『河内史跡巡り』富田林寺内町は、大阪府富田林市にある寺内町。江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる。富田林寺内町は、戦

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『河内史跡巡り』富田林寺内町は、大阪府富田林市にある寺内町。江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる。富田林寺内町は、戦国時代末期の永禄三年(1560年)、西本願寺派興正寺第14世・証秀が、石川西側の河岸段丘の荒芝地を百貫文で購入し、周辺四ヶ村(中野・新堂・毛人谷(えびたに)・山中田)の「八人衆」の協力で、芝地の開発、御堂(興正寺別院)の建立、畑・屋敷・町割等を行い、富田林と改めたことに始まるという(興正寺御門跡兼帯所由緒書抜)。 由緒書には上記のように記載されているが、由緒書は江戸時代の編纂物であることから確固たる信憑性を得ることは叶わない。八人衆は、この功により年寄役となり、寺内町の自治を行った。織田信長と石山本願寺による石山合戦時には、本願寺・御坊側につかなかったことから、信長から「寺内之儀、不可有別条(じないのぎ、べつじょうあるべからず)」との書状を得ることにより、平穏を保った。しかし、近年では寺内町内部に御坊派と穏健派がいたことも示唆されている。 そして石山合戦終戦後において、織田信長から再度書状を得たがそこには「河州石川郡之内富田林」と記載されていることから寺内町を否定した。 正確な否定は豊臣秀吉が1584年に蔵入地化してからという指摘もあることを留意しなければならない。江戸時代は公儀御料となり、酒造業で栄えた。また、幕末期には、19名の大組衆(杉山家、仲村家、奥谷家などの有力町人衆)により自治が行われていた。現在も多くの町屋が残り、大阪府で唯一、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。また、1986年(昭和六十一年)八月に、中心部を南北に縦断する城之門筋が建設省の日本の道100選(道の日制定記念)に選定されている
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“日本名僧・高僧伝”53・一山一寧

“日本名僧・高僧伝”53・一山一寧(いっさんいちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身。姓は胡氏。幼くして出家し、律、天台宗を学んだ後、臨済宗に転じ、天童山一山一寧1
一山一寧2
“日本名僧・高僧伝”53・一山一寧(いっさんいちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。寧一山ともいう。台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身。姓は胡氏。幼くして出家し、律、天台宗を学んだ後、臨済宗に転じ、天童山や浄慈寺などで修行を積み、阿育王寺の頑極行弥の法を嗣いだ。その後、環渓惟一らに参禅を続け、諸所を遊方した。二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した。当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓が使者に選ばれた。弘安5年(元の至元19年、1282年)の最初の渡航は悪天候によって阻まれ、弘安7年(至元21年、1284年)には対馬まで辿り着くが、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され中止された。永仁2年(至元31年、1294年)、世祖の後を継いだ成宗は再び日本の属国化を図り愚渓に三度目の使者を命ずるが老弱のため果たせず、代わりに観音寺の住職を継いでいた一山一寧を推薦した。成宗は一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の国使を命じた。正安元年(元の大徳3年、1299年)、一寧は門人一同のほかに西澗子曇を伴って日本に渡った。西澗子曇は文永8年(1271年)から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。
大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉した。それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる。
修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き、永仁元年(1293年)の地震による倒壊炎上によって衰退していた建長寺を再建して住職に迎え、自ら帰依した。円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。この他に帰一寺(静岡県賀茂郡松崎町)、慈雲寺(長野県諏訪郡下諏訪町)、信州中野の太清寺などの開山となり、正統の臨済禅の興隆に尽力した。学識人物に傑出し身分を問わず広い層に尊崇され、門下からは雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出した。自身も能筆家として知られ墨蹟の多くが重要文化財指定を受けている。朱子の新註を伝え日本朱子学の祖ともされる。文保元年(1317年)10月、南禅寺で病没。花園天皇より一山国師と諡号された。語録として『一山国師語録』がある。

