史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

「神仏霊場巡り」長浜八幡宮・JR長浜駅から東に森が見えてくる。 鳥居、拝殿、本殿が南北に並ぶ神社が長濱八幡宮である。古くは坂田八幡宮、将軍山新放生寺八幡宮

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「神仏霊場巡り」長浜八幡宮・JR長浜駅から東に森が見えてくる。
鳥居、拝殿、本殿が南北に並ぶ神社が長濱八幡宮である。古くは坂田八幡宮、将軍山新放生寺八幡宮と称した。祭神は誉田別命・息長足姫命・足仲彦命で応神天皇と神功皇后と仲哀天皇八幡神が祀られている。
源義家が延久元年(1069)に三条天皇勅願を受けて石清水八幡宮より勧請し祀り、以来庄内十一郷の産土神社として地元の崇敬を受けている。朝廷や武将の崇敬深く足利義政が社殿造営し、三重の塔を建立、太刀、神馬を奉納した。
湖北の浅井氏も社領、太刀、神馬を奉納したが、元亀・天正の戦乱に焼失した。その後天正二年(1573)に長浜城主になった秀吉に再建に務めた。
この長浜天満宮も神仏習合で境内の横に寺院があって盛時には社領三千石、一山七三坊と伝えて栄えた。

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淡路島七福神めぐり 福禄寿・長林寺・福禄寿は「分を超えて求めることなく財を費さず」陰徳を積む者は福に恵まれる」福の縁に結ばれる。

長林寺 (5)
長林寺 (7)
淡路島七福神めぐり
福禄寿・長林寺・福禄寿は「分を超えて求めることなく財を費さず」陰徳を積む者は福に恵まれる」福の縁に結ばれる。
長林寺の縁起は天平9年(737)行基菩薩がこの地に七伽藍を創建し、本尊十一面観音菩薩像を安置創建したのが始まりと言う。

『戦国時代の群像』138(全192回) 寺沢広高(1563~1633)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。肥前唐津藩

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『戦国時代の群像』138(全192回)
寺沢広高(1563~1633)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。肥前唐津藩の初代藩主。尾張の生まれ。
はじめ、父・広政と共に豊臣秀吉に仕えた。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵に際しては肥前名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次を担当し、長崎奉行にまで出世した。
奉行時代の1594年にキリシタンに改宗したが、1597年の日本二十六聖人処刑を契機に棄教。貿易統制から朝鮮に出兵した日本軍の補給や兵力輸送の任を務めた。
小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれた。秀吉死後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。戦後に関ヶ原の戦功によって天草4万石を加増された。豊臣政権の時代、九州取次であった。
豊臣政権の公儀権力が徳川に移ってからは「秀吉の取次」から「家康の取次」として公的地位を新たにした。
関ヶ原の戦い以降も実権を握った家康と西軍だった島津氏との戦後処理の交渉を仲介するなどしたが、時と共に取次の役割は家康の家臣に委ねられた結果、権力を失った。唐津城を築城し、天草の飛び地を含めると12万3千石を領する大名となり、天草領を治めるために富岡城を築くなどし、城代・代官を派遣して統治した。
唐津や天草の土着豪族を弾圧したが、その結果、唐津は安定し繁栄した。他方、当初はキリシタンの弾圧を公然とは行っていなかったが、1614年の禁教令以後、厳しく棄教を迫るようになり、晩年には拷問の手法を取るようになった。
若い頃、親友の安田国継と立身出世を夢見て、どちらかが国主になったら一方は10分の1の禄をもって家臣にしようと約束した。
広高は秀吉、国継は明智光秀に仕え、光秀が本能寺の変を起こして織田信長を殺し、国継はその時に信長に手傷を負わせたために以後は転落する人生を送ったが、広高は順調に出世し、8万石の国主時代に10分の1の8000石で国継を召し抱えて約束を果たしたという。
広高は行動派の人物で、「下に命令するところを、自ら先に立って行う事を善しとす。身をもって教えれば、口でとやかくいうよりも下僕はよく従うものだ」と語っている。
毎朝寅の刻(午前4時頃)に起きて、卯の刻(午前6時頃)には庁に顔をだし、馬場に出て騎乗してから食事をとった。
そして槍刀の稽古をした。冬の寒の前後は弓の達人を若者たちのために招いたが、自らその先頭に立って的の巻藁を撃った。
夏は鉄砲の腕を磨いて水泳をやり、皆と一緒に一汁一菜の食事をとり、武芸に励む時は粥を常に家臣と食した。公用や国政に急務が無ければ、酉の刻(午後6時頃)には寝床に入った。
広高は江戸から帰国した際には国中の視察を怠らず、普請方に命じて水害や日照りに備えさせ、税金や労役で不正が無いように目を光らせた。
唐津は畑が広く、麦がよく取れたので5月と6月は家中の食事は麦飯だったが、広高も麦飯を進んで食べた。また倹約に務め、夫人と共に木綿の衣服を好んだ。
年初めなどの行事でも塩魚、干し魚を用いた。なぜここまで倹約に務めたかというと、優れた家臣を召し抱えるためであり、広高は技能優れた武士を愛した。
広高時代の唐津藩には1000石取りの家臣が40人もおり、その士風を慕って集まる者も多かったという。
また、主従交流の場として主君を囲んでの夜話が当時は盛んだったが、広高は無用の夜話は精神を疲れさせ、明日の勤めにも影響するとして好まなかった。
ある時「銭勘定も米の升目も知らなかった者が関ヶ原で潔く死に、この者こそ真の武士である」と褒め称えていたのを聞いて、「それは違う。世を迂闊と心得た役立たずだ。
そうした者は生活に困って飢えをしのげず、武具も売り払ってしまう。むしろ関ヶ原で死んで幸せだった」と時代の見えない精神だけの武士として批判した。
新田開発を行う際、防風林を造成し手厚く保護した。防風林は名勝虹の松原として現在まで存続している。慶長6年(1601年) 、関ヶ原の戦いの戦功報償として肥後天草を加増されたおり、広高は天草の石高を合計約42,000石と算定したが、これは天草の実状を無視しており、実態の倍という過大な値だった。
このため以後の徴税が過酷となり、広高の没後、嫡子堅高の代に島原の乱(1637年~1638年)が勃発する原因の一つとなった。乱の平定後、寺沢家は責任を問われ天草領は没収、失意の堅高は後に自殺し寺沢家は断絶した。
しかし根本原因である過大な石高の半減を幕府が認めるには万治2年(1659年)まで掛かった。更に寛文11年(1671年)、天草はそもそも私領に適さないとして幕府直轄領となった。寛永10年(1633年)死去、享年71。
墓所は唐津市鏡の鏡神社境内にある。墓所は地元では志摩様(しまさま)として慕われ、毎年春、桜の花見の時期に小宴が催されてきた。

