「一ノ宮巡り」坐摩神社・祭神生井神・福井神・波比岐神・阿須波神 大阪市中央区久太郎町4の3・式内社・旧官幣中社・

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「一ノ宮巡り」坐摩神社・祭神生井神・福井神・波比岐神・阿須波神
大阪市中央区久太郎町4の3・式内社・旧官幣中社・
大阪の都心の中心にあって地域の守護神社として、南御堂の西側に隣接し、入り口に大小三つの「三つ鳥居」が見える。祭神は生井(いくいの)神(かみ)・福井(さくいの)神(かみ)・綱(つな)長井(ながいの)神(かみ)・波比祇(はひきの)神(かみ)・阿(は)須波(すはの)神(かみ)の五柱を神武天皇が高皇産霊神と天照大神の神勅を受けて宮中に祀ったのが起源とされている。
創建は徳天皇の難波高津宮の皇居であり、宮中の地霊を祀る為に鎮座されたと言う。
社名について「坐摩巫」には都下(つげ)国造(くにのみやつこ)の七歳以上の童女を充てるとされ、西からくる穢れを祓う儀式が行われるのに由来をしているのではないかと思われる。
都下については淀川の河口一帯を指すとされ、世襲宮司の渡辺氏が、この都下国造の末裔であり。嵯峨源氏の流れを汲むものと言われている。
『延喜式神名帳』では摂津国西成唯一の大社に列し、住吉大社と同一に摂津一ノ宮を称している。
天正十一年(1583)大阪城築城に際して、西横堀川に近い現在日に遷座をしてきた。
また境内には「陶器神社」があって江戸時代には、この界隈には陶器問屋が軒を連ねていた。その名残に末社に「冬季神社」を祀っている。
明治以前まで、府社に列していたが昭和十一年に旧官幣中社に昇格した。しかしその時の新社殿も大阪大空襲で焼失し現在のような鉄筋に建て替えられた。
近年上方落語の発祥の地として初代桂文治が寄せを開いた故事に則り、境内に「上方落語の発祥の地」の石碑が建立された。
★創建については『古事記』にある神功皇后の三韓征伐より帰還した時に淀川河口に坐摩神を祀ったことに由来する。
今日でも旧社地に坐摩神社の行宮には「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている


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 「神仏霊場巡り」百済寺・山号は釈迦山「古東三山」で最も南にあって、金剛輪寺、西明寺と並んでいる。百済寺は推古天皇御世(606年)聖徳太子の御願で創建され

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 「神仏霊場巡り」百済寺・山号は釈迦山「古東三山」で最も南にあって、金剛輪寺、西明寺と並んでいる。百済寺は推古天皇御世(606年)聖徳太子の御願で創建され、寺伝に似れば高句麗の僧、恵慈と共にここに訪れた際、山中に不思議な光る物が見え、近寄って見ると霊木の杉であった。
根が付いたままに観音像を刻むと像を中心に堂を建立した。御堂は百済の龍雲寺を模したと言い、近江最古の由来を誇る。
比叡山の延暦寺が開かれると、百済寺も天台宗の寺院となった。湖東の小比叡山と称され、鎌倉時代には天台別院と呼ばれ、周辺を含め一山寺坊千を数え、千三百人の僧が居たと言われている。その後、六角氏の内紛に巻き込まれ、また織田信長の比叡山焼打ちに一山が灰と化した。
その後天海の高弟亮産によって再建された。