や浄慈寺などで修行を積み、阿育王寺の頑極行弥の法を嗣いだ。その後、環渓惟一らに参禅を続け、諸所を遊方した。二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した。当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓が使者に選ばれた。弘安5年(元の至元19年、1282年)の最初の渡航は悪天候によって阻まれ、弘安7年(至元21年、1284年)には対馬まで辿り着くが、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され中止された。永仁2年(至元31年、1294年)、世祖の後を継いだ成宗は再び日本の属国化を図り愚渓に三度目の使者を命ずるが老弱のため果たせず、代わりに観音寺の住職を継いでいた一山一寧を推薦した。成宗は一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の国使を命じた。正安元年(元の大徳3年、1299年)、一寧は門人一同のほかに西澗子曇を伴って日本に渡った。西澗子曇は文永8年(1271年)から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。
大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉した。それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる。
修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。これを見て貞時もようやく疑念を解き、永仁元年(1293年)の地震による倒壊炎上によって衰退していた建長寺を再建して住職に迎え、自ら帰依した。円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。この他に帰一寺(静岡県賀茂郡松崎町)、慈雲寺(長野県諏訪郡下諏訪町)、信州中野の太清寺などの開山となり、正統の臨済禅の興隆に尽力した。学識人物に傑出し身分を問わず広い層に尊崇され、門下からは雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出した。自身も能筆家として知られ墨蹟の多くが重要文化財指定を受けている。朱子の新註を伝え日本朱子学の祖ともされる。文保元年(1317年)10月、南禅寺で病没。花園天皇より一山国師と諡号された。語録として『一山国師語録』がある。

『戦国時代の群像』112(全192回)毛利 輝元(1553~1625)もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立