『歴史の時々変遷』(全361回)208“清洲会議“ 「清洲会議」安土桃山時代の天正10年6月27日(1582)に開かれた、織田氏の継嗣問題及び領地再分配

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『歴史の時々変遷』(全361回)208“清洲会議“
「清洲会議」安土桃山時代の天正10年6月27日(1582)に開かれた、織田氏の継嗣問題及び領地再分配に関する会議である。清須会議の表記が使用される場合もある。
天正10年6月の本能寺の変において、織田家前当主織田信長は京都で家臣の明智光秀によって討たれ、信長の嫡男で織田家当主であった織田信忠も二条新御所で死亡した。
光秀は山崎の戦いで討たれ、織田家後継者及び遺領の配分を決定することを目的に、尾張国清洲城(愛知県清須市)で開催された。
集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席した(直前の神流川の戦いで後北条氏に惨敗し織田氏の勢力を関東から撤退させたことを理由に、参加を拒まれたとの説もある)。
一次史料である「金井文書」「多聞院日記」などによると、織田家の後継者問題では信長の二男・織田信雄と信長の三男・織田信孝が互いに後継者の地位を主張し引かなかったため勝家・秀吉ら宿老たちが事前に信長の嫡孫である三法師を仮の御名代とする事で双方了解済みであったことが記されている。
一般的に小説やドラマなどで流布されている秀吉が三法師を擁立し勝家が信孝を後継者に推して対立したというイメージは江戸期に入ってから成立した川角太閤記が初出である。
一番の争点であった領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は、明智光秀の旧領である丹波国を相続した。
家臣団へは、勝家は越前国を安堵の上で、勝家の希望で秀吉の領地である長浜城と北近江3郡の割譲が認められ、長浜城は養子の柴田勝豊に与えられた。
長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の2郡を、恒興は摂津国から3郡を、それぞれ加増された。新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城国が与えられた。


“日本名僧・高僧伝”82・蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。

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“日本名僧・高僧伝”82・蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。
本願寺中興の祖。同宗旨[3]では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。
しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。父は第7世存如。広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。
他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。
応永22年2月25日(1415年4月13日[2])、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子として生まれる。
母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、信太(現在の大阪府和泉市)の被差別部落出身だったともいう[5][6]。幼名は布袋丸。
応永27年(1420年)、蓮如6歳の時、存如が本妻如円尼を迎える。この時点で生母は本願寺を退出しその後の行方は分かっていない。
蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。
永享3年(1431年)17歳の時中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度し名を中納言兼壽と改める。その後、本願寺と姻戚関係にあった大和興福寺大乗院の門跡経覚(母方が大谷家(本願寺)の出とされ、父存如の従兄弟と推定されている)について修学。
父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。
永享6年(1434年)5月12日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。
永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲り、4年後の永享12年10月14日(1440年11月17日)に死去した。嘉吉2年(1442年)に第1子(長男)順如が誕生する。文安4年(1447年)父と共に関東を訪ね、また宝徳元年(1449年)父と北国で布教する。
享徳4年(1455年)11月23日、最初の夫人、如了尼が死去する。長禄元年(1457年)6月17日、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。
留主職(本願寺派における法主)継承にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。
なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。
この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった近江比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。
これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。
応仁3年(1469年)、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年)12月5日、第二夫人蓮祐尼が死去する。
文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。
7月27日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。
文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。
だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った。
文明7年(1475年)8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。文明10年(1478年)1月29日、山科に坊舎の造営を開始。
8月17日、第三夫人如勝尼が死去。文明13年(1481年)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。
文明14年(1482年)には真宗出雲路派毫摂寺第8世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて合流してきた。
文明15年(1483年)8月22日、山科本願寺が落成する。同年、長男順如が死去。長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。
同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息[7]を送って一揆を諌めた。延徳元年(1489年)、75歳。寺務を5男の実如に譲り、実如が本願寺第9世となる。
明応2年(1493年)、真宗木辺派錦織寺の第7代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の40ヶ所の門徒を引き連れて本願寺に合流した。
蓮如は山科南殿に隠居して「信證院」と号する。明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした(後の石山本願寺)。明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。
3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没した。妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。





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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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