「平安京物語」3”他戸親王失脚“親王の父・白壁王は天智天皇の孫である。だが、既に皇位が天武天皇系に移されて久しく、王自身

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「平安京物語」3”他戸親王失脚“親王の父・白壁王は天智天皇の孫である。だが、既に皇位が天武天皇系に移されて久しく、王自身も皇族の長老ゆえに大納言の高位に列しているだけの凡庸な人物と見られていた。だが、称徳天皇の時代、天武系皇族は皇位継承を巡る内紛から殆どが粛清されており、めぼしい人物がいなかった。このような状況下で、天智天皇の曾孫で母親も聖武天皇(天武天皇の嫡流)の内親王である他戸王(当時は親王ではない)が注目されるようになる[1]。やがて称徳天皇が亡くなると藤原氏は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する。かくして宝亀元年(770年)に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。翌宝亀2年1月23日には他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。ところが宝亀3年(772年)、突如母親である皇后井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆のかどで皇后を廃され、5月27日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀4年10月19日には、同年10月14日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)4月27日、幽閉先で母と共に急死する(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。かくして、山部親王が皇太子に立てられてやがて桓武天皇として即位する事になるものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両朝を悩ませる事になっていくのである。

『戦国時代の群像』167(全192回) 長宗我部盛親(1575~1615)安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の大名・武将

