではないと判断していたのに対し、信長から見れば毛利氏討伐を本格化させる中で織田氏・毛利氏双方と関係を保とうとする長宗我部氏の外交姿勢に対して次第に不信感を抱き始めた側面があったと指摘している。
同年9月までに、篠原自遁や東讃岐の安富氏も小寺(黒田)孝高を介し、当時中国攻めの任にあった秀吉に人質を差し出して従属した。これに伴い、秀吉は孝高に淡路攻撃を指示した。
10月、秀吉は当時淡路志知城に進出していた孝高に、長宗我部氏に抵抗する篠原の木津城及び森村春の土佐泊城への兵糧・弾薬の補給を命じた。1
1月中旬、秀吉は自ら池田元助と共に淡路に渡り、まず由良城の安宅貴康を降した。
次いで岩屋城を攻略して生駒親正に守備させ、仙石秀久に淡路の支配を命じた。また安富氏の秀吉への従属により、安富氏の勢力圏であった小豆島も同年中には秀吉の支配下に入った。天正10年4月には塩飽諸島も能島村上氏から離反して秀吉に属した。

“日本名僧・高僧伝”80・横川景三(おうせんけいさん、永享元年(1429年) - 明応2年11月17日(1493年12月25日))は、室町時代中期から後期にかけての禅僧(臨済宗)。

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“日本名僧・高僧伝”80・横川景三(おうせんけいさん、永享元年(1429年) - 明応2年11月17日(1493年12月25日))は、室町時代中期から後期にかけての禅僧(臨済宗)。
後期五山文学の代表的人物。室町幕府8代将軍足利義政の側近、外交・文芸顧問。横川は道号で、法諱が景三。他に金華、小補、補庵、万年村僧などとも号する。
永享元年(1429年)播磨で生まれる。4歳の時、京の相国寺常徳院の英叟に僧童として仕える。嘉吉元年(1441年)3月、英叟の師・曇仲道芳の三十三回忌にあたり、13歳にして東山養源院において頂相を拝して師資の礼を結び、薙染(剃髪染衣)した。
13歳、3月、三十三回忌など「三」という数にまつわる因縁が深いため「景三」の法諱を与えられた。竜淵本珠・瑞渓周鳳・春渓洪曹らに教えを受け、学問に励む。応仁の乱の勃発に際し、友人桃源瑞仙とともに戦火を避けて近江に移り、同国の豪族小倉実澄の帰依を受け、永源寺内に識廬庵を結んで居住した。
文明4年(1472年)には京へ戻る。管領細川勝元が相国寺内に創建した小補軒を与えられ、そこへ住む。文明10年(1478年)2月等持寺の住持となり、同3月曇仲の法を嗣いだ。
文明12年(1478年)には相国寺の住持(この後も2度務める)。同18年には相国寺開山の夢窓疎石をまつる崇寿院(開山塔)の塔主に遷任。
長享元年(1487年)11月には南禅寺住持となり、前将軍足利義政より金襴の僧伽梨を受けるが、南禅寺には入らなかった。
しかし義政との交流は深く、この頃建設中の東山山荘(慈照寺)に頻繁に招かれて参考意見を求められている。同寺の有名な「東求堂」「同仁斎」の名は、横川が挙げた候補の中から義政自らが撰したという(それぞれ六祖大師法宝壇経「東方人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」、韓愈「聖人、一視同仁」より)。
横川はこの他に観音殿の下層心空堂の扁額なども揮毫している。また同じく義政に伺候していた絵師・狩野正信(狩野派の祖)の初期の作品「観瀑図」に賛辞を添えている。
上記のごとく、横川は東山文化を支えた足利義政のサロンの重要な構成員であった。延徳2年(1490年)5月相国寺鹿苑院の院主に擬せられるも、固辞。明応元年(1492年)12月重ねて要請されたため、鹿苑院院主兼僧録司に就任したが、半年で辞した。
晩年は近江と京を往復しつつ、多くの弟子を育て、明応2年(1493年)11月、小補軒で入寂。享年65。著に『補庵集』『補庵絶句』『補庵京華集』『小補東遊集』『百人一首』など、日記として『小補軒日録』がある。門弟も数多く、同年代の万里集九とともに、義堂周信・瑞渓周鳳から連なる五山文学における中・後期の巨星であった。
後年、江戸時代前期に記された『菟芸泥赴』などの史料によると、京都の晩夏を彩る五山送り火の大文字山(如意ヶ嶽)の「大」の字は、横川の筆跡によるものだという(「大」の字の筆者については多くの説が存在する)。


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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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