毛利5
毛利5 (2)
『戦国時代の群像』112(全192回)毛利 輝元(1553~1625)もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国(現在の広島県)に生まれる。幼名は幸鶴丸。永禄6年(1563年)、11歳の時に父・隆元が急死したため、祖父・毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され元服し、輝元と名乗り[注 1]、実質的な当主となるが、元就が死没するまで当主権限を元就が掌握する二頭政治体制が続くことになる[1]。同年の月山富田城の戦いで初陣を飾る。元亀2年(1571年)、元就が死去すると、毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。天正2年(1574年)には15代将軍・足利義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に叙任され、室町幕府の相伴衆ともなった。その後、輝元は中国地方の覇者となるべく元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦って勝利し、さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、九州や中国地方に勢力を拡大した。ところが天正4年(1576年)2月、織田信長によって都を追われた将軍足利義昭が紀伊国の畠山領を経て毛利家領内の備後国に動座してきたため、鞆に御所を提供して保護する(この時期を鞆幕府とも呼称)。このとき義昭は、かつて織田信長に与えた桐紋(足利氏の家紋)を輝元にも与えた。また、義昭は、兄・義輝と同じく、輝元を中国地方各地の守護に任じたとされている。織田家とは義昭の処遇について折衝を重ねる等、友好関係を保っていたがさらに石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、信長と対立する。足利義昭は毛利氏のもとにおいて反信長勢力を糾合し、越後国の上杉謙信はそれまで信長と同盟関係にあったが将軍家の呼びかけにより信長と敵対する。そうした外交的背景もあり、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、7月には第一次木津川口の戦いで毛利水軍は織田水軍を破り、大勝利を収めた。また、天正6年(1578年)7月には上月城の戦いで、織田方の羽柴秀吉・尼子氏連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ。しかし3月に上杉謙信が死去、更に11月の第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫する。淡路島以西の制海権は保持したままであったが、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。天正7年(1579年)には毛利氏の傘下にあった備前国の宇喜多直家が織田信長に通じて、毛利氏から離反した。天正8年(1580年)1月には、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する(三木合戦)。翌天正9年(1581年)には因幡国の鳥取城も兵糧攻めにより開城し、毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後国の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれていく。天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せている清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃する(備中高松城の戦い)。輝元は、元春・隆景らと共に総勢4万の軍勢を率い、秀吉と対峙する。攻防戦の最中の同年6月2日、京都にて本能寺の変が発生。いち早く情報を得た秀吉は、明智光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。秀吉から毛利家の武将のほとんどが調略を受けていると知らされた毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった[3]。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。こうして毛利氏は織豊政権との和平路線へと転換することになった。信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている。賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し、秀吉に臣従した。その後は秀吉の命令で、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州征伐にも先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。戦いの最中に吉川元春・元長親子を病で失った。天正16年(1588年)7月、主な家臣を連れて上洛し、従四位下参議に任官。豊臣姓と羽柴の名字を下賜され羽柴安芸宰相と称された。天正19年(1591年)3月、秀吉より知行目録を与えられ112万石の所領を安堵された。文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣。秀次事件後の文禄4年(1595年)には従三位権中納言となり安芸中納言と称された。慶長2年(1597年)には残された両川となっていた小早川隆景が死去。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることを良しとせず、毛利家に帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元によって殺害された。同年、秀吉より五大老に任じられた。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾。7月17日、家康が居を置き政務を摂っていた大坂城西の丸を接収し、輝元が入城した[注 7]。 その後は三成に擁立された西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の秀元と吉川広家を出陣させる。九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。大友軍は東軍の黒田九州残留軍や細川九州残留軍と戦闘を行う。また、西軍方毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父蜂須賀家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波国徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。東軍方で領主不在であった伊予国の加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。しかし三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。四国・九州の毛利勢も順次撤退させる。家康率いる東軍と三成率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元は隠居のまま、秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵とする形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の29万8千石に大減封となった。関ヶ原の戦い後の10月、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、論功どおり形式的に嫡男の毛利秀就に家督を譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま実質的な藩のトップの座に君臨し続けていた。慶長8年(1603年)には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌慶長9年(1604年)、長門国に萩城の築城を開始し、居城とした。翌慶長10年(1605年)には家中統制の必要もあり、五郎太石事件に絡んで熊谷元直と天野元信らを粛清した。 慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高)36万9411石[7]に高直しを行ない、この表高は支藩を立藩時も変わることはなかった。慶長19年(1614年)からの大坂の役においては、冬の陣で密かに重臣で母方の従兄弟の内藤元盛を「佐野道可」と称させて大坂城に送り込む一方で(軍資金を提供したとも)、家康の命を受けると病を押して出陣するが、さしたる戦闘を毛利勢はほとんど行わないまま和議が豊臣・徳川の間で結ばれる。しかし、夏の陣ではなかなか出陣命令が出ず、痺れをきらした秀元隊が本隊より先駆けて豊臣軍相手に戦った(この行為は結果として家康から賞賛された)。戦後、佐野道可を大坂城に送り込んだ疑惑が幕府に伝わり、佐野道可こと内藤元盛が自害した後、口封じのためにその子内藤元珍と粟屋元豊を自害に追い込み、元珍との約束を反故にして元珍の子・内藤元宣を幽閉して、自家を守った(佐野道可事件)。この大坂の役の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。元和4年(1618年)には、輝元毒殺の謀反の企て有りとの讒言を受け、以前より不仲であった吉見広長を追討し殺害した。元和9年(1623年)、正式に隠居した。寛永2年(1625年)4月27日、萩の四本松邸で死去した。享年73(満72歳没)。このとき、長井元房という武将(元房はかつて出奔したが、輝元に帰参を許された)が殉死している(元房の墓所は輝元夫婦と同じ)。

『歴史の時々変遷』(全361回)183“三瀬の変”「三瀬の変」天正4年11月25日(1576)に伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが同日に襲撃され