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『戦国時代の群像』167(全192回)
長宗我部盛親(1575~1615)安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の4男。戦国大名としての長曽我部氏の最後の当主。父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、兄・津野親忠を殺したことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大坂城に入城、大坂の陣が勃発し、戦闘に参加したが敗北した。天正3年(1575年)、長宗我部元親の4男に生まれる。幼名は千熊丸。天正14年(1586年)の戸次川の戦いで長兄の長宗我部信親が戦死すると、兄の香川親和や津野親忠を推す一派と家督相続をめぐって争うが、父の後押しがあり、天正16年(1588年)に世子に指名された。この家督相続には吉良親実をはじめとして反対する者が少なくなかった。その理由のひとつは、元々盛親は兄弟の中でも傲慢で短気な性格から人望が薄く、嫌悪感を持つ者がいたからである(しかし元親はそれらを全て処断している)。元親が少年である千熊丸を世子に指名した理由は、親和と親忠は他の家系を既に継いでいたこと、何よりも溺愛していた信親の娘を娶わせるには上の2人では年齢差がありすぎたためともされている。豊臣氏の一門ではなく増田長盛を烏帽子親として元服し、「盛」の一字を授かって盛親と名乗ったことから、豊臣政権下において長宗我部家の格付けは低かったとされる。長宗我部家の家督に決定した後、父・元親と共に長宗我部氏の共同支配者として二頭政治を行い、豊臣氏による天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの朝鮮出兵に参加する。また、文禄3年(1594年)以降、知行宛行権が盛親に移譲されたが、これ以外の大名当主としての権限は変わらずに両人が共有していた[11]。更に慶長2年(1597年)3月24日に父の元親と共に制定した「長宗我部元親百箇条」を発布している。だが、こうした流れの一方で、家督継承の経緯の異常性からか、豊臣秀吉及び豊臣政権は盛親を長宗我部氏の当主として最後まで認めなかったとする見方がある。武家官位を重要視する豊臣政権は大名およびその後継者に一定の官位を授けていたが、盛親が官位を受けた記録は無く、公式には通称の「右衛門太郎」のままであり(「土佐守」などは非公式な通称とされる)、これは大名当主としては異様である。慶長4年(1599年)5月、父・元親の死去により、家督を継いで土佐の国主となる。だが、その後も盛親の長宗我部氏の家督と土佐の国主の継承を豊臣政権が承認したことを示す記録は存在せず、この異常な状況は翌年の関ヶ原の戦いまで続くことになる。これに対して、慶長2年に盛親が単独で豊臣秀吉に拝謁していたことから、次期当主として承認されていたのではないかとする説もある。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。西軍に加担したのは元親生前より増田長盛や垣見一直との縁があったからとみられ、盛親参戦の動機は当主として豊臣政権から認知されることにあった。『古城伝承記』によると、盛親は当初は東軍に味方しようと決め、十市新左衛門・町三郎右衛門の二人を使者として家康に派遣しようとしたが、近江水口で西軍に道を閉ざされ、西軍に味方をすることに決めたとされるが、山本大によると、盛親と増田長盛の関係を考えるとこの話の真偽は疑わしいのではないかとしている[17]。盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かい、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊・長束正家らとともに家康本陣背後の南宮山に布陣した。しかし、合戦においては徳川家康に内応する吉川広家によって毛利隊は動けず、毛利隊の後方に布陣していた長束隊や長宗我部隊も毛利隊の動向が分からず、動くことができなかった。最終的に戦闘に参加しないまま西軍は壊滅した。西軍壊滅後、盛親は西軍の壊滅を島津義弘の知らせと吉田重年の偵察で知った。盛親は池田輝政軍や浅野幸長軍の追撃を受けて多羅尾山に逃れ、伊賀から和泉に逃れて小出吉親の追撃を受けて大坂の天満に引揚げて、土佐へ帰った。その後、盛親は懇意にあった徳川氏の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしたが、『土佐物語』などでは改易の原因を家臣・久武親直の讒言から兄の津野親忠を殺害したため、家康の怒りを買って領土没収で改易されたとしている。ただし、井伊直政の書状によると盛親は土佐を没収される代わりに「御堪忍分」という形で替地を与えられる予定であり、盛親の上洛はそれに応じたものだったようだ。しかし接収時に国替えに不満な家臣や吉良・津野などの遺臣が国元で浦戸一揆を引き起こし、その責任を問われ「御堪忍分」の支給を反故にされ改易という形になったことが伺える。一方で津野親忠殺害の是非については触れられた様子がない。[27] 大名家としての長宗我部家はこのときをもって滅亡し、一領具足で鳴った勇猛な家臣団は各地の大名に誘われ再仕官する者、浪人となった者、元の百姓に戻った者など、散り散りになった。浪人となった盛親は京都の町人に預けられ、上立売の柳ヶ逗子で蟄居生活を送る事になった。大岩祐夢と称して、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれるが、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もある[30]。また清原秀賢と交友があったとの記録も残っている。いずれにしても反徳川の火種になり得る危険人物として京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれていた。慶長19年(1614年)秋、大坂方と徳川方との間が風雲急を告げる中、盛親は豊臣秀頼の招きに応じて京都を脱出する。わずか6人の従者と共に出発したが、土佐時代のかつての旧臣や浪人などと合流し1000人もの軍団となり、10月6日に大坂城に入った。9月に京都所司代の板倉勝重は盛親に大坂入城の是非を詰問し、盛親は此度は関東方に味方して戦功をたて微録を得たいと念願しており、浅野長晟とも旧約を結んでいると答えて勝重を油断させ、10月6日に大坂入城を果たした。[32]。さらにこれに応じて長宗我部家の再興を願う中内総右衛門を初めとする旧臣たちも入城し、大坂城に集結した牢人衆の中では最大の手勢を持つに至った盛親は、真田信繁、後藤基次、毛利勝永、明石全登とともに、いわゆる「五人衆」に数えられる主力部隊となった。こうして大坂の陣が始まり、籠城戦となった冬の陣では豊臣家重臣の木村重成、後藤基次らとともに八丁目口・谷町口に布陣し、真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担った。12月4日に真田丸の戦いが始まると、城内の火薬庫が爆発した事故を南条元忠の寝返りの合図と勘違いして押し寄せてきた井伊直孝隊・松平忠直隊に応戦し、損害を与えて退却させた。しかしこれ以外に大規模な戦闘は発生せず、膠着状態のまま大坂方と幕府方の間に和議が成立する。野戦となった夏の陣では木村重成とともに徳川家康の本陣を突くべく5千余の主力軍勢を率いて出陣し、徳川方の藤堂高虎隊と激突する。八尾・若江の戦いである。慶長20年(1615年)5月6日の未明、八尾に進出していた長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂高虎の軍勢と遭遇した。この時、長宗我部隊の先鋒は軽装備であったためすぐに本隊と合流しようとしたが、逆に藤堂隊にも発見されてしまう。鉄砲を撃ち込まれた先鋒は壊滅し、吉田重親は本隊に伝令を発したのち討ち死にした。藤堂隊は勢いに乗じて長宗我部本隊を殲滅しようと攻勢を強めるが、盛親は川の堤防に兵を伏せ、藤堂隊を十分に引き付けたところで槍を構えた兵を突撃させた。思わぬ猛反撃を受けた藤堂隊の先陣は一気に壊滅、盛親はなおも攻撃の手を緩めなかったため藤堂隊はほぼ全軍が混乱に陥り、高虎の甥の藤堂高刑など前線の将が一度に討ち死にする。統制が乱れた藤堂隊は高虎自身も逃げ回らざるを得ない潰走状態となった。しかし、盛親隊と並行して若江へ進んでいた大坂方別働隊の木村重成が井伊直孝らの軍勢との戦闘で壊滅し、ほどなく井伊隊が藤堂隊の援軍に駆けつける。この報を受けた盛親は敵中での孤立を余儀なくされ、やむなく大坂城へ撤退した。5月11日に京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを蜂須賀至鎮の家臣・長坂三郎左衛門に見つかり捕らえられ、伏見に護送された[37]。その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして5月15日に京都の六条河原で斬られた。享年41。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡した。京都の蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名した。


『歴史の時々変遷』(全361回)238“方広寺鐘銘事件” 「方広寺鐘銘事件」慶長19年(1614)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿

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『歴史の時々変遷』(全361回)238“方広寺鐘銘事件”
「方広寺鐘銘事件」慶長19年(1614)、同14年から豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させている。且元は駿府の家康へ大仏開眼供養の導師や日時の報告などを逐次行っているが、開眼供養と大仏殿供養の日取りや供養時の天台宗・真言宗の上下を巡り、対立が生じていた。7月26日、家康は片桐且元にあてて、開眼・大仏殿供養日が同日であることと、大仏殿棟札・梵鐘銘文が旧例にそぐわないことに加え、その内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。8月に家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させた。羅山は銘文に家康呪詛の意図があると断じたが、一方で五山の答申は概ね、諱を犯したことは手落ちとしたものの、呪詛意図までは認めず、相国寺のように「武家はともかく、五山では諱を避けない」との指摘を付記するものもあった。また清韓自身は、あくまで家康に対する祝意として意図的に諱を「かくし題」として織り込んだと弁明している。「国家安康」について五山の僧の見解を、江戸時代に編纂された史料である『摂戦実録』(大日本史料第十二編之十四)は次のように伝えている。宮本義己は「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」としており、この考え方は以下に述べるように笠谷和比古や渡邊大門に影響を与えている。 この事件は豊臣家攻撃の口実とするため、家康が崇伝らと画策して問題化させたものであるとの俗説が一般に知られているが、上記にあるように、いずれの五山僧も「家康の諱を割ったことは良くないこと」「前代未聞」と回答し、批判的見解を示したものの、呪詛までは言及しなかった。しかし家康の追及は終わらなかった。例え、銘文を組んだ清韓や豊臣側に悪意はなかったとしても、当時の諱に関する常識から鑑みれば、このような銘文を断りなく組んで刻んだ行為は犯諱であることには違いなく、呪詛を疑われても仕方のない軽挙であり、祝意であっても家康本人の了解を得るべきものであった。姓が用いられた豊臣と、諱が用いられた家康の扱いの差についての指摘もある。家康のこの件に対する追求は執拗であったが、家康の強引なこじつけや捏造とはいえず、崇伝の問題化への関与も当時の史料からみえる状況からはうかがえない。しかし、崇伝も取り調べには加わっており、東福寺住持は清韓の救援を崇伝へ依頼したが断られている。清韓は南禅寺を追われ、戦にあたっては大坂城に篭もり、戦後に逃亡したが捕らえられ、駿府で拘禁されたまま1621年に没している。なお鐘と銘文は、方広寺にそのまま残され、現代に至っている。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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