三瀬4 (3)
三瀬4
『歴史の時々変遷』(全361回)183“三瀬の変”「三瀬の変」天正4年11月25日(1576)に伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが同日に襲撃され、討死した事件である。永禄12年(1569年)、織田信長は伊勢国に兵を進めて、伊勢国司9代目北畠具房と戦い、大河内城の戦いで北畠家を追い詰めた。和睦の条件として信長は次男茶筅丸(後の織田信雄)と具房の妹の雪姫を婚姻させ、茶筅丸を北畠氏の養継嗣とさせる事に成功。元亀元年(1570)に具房の父具教は出家して不智斎と号し三瀬御所(現三重県多気郡大台町)に隠居した。元亀3年(1572)に茶筅丸は元服し北畠具豊と改名、同時に雪姫と正式に婚姻の上大河内城を廃して田丸城を新たに本拠とした。天正3年(1575)には信長の圧力によって具房も隠居に追い込まれ、具豊は信意と改名し北畠家10代目当主となる。これで名実共に北畠家を掌握したかに思われた織田氏であったが、具教と立場を失ったその側近達は心服しておらず、元亀4年(1572)3月に具教は西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた。この事は天正4年(1576)には信長も知るところとなっており、この年の正月の挨拶に岐阜城に訪れた満栄を信長は待たせたまま対応せず、満栄が帰ろうとした所でわざわざ呼び戻し、進物を庭の白洲に置かせ満栄を座らせたままで縁側で刀を抜くなど挑発的な行動を見せたという。同年夏には信意が紀伊国熊野攻略を狙ったものの堀内氏善の反撃で逆に加藤甚五郎を討たれ、紀伊長島城を失うという失態を演じたが、熊野勢には元は伊勢国司の家臣であった者もいたためさらに対立は深まった。天正4年(1576)11月、ついに信長・信意親子は北畠一族の抹殺を画策。信長は藤方朝成・長野左京進・奥山知忠の3名を呼び出し領地の朱印を与えて誓紙を書かせ具教殺害を指示した。この内、奥山知忠は病と称して出家してしまい直前で計画から外れたが、長野左京進は参加し、また藤方朝成も直接の参加を避けたものの結局は家臣の加留左京進を参加させた。11月25日、滝川雄利・柘植保重・加留左京進の3名の軍勢が三瀬御所を密かに包囲。内通していた具教の近習である佐々木四郎左衛門が長野ら3人を通し、具教に面通りさせると長野がいきなり槍で具教を突き、具教はこれを躱して太刀で反撃しようとしたが佐々木に細工された太刀は抜くことが出来ずそのまま討ち果たされた。その後、三瀬御所に討ち入った軍勢によって具教の四男徳松丸、五男亀松丸らも殺害され、北の方(具教正室)らも走って逃げようとするなど御所内は大混乱となった。三瀬御所では具教と2人の子の他に北畠家臣14人の武将が殺害され、30人余りの家人もそれに殉じた。一方で信意も同日11月25日に北畠家臣やその一門を一斉に集め、この機を逃さず根絶やしにしようと計画していた。まず、朝に饗応の席と偽って田丸城へと呼び出した長野具藤(具教次男)・北畠親成(具教三男)・坂内具義(具教娘婿)の3名を招き入れて、やがて信意が合図の鐘を鳴らすと城内の北畠家臣の抹殺を命じた。日置大膳亮・土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らが一斉に組み付いて長野具藤・北畠親成・坂内具義を刺し殺すと、そのまま城内にいた坂内千松丸(具義長男)や波瀬具祐・岩内光安らも殺された。更に病の治療のために田丸に滞在していた大河内具良(教通)も標的となり、見舞いと偽って訪れた柘植保重・小川久兵衛尉が刺客となって具良を殺害した。翌日11月26日には天野雄光・池尻平九衛門尉の2人が坂内具房(具義父)らが寄る坂内御所に到着したが、既に城内では坂内の家臣たちが謀反を起こして具房を殺しており、坂内御所は具房の首を天野・池尻に差し出して降伏した。これらの知らせを聞いた田丸直昌も北畠一門の家柄であったので防備を固め警戒したが、直昌を殺すつもりは無かったのでこれは信意が使者を送って宥めた。田丸城に呼び出された北畠一門の中で助命されたのは信意の養父ということになっていた北畠具房ただ一人であり、具房の身柄は変後滝川一益預かりとなって長島城に幽閉された。

「奈良古社寺探訪」橘寺・新西国10番札所“奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺

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た橘寺j (2)
「奈良古社寺探訪」橘寺・新西国10番札所“奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇九年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。発掘調査の結果、当初の建物は、東を正面として、中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ、四天王寺式または山田寺式の伽藍配置だったことが判明している。発掘調査により、講堂跡の手前に石列が検出されたことから、回廊が金堂と講堂の間で閉じていた(講堂は回廊外に所在した)可能性があり、その場合は山田寺式伽藍配置となる。ただし、検出された石列の長さが短いことと、石列と講堂跡とが接近していることから、講堂の手前を回廊が通っていたか否かは明確でない。皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰えている。

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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